オマケ
さて。
前回で終えたつもりのこのエッセイだが、最終話投稿時に完結にし忘れてしまった。
ただ、終わった話を続けても何なんで、本エッセイに対してのSNSで拾った感想について少し話そうと思う。
※結局追放ざまぁ書けって事?
違いますね。
※結局求められる場所で求められるものを提供しろって話?
違いますね。
※なろうで受けた時点で、それはなろう系に則った形式だ
あなたにとってはそうでも、私にとっては違いますね。
この2つの疑問と、一番下については、おそらく私が『俺は何度でもお前を追放する』を例に出してしまったが為に与えた勘違いだ。
一番上については、下の2つに対しての私の考えをお話しする事で、自然と解消されるかな? と思う。
まず、私はこのエッセイ第1回で言いました。
『本格ファンタジーというジャンルの需要は、潜在的には存在するかも知れないが、顕在化する事はない』
そう、これは逆に言えば
『潜在的な需要として、本格ファンタジーがある』
という事です。
もっと言えば
『読者は顕在化、言語化できない需要を、常に心にかかえている』
という事です。
読者は常に求めています。
『何か、「これ!」ってちゃんと言えないんだけど、何か無いのか』
と、常に飢えています。
心の空腹感を満たそうと、小説家になろうを彷徨っています。
だからこそランキングを見て、既視の物が並んでいると
『ここにある作品たちで、自分の空腹感が満たせる筈もない』
と思ってしまうのです。
そして彷徨っている中、自分の潜在的な需要を満たす作品に出会った時に
『そう、そう、こういうの! こういうのをわたしは読みたかったんだよ!』
と感嘆の声を上げるのです。
ただ、その感動は単純な言語化なんてできない。
それはその人が、それまで得てきた「知識、経験、趣味、嗜好」などの産物だからです。
でも『好き』を共有したがる読者は、言語化しようとする。
その時に使われやすい単語が
『名作、傑作、本格的』
なのです。
ただ、それは本来言語化できないものを、敢えてムリヤリ言語化する作業なので、自分にとっては正しくても、他人にとっては違う事もあります。
『近い! 惜しい!』
と、すぐに思われる危険性を孕んだもの。
それが潜在的な需要だという事です。
ハッキリ言って
『求められている場所で、求められている物を出そう』
なんて、作家の志としては下の下です。
『最初、特に期待せずに来た読者が驚くような作品を仕上げよう!』
と、物語を綴る気概こそ必要な物だと私は思います。
ただ、人は選択する際に『安パイ』を取りがちです。
いつだって未知の感動に出会いたいのに、既知の物で満足感を満たそうとする。
本当は未知の、美味しい食べ物に出会いたいのに、『失敗』を恐れチェーン店を選ぶ。
やり方なんて人それぞれですが
『牛丼チェーン店を装いながら、ご飯の下に高級和牛を仕込んでみよう』
というアプローチは、そのひとつかも知れません。
ただ、それは私が作品を発表する時に使った(こう言ってしまうと、俺の作品は高級和牛だ! と言ってるみたいで不遜だが)、あくまでも一手法でしかないですよ、という。
私が申し上げた『営業マニュアルに、自分の注意書をドンドン加えろ』というのは
「答らしき物はいくらでも転がっているが、その中から『自分流』を探し続けなさい」
という事です。
もちろん、それが
『求められる場所で求められるものを提供』
だったら、別にそれでいいと思います。
そしてこの感想がSNSだったというのは、非常に象徴的です。
SNSというのは
「140文字に、わかった気になった事を押し込め、拡散、共有するのに長けた場所」
だからです。
SNSで求められるのは
「スパッと分かった気にさせてくれ!」
「一言でお願い!」
という需要です。
思考を深めるのは、考えを140文字に押し込めるのとは真逆の作業です。
だから、物事をすぐ単純化して捉えるってのは、まあ、インフルエンサー向きかな、とも思います。
というのが、一番下の
※なろうで受けた時点で、それはなろう系に則った形式だ
にも繋がります。
本エッセイを読んで、それが出てくる時点で思考が浅い、と私は感じてしまいます。
だって私は
「そうやって、すぐ思考を単純化するのを避けなさい」
と、このエッセイで言い続けたわけです。
『D&Dテンプレだから、本格じゃない』
みたいな考え方は止めなさい、いや、止めなさいは言う資格ないので、止めたほうがいいと『私は思います』ですね。
危ない、危ない。
『二日目のネギこそ至高』
だと、人に押し付けるところでした。
正直、単純化は楽です。
わたしだって、そりゃやってます。
ただ、物事を単純化する作業に没頭するというのは
『分かった気になる』
を、量産し続ける作業だという事です。
本当に物事を理解するには
『考えながら、実践し、さらに思考を深めながら、少しずつ経験を獲得する』
事でしか手に入れる事はできません。
だからこれは反論ではなく
『物事を単純化するならそうだが、私はそれをできるだけ避けた方が良いと思う』
といった感じでしょうか。
対称的な考え方をご紹介します。
このエッセイでも取り上げた、施川ユウキ先生は『俺は何度でもお前を追放する』に対してこう思ったわけです。
「追放ざまぁを捻った、なろう読者向けの話だけど、一般でも通じると思うくらい、凄く良かった」
これは、凄く私が自分に都合よく解釈すると
『なろうの流行、文脈を利用しつつ、その枠組みを越えていた』
という感じになります。
つまり、作品を何かの枠組みに押し込める事をしない、というのが施川ユウキ先生だと思います。
一方。
『うわぁ、ナニコレ、めっちゃ名作ぅー。今までこんなの見たことないー! うーんでも、なろうに投稿されてなろうで受けたから、これはなろう系! ヨシッ!』
まあ、楽ですよね。
そして、SNSというのは正にそれをし続けなければならない作業なので、どっちが正しいとかではなく、その人にはその人に求められる需要があるので、まあ、仕方ないかな⋯⋯。
というわけで、オマケはおしまい。
これにて完結です。
蛇足にまでお付き合いありがとうございました。
ではー。