第2回
さて、第一回のエッセイを読んだ方の中には、こんな感想をお持ちの方もいるだろう。
「おめー回りくどい奴だな、そんなんわかっとるから本題に入れや!」
いやね、そうしたい。
そうしたいよ?
ただ残念ながら『そんなんわかってない奴』の方が多数派なのだ。
だからTwitterがあんな燃え方する。
先に言っておく。
上記の理由で、今回も本題には入りません、ってか入れません、ごめんなー?
前回
『あなたは小説家になろうをもっと知らなければならない』
と書いた。
そして『敵を知り、己を知る』という言葉も書いた。
実はこれは一点に集約される。
結局のところ『己を知る』だ。
己の立ち位置、実力、それをできるだけ誤差なく知るために、敵を知らなければならない。
『あなた軍』に千人の兵士がいたとする。
ただ、敵が何人いるかわからない状態で
「まあ、千人いたら勝てるっしょ?」
これは楽観的とは言えない。
バカだ。
敵を知ることで相対化され、初めて自分の姿を浮き彫りにできる。
敵兵が二千なら、戦略、戦術を上手く駆使すればワンチャンスあるかも知れない。
だが敵兵が十万だと、おそらく勝てない。
奇跡を願うしかない。
敵兵は100人、これなら勝てると油断していたら、敵が使うのは最新兵器で、自軍の武器は竹槍かも知れない。
このように敵を知れば知るほど、その頼りない姿は鮮明になる。
敵を知ることをサボるから、朧気な自分しか想定できず、過信する。
今のままでもいつか勝てると勘違いする。
締め付けてくれる敵を直視しないから、自意識ばかりを肥大させる。
根拠なく「俺の作品はもっと読まれて良いはずだ」などとほざくようになる。
小説家になろうで真摯に活動すれば、どんどん自分の姿が浮き彫りになるはずだ。
「あなたの作品は、ブックマーク5しか取れません」
「あなたの作品では、ランキングに入れません」
せっかく己を知る為の情報を与えて貰ったのに、それを相対化しないから、いつまで経っても『自分』を直視できない。
だから、ハッキリ自覚しなければならない。
実は、小説家になろうで本格ファンタジーが読まれないわけじゃない。
何が本格かなんて人によるが、それでも「あの作品本格的だよね」と、多くの人が口を揃える評価を得てる作品は、実際にある。
にもかかわらず、そこから目を逸らす。
ハッキリ言えば、本格ファンタジーかどうか以前の「自分の今書いてる作品が、書いた作品が読まれてない」という事実から目を逸らす為に、本格ファンタジーを利用している。
言い訳の道具にしている。
本格ファンタジーだから読まれていない訳ではない。
自分が書いている物を『これは本格ファンタジーだ』『ダークーファンタジーの傑作だ』だと、誰かにそう評価された訳でも無いのに信じ込み。
『自分が書いている小説だから読まれるべきだ』と無根拠に決め付け。
『敵の事は良く知らないが自分の方が兵力を抱えてる』と妄想を抱く。
そんな自分が見えていない人間の小説が読まれていないだけだ。
そして自分の立ち位置がわからないまま皆が集まり
「今日も敵性言語は使っておりません!」
「ヨシッ!」
と、無駄なシュプレヒコールを上げながら妄想に逃げて、言い訳を探す作業に没頭してる連中の小説が、読まれてないというだけの話なのだ。
もしあなたがその集団に所属していたら?
とっとと逃げ出せ。
彼らは自分を見なくてすむ言い訳の達人たちで、その嘘をあなたに信じ込ませ、洗脳してくる。
「ランキングの為に小説を書くのはくだらない」
と、ランキングに入る実力も無いくせに言ってくる。
「承認欲求の為に作品を書くのはダメだ」
と、今の実力だとどう頑張ったところで手に入れる力も無いくせに、さもいつでも手に入れられるようにほざく。
そもそもモテないくせに『彼女なんていらない』と言ってるも同然だ。
『本当は俺だって女の子とエッチしたい!』
と、他人から見れば下心丸見えなのも気付いていない。
偉そうに言いやがって、じゃあお前は見えてるのか!?
って言われたら、すんません、まだまだ全然見えてません。
マジで全然です。
──そしてこのサイトに来て半年目の私は、まさに言い訳の達人だった。
今以上に、何も見えてなかった。
だが「もっと読まれたい」という気持ちさえ持ち続ければ、現実を直視する事を手助けしてくれる師に出会えるかもしれない。
今回は、私に現実を直視する勇気を与えてくれた恩人。
ひとりの『師』との出会い。
『もっと小説家になろうの事を知らなければ』と思わされたエピソードだ。
つまり自分語りです。
ね? 全然本題じゃないでしょ?
しかも今回は脱線しまくるから結構長い。
小説家になろうを知って約半年、私はいわゆる『底辺作家』だった。
底辺作家とは、5ちゃんねるで作家をカテゴライズする際に『ブックマーク100を獲得したことが無い作家』に与えられる肩書きだ。
当時の私は、ブックマーク100はとてつもなく高い壁に見えた。
どうやればそこを乗り越えられるかなんて思い付きもしなかった。
作品に与えられた評価は、やっと二桁に届くブックマーク。
不当な報酬に見えた。
もっと貰ってもいいんじゃないか、と思っていた。
唯一幸運だったのは、私は『なろう系』を楽しめた。
よく『なろう系を楽しめない』という事を、まるでそれが自慢のように言う人もいるが、それは間違いだ。
なろう系を楽しめるのは有利だ。
なろう系を楽しめないのは、日本で、日本語を使えない人が営業しなければならないくらいハンデだ。
私は「なろう系を知らなければならない」と言った。
そして、なろうを知る為には、なろうの外も知らなければならない。
例えば、無職転生。
無職転生の面白さを本当の意味で100パーセント楽しめるのは、恐らく作者の理不尽な孫の手先生だけだ。
孫の手先生の知識に近づけば近づくほど、その楽しみもまた100パーセントに近づく。
ロキシーがルーデウスに「スペルド族」について解説するシーンがある。
スペルド族は凶暴で、髪は緑色、額に赤い宝石のような『第三の目』がある、と説明されている。
主人公のルーデウスはそれに対して尋ねる。
「スペルド族は女性ばかりですか?」
「額の宝石は、何かすると色が変わりますか?」
ロキシーがそれぞれ否定すると、ルーデウスは「聞きたいことが聞けた」と満足する。
このやり取りの面白さを理解するのに必要な知識がある。
それは、日本のアダルトゲームにおいて金字塔とも呼べる「ランスシリーズ」に関する知識だ。
ランスシリーズの面白さは複数あるが、その中でも私が『面白い!』と感じるのは、時に大胆に、そして緻密に考えられた世界観だ。
ランスシリーズの土台となる『ルドラサウム』世界に『カラー』という種族がいる。
この種族は全て女性で、額に赤い宝石を持つ。
そして処女を喪うと、その宝石は水色のクリスタルに変化する。
処女か非処女かが一目でわかる、実にエロゲーらしい設定だ。
だが、ランスシリーズはそこで終わらない。
なんと、そのクリスタルを剥がされるとカラーは絶命する。
このクリスタルは、強力な武器を作る材料となるため、悪意を持った勢力から迫害される運命だ。
その為彼女らは、隠れ里でひっそりと生活を営んでいる。
エロゲらしい設定にも深みがある、それがランスシリーズの醍醐味だ。
長々語ったが、要は
「ちょ、ルーデウス、おま、転生前ランスシリーズやってたのかよ!」
ということがわかるシーンだと言うことだ。
そして、ランスシリーズについて知識がなければそれに気付けない。
つまりそれまでに触れてきたコンテンツの質や量によって作品の面白さは変わる。
なろう系を楽しめないというのは、狭い世界でしかコンテンツに触れてこなかった人間、という事だ。
本題に戻ると、運良くなろう系を楽しめた私は、たまたまその頃ランキングに載っている作者さんに多く見られる、ある特徴に気が付いた。
ブックマークや評価を、一切していない作家さんが一定数いたのだ。
そして、私は何となくだが、それがとても格好良く見えた。
一匹狼感というか、なんというか。
いや、今はわかってますよ、そりゃ。
そんなんどーでも良いことだって。
だけど取りあえず、何かそれが格好いいと勘違いしていた私は、作品に評価やブックマークを一切せずに作品を読み漁った。
そんな中で出会ったのが、支援BIS先生の『辺境の老騎士』だ。
もし、『小説家になろう』で、本格ファンタジーを書く作家さんといえば誰ですか? とアンケートをとれば、支援BIS先生の名を上げる人は多いだろう。
ちなみに、この辺境の老騎士を読んだ直後に私が書いた作品が『農閑期の英雄』だ。
農閑期の英雄、特にその一話の文体は、かなり辺境の老騎士の影響を受けている。
今思えば、『農閑期の英雄』というタイトルも、辺境の老騎士の影響そのものだ。
まあ、勇気の無い私は、長々とサブタイトルを付けたが。
農閑期の英雄を書いた理由は別エッセイにあるので省くが、私にとって初めてブックマーク100を越え、ランキング入りを果たし、その後書籍化された作品だ。
つまり、辺境の老騎士を読まなければ、私は本を出す事はなかったし、後にコミカライズされる作品も書かなかっただろう。
もしかしたら、不当な報酬で働かされる労働者気取りの運動に参加したり、小説を書くことを止めていたかも知れない。
辺境の老騎士は、私にとって異質すぎた。
短いタイトル、固めの文体、硬派な展開と回収される伏線の見事さ。
作品全体から『緻密さ』を感じた。
キチンとした設計図の上に建てられた、堅牢な城。
それまで読んだ作品とは、モノが違う、と思った。
Web小説の懐の深さを感じながら、何となく支援BIS先生のマイページを開いた。
ショックを受けた。
支援BIS先生の、大量のブックマークが目に飛び込んで来た。
評価を開く。
同じように、大量の作品に評価を付けている。
俺は読んでるぞ、研究してるぞ、と言われた気がした。
ブックマークされている作品は、いわゆる「なろう系」と呼ばれる物も多かった。
雑食ぶりというか、フラットに、色々な作品を読み、評価を付ける。
研究のためではなく、あくまでも、楽しんでいらっしゃっただけかもしれない。
だが、こんな作品を書く、遥か頂にいる相手が、小説家になろうから色々取り込もうとしている。
楽しみながら、自分を更に押し上げようとしている。
そんな姿を感じた。
空っぽなくせに、いや、空っぽだからこそ、空っぽなマイページを格好良いなどと思う自分が急に恥ずかしくなった。
その日から私は、読むと決めた作品はブックマークする事にしている。
そして、初めて公言する、今も果たせていない目標がある。
いつか支援BIS先生のブックマークに、私の作品が追加される事だ。
なろうが楽しめないなどと誇ってはいけない。
なろうが楽しめないのは大きなハンデだ。
それは空っぽなマイページを格好いいと感じていた、あの日までの私と同じ愚を犯している。
読書家で有名な漫画家で、『読書家あるある』を描いた『バーナード嬢曰わく』の作者である施川ユウキ先生は、打ち合わせで会った、同じく読書家の編集さんに「なろうを読みなさい」と推薦したというエピソードを御自身のラジオで紹介していた。
その際に、施川先生が上げたオススメ作品の中でも、先方が特に気に入ったと言ってくれたのが、私の作品『俺は何度でもお前を追放する』だ。
施川先生の評によれば
『追放ざまぁを捻った、なろう読者向けの作品だけど、一般でも通じると思うくらい、凄く良かった』
との事だ。
過分な評価だが、空っぽのマイページを誇っていたあの日の私には書けない作品である事は確かだ。
あなたも、私も、小説家になろうをもっと知ろうとしなければならない。
気付きはどこにでも転がっている。
ただそれは、自分を見ようとしなければ見つからない。