【25話】 何者
季節は冬。
肌を刺すような寒さに、身を震わせる。
氷のように冷たい修練場で、いつも通り戦気の訓練をしていた時のこと。
「アイシス、俺が教えるのは今日までだ」
スピカは唐突にそう言った。
「悪いが、しばらくはネルの育成に専念したい。今日からはシリウスがお前の面倒を見る」
スピカはアイシスに淡々とそう告げた。
破門、という言葉が脳裏をよぎり。
アイシスは深い絶望の底に叩き落された。
確かに、最近はネルとの間に大きな溝を感じていた。
彼女は戦律の解放を会得し、今やコールザインと同じ領域にいる。
スピカとの立ち合いも、ネルの足手まといになることが多くなっていた。
彼女は決して邪魔だとは言わないが、一対一で戦っているときの方がのびのびと戦えていることは傍から見ても明らかだ。
力不足は自覚していたが。
それでも自分も戦律の暴走を経験すれば変わるはず。
そう思っていたアイシスだが、現実は甘くなかった。
二か月。
短いようで長い時間が立ち、遂に恐れていたことが起きてしまった。
兄に見放された時と同じだ。
才能がないと突き放され、失意の底に落ちた。
あの時と同じ。
「アイシスくん、姉弟子から話は聞いていると思いますが。今日からは私が貴方の教育係になります。役不足かもしれませんが、よろしくお願いしますね」
「役不足だなんて、とんでもない。こちらこそよろしくお願いします……」
爽やかな顔で挨拶をするシリウスに頭を下げる。
何やら浮かない表情をしている彼を見て、シリウスは首を傾げた。
「アイシス君、何かありましたか?」
「いえ、その……シリウスさん」
「はい」
「僕は、師匠に見放されたんですかね?」
泣きそうになるのを堪えながら、アイシスは尋ねた。
別にシリウスに教えを乞うのが不満なわけではない。
それでもアイシスにとって、スピカに教わるという事は大きな意味を持っていた。
ジークレインに背中を押され、ようやく掴み取ったチャンス。
彼女がくれた折角の好機を、彼は棒に振ってしまったのだ。
「ふむ。今回私が指導することになったのは、あくまでネルさんの強化に専念したいという話だったはずですが。なぜそう思ったのかを聞いても?」
「もともと力不足は感じていたんですが。ネルが戦気の解放を会得してから、大きく差が開いてしまって。それが原因かはわかりませんが、なんとなく師匠の態度も冷たい気がしたので……」
「……姉弟子が冷たいのはいつものことだと思いますけど。そういう事ではないんですよね?」
シリウスの言葉に、アイシスは頷く。
彼はスピカとの付き合いも長い。
今回の件でも何か言われているのではないか、そう思い訪ねたのだが、彼も特に何かを言われたわけではなかったようだ。
しばし悩んだのち、シリウスが口を開いた。
「アイシス君が姉弟子がどういう人だと思っているのか、私にはわかりかねますが。
もし彼女が君を見放したのなら、『お前は破門だ』とはっきり言われていると思いますよ。
少なくとも、私の知る彼女はそういう人です」
「そう、ですかね……」
「ええ、そうですとも。さぁ余計なことは考えず、稽古に集中してください。今あなたがすべきことは、うじうじと悩むことではないはずです」
「……はい」
もやもやとしたわだかまりを抱えたまま、アイシスは戦気を高める。
スピカの話によると、アイシスの戦気は当の昔に【10】に到達していた。
けれど彼の戦気はいつまで経っても暴走することはない。
それが何故か、自分が一番よくわかっている。
アイシスは怖いのだ。
ネルが痛みに苦しんでいる姿を見て、怖くなってしまった。
彼女は乗り越えたが、自分は乗り越えられるだろうか
そんな不安が彼の可能性を押しとどめている。
*
その日の夜のこと。
中庭のベンチに座って、アイシスは星空を見ていた。
口から出るのは、白い溜息。
冬の空は高く、手は届きそうにない。
まるで、今のネルと自分の差のように。
「……悩んでますって顔だな。少年」
声がして、振り返る。
雪のような白い髪と、星空を映す蒼の瞳。
声の主はジークレインだった。
彼女はアイシスの隣に座ると、徐に空を見上げた。
「ここ、私のお気に入りの場所なんだよ。小さい頃、よく母様と二人で星を見ていたんだ」
そう言った彼女の顔は少しだけ、悲しそうだった。
彼女の母、ユティ・アースディアは病に侵されこの世を去った。
後から知った話だが、アイシスと出会った日が命日だったらしい。
彼女はあの場所に、母との別れによってできた傷を癒しに来ていたのだ。
「世の中、変わってしまう事ばかりだが。星空だけは変わらずに私を見ていてくれる。私はそれがとても嬉しくてね」
寂しそうな笑顔。
星のように綺麗なその横顔に、アイシスの胸が締め付けられるように痛んだ。
「ジークさん、すみません……」
「ん? なぜ謝る?」
「……僕では、貴方の期待に応えられないみたいです。
実は師匠に、スピカさんに……見放されてしまって……」
あまりの情けなさに、泣いてしまいそうになるのを堪えながらアイシスは告げた。
唇をかみしめ、涙が零れないように上を向く。
美しい星空が滲んで見えた。
「……なぁ少年、君は誰だ?」
唐突な質問。
彼女の質問の真意は伝わらず。
名前すら忘れられてしまったのかと、アイシスはさらに落ち込みながらその質問に答えた。
「アイシス・クロウディアですけど……」
答えを聞いたジークは不思議そうな顔をしたが、何かを察したように笑うと。
すぐにこう聞き直した。
「すまない、私の聞き方が悪かったな。質問を変えよう。
アイシス、君は何者だ?」
自分は何者か。
そう問われ、アイシスは戸惑った。
ネルは首断ちエグリールの弟子で、龍殺しの異名を持っている。
コールザインは彗星の使者のギルド長。
シリウスは神童で、最強の弟弟子。
スピカは最強の剣士。
そして、ジークは未来の王女だ。
皆、自分を持っていて、その名に相応しい輝きを放っている。
もし、自分も同じように何かを名乗れたら。
そう思い、アイシスは考える。
『クロウディア家の三男』、『サロメの弟』、『最強の弟子だった者』。
色々と思い浮かべてみるが、どの肩書もしっくりこない。
どれも自分ではなく、他の誰かに頼った肩書だ。
この時、アイシスは初めて気が付いた。
自分は何者でもなかったのだ。
何者にもなれない、無色の愚者。
それを自覚した途端、自分の中の闇が大きくなった。
「僕は……ネルみたいに強くはなれない。
誰かを守る勇気も、剣を振る価値もない。
ただの、臆病者です……」
自虐的な発言とともに、アイシスは俯き涙を零した。
もう我慢するのも限界だった。
押しとどめていた不安が膨張し、溢れ出た。
静かな寒空に、彼の嗚咽が響く。
ジークもまさか泣かせてしまうとは思わなかったのだろう。
驚いた顔で、心配そうに彼を見つめた。
涙を流す彼に、何か励ましの言葉を駆けようとして……やめた。
代わりに彼女は勢いよく立ち上がり、彼に向けてこう告げる。
「アイシス、涙を拭いて剣を抜け」
「え?」
突拍子もない彼女の言葉に、驚いたアイシスは思わず顔を上げた。
呆けた彼の顔を見て、ジークはこう続ける。
「立ち合いをしよう。勝負は一本。先に体に当てた方が勝ちだ」
「え、でも……」
そう言われ、アイシスは戸惑った。
彼が王城に来てかれこれ半年が経つが。
一度たりとも、ジークが剣を振っている姿は見たことがなかったからだ。
仮にもアイシスは最強に剣を教わった身だ。
もし怪我でもさせたら……
そんな心配を見透かしたように、ジークはこう言った。
「まさか、私が剣を振れないとでも思っているのか。心外だな。
これでも一応、スピカにお墨付きを貰っているんだぞ」
「師匠から!?」
最強のお墨付き。
それがそういう意味を持つのか、わからないアイシスではない。
驚いたのもつかの間、彼女の身体からあふれ出た戦気の量に絶句する。
彼女の身体から溢れる戦気は。
明らかにネルやコールザインよりも格上だった。
「早く抜かないと、問答無用で君の負けだよ」
泣いている場合ではない。
アイシスは涙をふくと、剣を抜いた。
即座に戦気を上げ、戦闘態勢に入る。
彼の準備が整ったのを見て、ジークは静かに呟く。
「では、始めようか」
彼女は地を蹴り、アイシスに向けて剣を振った。
ぶつかり合う鋼。
金属音が響き、火花が散る。
(早いッ!)
ジークの剣は凄まじいスピードだった。
彼女が宣言したことで何とか対応できたが、気を抜いていればこの一撃で勝負は決まっていただろう。
アイシスは避けたことにひとまず安堵する。
だが彼女の攻撃はそれで終わらない。
流れるような連撃。
右から、左から、上から、下から。
次々に襲い来る刃に、アイシスは圧倒される。
「ほらほらどうした、防戦一方だぞ! もっと本気で来い、アイシス!」
挑発を交えながら、ジークは斬りつけた。
休みなく襲い来る彼女の剣はネルよりも早い。
(……それでも、師匠よりは遅い!)
アイシスは気付かなかったが、この半年で彼は大きく成長していた。
ジークの剣は確かに早いが、それでもスピカの剣に比べればまだまだ未熟。
彼は剣の軌道をしっかり目で捉え、そして─────
「なっ!?」
ジークレインの口から驚嘆が漏れる。
アイシスが使ったのは、スピカが得意としていた【奪剣】という技術だった。
ジークの剣先を指で挟みこみ、下から剣で掬い上げる。
すると剣はジークの手元を離れ、宙を舞った。
無防備になった彼女の喉元に、アイシスの剣の先が突き付けられ。
「僕の、勝ちです」
静かな勝利宣言。
ジークは「参った」と潔く口に出し、剣を納めた。
「ふぅ……やはりしばらく鍛錬を怠ると剣が鈍るな。
見事だった、アイシス。君の勝ちだ」
「ありがとう、ございます……」
勝負に勝ったというのに、彼の顔は晴れない。
勝負が始まった途端。
彼女の戦気が明らかに下がった事に、アイシスは気付いていたから。
ジークが手加減してくれていたのがわからないほど、彼は馬鹿ではない。
彼女も察されたのを察して、困ったような顔で笑った。
「スピカに見放された……君は失意の理由をそう語ったな。
確かに、剣の道において彼女の右に出る者はいない。紛う事なき最強の剣士だ。
そんな彼女に否定されてしまっては、剣士として絶望する気持ちもわかる」
そうだ。
自分は最強に否定されてしまったのだ。
自分の弱さゆえ、成長できないのを見透かされ。
遂には見放されてしまった。
兄の時と同じだ。
自分が価値のない愚弟だったことを思い出し、アイシスは憂う。
黒ずむ心。
もう誰も僕を必要とは─────
「……でもねアイシス。君の価値を決めるのは、何もスピカ一人だけではないよ」
ハッとして、顔を上げる。
ジークは俯くアイシスの頬に優しく手を当てた。
美しい蒼の瞳に、自分の姿が映りこんだ。
彼女はアイシスの瞳を覗き込むように見つめ、こう続ける。
「私は君の剣が好きだ。基本に忠実で嘘が付けない、愚直な剣。
怖がりで臆病で、人を傷つけることを恐れていて。
けれど誰よりも優しくてまっすぐな剣。
君だからこそ振れる剣に、私は惹かれたんだ」
この人は自分を見てくれている。
良いところも悪いところも、知ってくれてなお自分を肯定してくれる。
始めてアイシスはそのことに気が付いた。
彼女が言った裏表のない言葉に、アイシスの心もまた強く惹かれてしまう。
心の闇はいつしか、晴れていた。
「君が君の剣に価値がないというのなら、私が与えよう。
私に必要なのは、シリウスでもコールザインでも。ましてスピカでもない。
他でもない、君なんだよアイシス」
月明かりの下。
彼女はベンチの上に立ち、冬の空にも届き得る高みから彼に手を差し伸べた。
「─────君がいい。アイシス、君が私の騎士になれ」
たった一言。
彼女のその一言で、ぽっかりと空いていた穴が埋まった気がした。
(ああ、僕が欲しかったのは、これだったのか……)
それはアイシスがずっと求めていた言葉だ。
兄にも、父にも、師匠にも貰えなかった、彼自身を肯定する言葉。
自分を何者かにしてくれるその言葉を、アイシスはずっと探していた。
一番聞きたかった言葉を。
一番言って欲しかった人に言って貰えた。
アイシスにとって、これ以上の幸福があるだろうか。
アイシスは迷いなくその手を取る。
誰かに必要とされることが、これほど嬉しいものだとは知らなかった。
「貴方の騎士になって見せます─────必ず」
彼女の冷たい手を握り、アイシスは誓う。
静かな、静かな夜の事だった。




