第四節
第四節目
〜Aside〜
岡山市までは新幹線を使って1時間ちょいだった。それからローカル線に乗換え、30分程乗車すると都会をドンドン離れ、穏やかな風景に俺は心が穏やかになっていく。大阪ではアメリカ村に行って買い物を楽しんだり、電車で天満や新今宮、十三に北の曽根崎新地等へ飲み歩いたりもした。俺はあの街が好きだった。休みの日にはよく憧れのなんばグランド花月に漫才を観に行ったもんだ。ミコシンという同僚にも恵まれた俺は、生涯の親友も得る事が出来た。俺はあの大都会で決して無理してた訳なんかじゃない。
ただ中心街を離れ田舎になっていく、電車の夕景に穏やかになっていく心に、俺は結局田舎モンで自然の風景が好きなんだなと痛感させられた。
岡山県倉敷市児島は情緒深い港町だ。電車を降りると、ネットで調べてた通り本当にデニム一色だった。流石に駅までジーパンになってると思いもしなかった俺は、少し興奮してしまった。虎聞さんとの打ち合わせとアパートの鍵の受け渡しまで、少し時間があったので、ブラブラと波止場を歩く。潮騒の香りを楽しみながら、こういう所で釣りでもしながら生活するのも悪くないねと思いながら、ジーパンだらけの駅や海の画像を、ミコシンにLINEで送ったりした。
「無双布武ラーメン児島店」は所謂ロードサイド店だ。本州と四国を繋ぐこの街の、そこを車で行き来するであろうサラリーマンだったり、近隣の家庭層をしっかり掴む事で成り立つと思われる比較的小さ目の店舗。なので、席数はカウンター中心の作りになっており、カウンター12席に4名テーブル席が8席という構造で、前の店と比べ印象は「ちっさ。せま」という感じだった。でも前の千日前店に比べると、随分とシンプルな構造で仕事はしやすそう。俺はこの店が立地も含めて初見で好きになった。店の前に『堂々オープン』という看板がその日付を、所狭しと掲示していた。
店内に入ると、虎聞さんはいつもの洒落たスーツ姿でノートパソコンをカタカタと叩いてた。久しぶりに会う若過ぎる中間管理職は、全国の店舗の中でも3本の指に入るハードな店、難波で戦ってきた俺を賞賛してくれた。俺は恥ずかしくなり、笑って誤魔化しながら店に入ると、全てが新品の厨房が待っていた。寸胴鍋やお玉等はまだビニールに入ったままだった。こんな綺麗な店を、俺に任せてくれるのかと思うと純粋に嬉しい。その時の感覚はガキの時にオモチャを一つだけ買ってやるから、選んでいいぞと言われた時に似てた。
そんな俺をずっと虎聞さんは可笑しそうに眺めてた。彼に見られてる事に気付きふと我に戻る。頭を落ち着かせ冷静にもどり、懸命に働く事を伝える。
いつも通りアパートの鍵を預る。
「仕事は明後日から。だからお前ゆっくり休め、どうせ昨日たいして寝れてねえんだろ。英気を養って、明後日気合い入れて出て来い。改めて開店準備の指示を出すからよ」
昨日難波千日前店が忙しかったのはお見通しか。流石、あの鳴丘玉美に敵わないと言わせた男だ。礼を告げ店を出ようとする俺を、
「望月、お前ジーパン持ってるか?」
と呼び止める。持ってないすよと応えると、
「適当なヤツ2足ぐらい買っとけよ。仕事で使うわ」
どうやら児島店はジーンズ着用での勤務となるらしい。
俺の新しいマンションは海の近くだった。こんなにテンションのあがる事なんて他にあるか?引越業者が来るまであと2時間ぐらい余裕があったので、手荷物だけパッと下ろして短パンとサンダルで漁港を歩く。缶コーヒー片手にテトラポットから海を見ていると、稔君と行った浜辺を思い出し感傷に耽った。先程ミコシンに送った写真と同様の物を送って、
「今、何処だと思います?」
と稔君のラインに送信した。
律儀な稔君から折返しの電話があったのは、奇しくも引越業者の搬入の時間だったので、ドタバタと手短に今までの経緯をざっくり説明した。彼もまた忙しかったようで、お互い今までの経緯を簡単に聞いた。東南アジアの旅が終って、今では一応日本には居るけど、全国を車で回って色々な僧侶の方と宗派問わず、日々議論し勉強させて貰ってるらしい。
なんて勉強が好きな人だ。
引越業者が帰る頃には夕方を越え、辺りはもう薄暗くなっていた。最初鹿児島から出てきた頃と比べ、中古で購入し揃えたベッドやテレビを見て、少しは快適になったと思える環境になったと我ながら思う。だが今日は折角の初めての児島の夜だし、シャワーだけ浴びて、駅前の居酒屋に出かけよう。その前にもう一回、さっきの波止場を歩き気分が良くなったのでミコシンに電話をかけてみると、
「忙しんじゃボケ!」
って電話先で激しく怒鳴られた。
なんて怖い奴だ。
駅前の居酒屋に入りビールを頼み、何かオススメありますかと聞くと、この土地の海産物は蛸が有名らしい。蛸なんて何処で食っても一緒だろとは思ったが、そういえば暫く食ってないな。まあ久しぶりに食ってみるかと一応頼んでみる。
料理が出てきて驚く。なんというか表面というか、皮というか皮膚というか、例の赤い箇所がない。あの部分はなんと呼ぶのだろうか。おそらく表面の赤い部分は、恐らく除去されているのだろう。それはともあれ蛸の刺身は勿論鮮度も高かったし、抜群に美味かった。児島最初の夜は、良い夕食にありつけた。コンビニでレモンサワーとちょっとしたつまみを買って帰り、アパートに帰りテレビを見た。大阪で毎週見てた若手芸人の深夜番組が見れなかった事が少し悲しかった。
翌日、この土地で有名らしい児島ジーンズストリートという所へ出かける。通りの中はジーンズショップがなんと40店近く存在していた。店舗を色々と見てレギュラーなテーパード型とゆったりしたデザインの二足を購入する。帰りに中華そば幸嬉という店に立ち寄った。店の外観からもう渋いルックスの俺好みのラーメン屋。甘いテイストの豚骨醤油ラーメンを食うと、頑なそうな店主がどうしても親父と被り、俺はどうしてもこの方と話したくなった。
他の客が丁度居なかったので、自分は昨日この街に来た事と、此処から少し離れた所で「無双布武ラーメン児島店」という所で、1週間後に店長として勤務する事を話すと、
「なんじゃ自分、先制布告言う事か?」
と少しピリついた空気になってしまう。これはヤバいと思って、そういう訳じゃない。実は俺の実家もラーメン屋で大将の姿を見ると、どうしても自分の親父の姿を思い出してしまう。それで話しかけた事を必死に説明しても、大将の曲がったヘソは戻せなかった。怒鳴られて帰る俺の後ろ姿に、見かねた奥さんが、
「負けんと頑張りんさいよ〜、応援しとるけ!」
大きな声をかけてくれた。まるで俺ん家みてえじゃねーかと思って、後ろを振り向かず俺は店を後にした。
翌日新品のジーンズに、制服のTシャツで約束の時間より30分早く出勤すると、まだ虎聞さんはまだ来てなかった。店の駐車場に落ち葉が散乱してたので、掃除をしようと思ったが箒が無いので、仕方無く手で落ち葉を拾っていたら、約束の時間5分前に虎聞さんの営業車が到着し、
「どうしたの?やる気満々じゃん」
といつも通りの優しい笑顔で車から降りる。この人とだったら良い店が作れそうな気がした。多分錯覚ではないと思う。
虎聞さんと店を開け、打ち合わせを始める。先ずこの1週間でやる事の説明から。
今日明日の2日間は店舗内の立ち上げ。厨房内を調理及び、実際に料理が提供出来る段階までのセッティング。その間に今後お世話になる、本部から来る物品の搬入業者が来る事になってるから、その方々と挨拶及び名刺交換。因みに俺の人生初の名刺だった。厨房のレイアウトは会社が決めた通りになっており、器具やその場所のセッティング作業は基本的に俺が全て行う。虎聞さんがチェックし、ダメ出しというか修正するという感じで勧められた。
3日後からは、近隣住人の方々への挨拶回り。グーグルマップを拡大して、プリントアウトして一軒一軒、対面式に近隣住人を挨拶で軒並み訪問。当然だが好意的な方もいれば、露骨に嫌な顔される方もいらっしゃる。当たり前だ、俺だって家でゆっくりしてる所にこんな訪問来たら、鬱陶しく思うのは間違いないと思う。でも俺の予想とは裏腹に、住民の方々は思いの外優しく受け入れてくれ、俺にはこの場所が随分と身近に感じられた。これは虎聞さんと二人で地図のプリントをテリトリー分けして回り込んだ。
回り込みが終わった後に、偶然にも俺達は「中華そば幸嬉」の前を通る。虎聞さんは「よってくか」というので、此間あった事を正直に話す。
「なおの事だな。ラーメン喰ってこうや」
虎聞さんは平然と店に入っていく。
俺は此間から二日も経ってないので、親父さんから怒鳴られた事を思い出して、気が進まない気持ちを抑えながら、重たい扉を開ける。と奥さんが、
「あらあ、店長さんじゃない。この人とお店の場所見に行ったんよ。二人で良い場所じゃ言うてねぇ。オープンはいつの予定になるんよ?」
と明るく話しかけてくれたが、親父さんはぶすりと奥で麺を茹でていた。
虎聞さんは親父さんに名刺を出し、俺の上司であると名乗り挨拶した。しかし親父さんは厨房から出る事はない。無理もない、当然の対応だと言えるだろう。注文したラーメンを二人で頂く。やはり此処は旨い。この地でラーメン店を経営するのであれば、強敵になるのは間違いないだろう。支払いは虎聞さんの奢りだった。
店を出る前、親父さんに
「旨かったです。ご馳走様でした」
と虎聞さんは深々と頭を下げた。親父さんは少し困った感じで、
「お手柔らかに頼むわ」
と仰られる。その間も、虎聞さんは無言で頭を下げたままだった。慌てて頭を下げた俺にも、
「店長さんもな」
と苦笑いだった。どう返して良いのかわからず俺も、
「旨かったです。ご馳走様でした」
と俺も虎聞さんを真似て礼を言った。
帰り道、虎聞さんはスラックスに手を突っ込んだまま静かに歩いていた。俺は何か言わないといけないと思いつつも、言葉がうまくでてこず、ただ俯いて彼の後をついて帰路を進む。
店に近づいた道路で急に虎聞さんは立ち止まる。
「あの人はこれから俺達の敵になるだろうな」
ポケットに手を突っ込んだままで、夕陽を背に俺に問う彼の声のトーンや挙動に、俺はなんらかの緊張を感じた。
「今後あの親父さんや奥さんがでしょうか?」
「おう。しかも強敵な商売敵になっていくだろうと俺は思うぜ」
「敵っすかぁ。それ正直俺も考えてたんですけど、昔から争い事ってのは好きになれんくて、平和に共存ってのは難しいんすかね?」
「なるほど…。共存…平和…ね。じゃあ逆に聞くけど一つの地域にラーメン店が、元々一店だけあったとする。でも他の業者が参入して更にもう一店、出店したとする。そしたらどういう状況が発生するか?」
「一つの地域にラーメン屋がもう一軒多くなりますね」
「必然的にそうなるよな、そしたらよ。その地域全体のラーメン一食分を食べる回数、求める回数とも言えるかな?其れをニーズという呼び方に変えよう。そしてその地域のラーメン屋が、1店しかなかった所から、2店もある状態に増える。その事によってその需要。つまりそのニーズが2倍にするという現象は起こりうるだろうか?」
「……起こりえないと思います…起こりっこないや」
「そういう事」
「…甘すぎるって事なんすね…」
「そこが望月の良いところなんだろうけどな。俺達が身を置いてる現代の資本主義ビジネスは、もう少しだけビタースィートな世界ってわけ」
「戦いって事なんか…」
どういう表情で虎聞さんはこう言う事を言うのだろうと思って、彼の顔を見ようとするが沈みゆく西日の光が邪魔してうまく見えなかった。
この先、虎聞さんと俺は、何故か会話が弾まなくなる。だがその分スムーズに仕事をこなし、新店準備は着々と進んだ。そんなこんなで、俺と虎聞さんと開店前3日前の夕方、聞き覚えのある関西弁が聞こえた。虎聞さんと3分程話して、
「久しぶり、宜しくな」
と足早に帰ってく、久し振りに見る鳴丘玉美は何処となく元気が無いように、俺の目には映った。
当時なかなかに俺達を苦悩させた、オープニングスタッフが全然集まらないと言う問題も、なんとか前日には瀧本さんという主婦の方が、ギリギリで応募してこられたので、即採用。これでも当初の予定よりは全然足りないという状況。でも頭数を確保出来ただけでもありがたい。
瀧本さんは生まれも育ちも岡山県で、根っからの児島人だ。ご主人はジーンズ生地を作る職人さんらしく、バッグからキーケースまでそれで作られたものを愛用されている。パンツを作る際に、余る生地を夫婦で活用して作っているらしい。はつらつとした感じの良い方で、俺達は直ぐに彼女が気に入った。
開店当日、11時の開店時間の前には有難い事に5人程の列が出来ていた。こちら側は俺がキッチンの全て、ホールは鳴丘玉美が瀧本さんに指導しながら店舗を運営するというスタイルで対応。2人体制状況を見てヤバそうだったら、虎聞さんも参戦するという布陣を敷く。昼の営業11時から、15時までの営業で30食分のラーメンを1人で捌く形になった。だが難波で鍛えられた俺からすると、正直余裕だった。だがホールの「鬼のナルタマ」こと、鳴丘玉美は何故かいつもと違い、心此処にあらずと言った感じに見えた。その彼女に少し瀧本さんは混乱している様に見えたが、気のせいだろうなとその日は深くは考えなかった。
次の日は初日の9割強の売上だった。俺はこの日で此処での仕事にも大分慣れ、手隙でホールの片付けの手伝いをする余裕も出来た。酔っ払いや粗い若者中心だった難波や流川に比べ、此処、児島はサラリーマンや家族という客層で比較的トラブルも少なく、俺にとって楽に働ける環境だと思い、表面には出さないものの正直内心は嬉々としていた。
ただしこの日の営業中、俺は重ねられた3枚の丼が客席にずっと鎮座している事に気がつく。こういった状態の丼を俺は良く知ってる。所謂「下げ忘れ」というヤツだ。客が完食した丼を早く下げる為、一つの皿に飲み残しの汁を集める。そして空いた皿を下に重ねる。そのまま洗い場に運んで仕舞えばギリギリセーフ。本当はこれも会社のルール的にアウトなんだけどね。
この案件は重ねたまでは良いが、誰かに呼ばれたり他の仕事にかかって、そのまま忘れ去られているかなり宜しくない状況と言える。当然お客様に対してもだし、見栄えも良くない。
これは実際、俺が広島時代に良くしていたミスで、よく鳴丘玉美に怒鳴られていたヤツだ。そもそも皿を重ねる事自体、会社のマニュアルとしては、禁じられている。最悪割っちゃう可能性が増えるからね。
まぁそんな 他の店じゃタブーの事でも、大阪の難波の店では、普通に皆ゴリゴリにやってるから飲食業界ってのは正直わからん。でもあの店ではそれぐらいやらないと本気で店が回らないから、暗黙の了解で皆やっているからなんとも言えないなぁ。
俺はこんな初歩的なミスするのは、瀧本さんだろうと思った。こういった事は何故してはいけないのかという理由を説明をしっかりとして、最初で指導しないといけないと思って、彼女に聞いてみると知らないんだって。じゃあやったのは鳴丘玉美?
ないないない、そりゃねーだろ。多分勘違いで俺が自分でやって忘れてるだけだろうとその日は閉店する。俺がキッチンを閉めている間に、彼女は退勤を押して帰宅していた。でもなーんか腑に落ちないんだよなぁ。
その翌日もオープン日からは右肩下がりだったが、それなりに集客できた。俺は出勤時から鳴丘玉美の挙動を気にしていたが、ちゃんと働いてはいるものの、常に俺の死角にいるような感じで、行動を上手いこと把握できない。ピーク帯が終わり俺も動きに余裕が出来たので、ホールに出るとあの女の姿が10分程見当たらない。
瀧本さんに聞いてみると、仕事中もずっとスマホ見たりずっとソワソワしているらしい。今みたいにトイレに篭る事も2度ほどあったという。最後に瀧本さんは、
「あの人やる気あるんですかね?」
とあっけらかんと言った。
あの鳴丘玉美が?俺は思わず吹き出してしまった。少し面白いが彼女を囲む状況がに、なんらかの異変が起きているのは間違いなさそうだ。
「なんかあったんすか?」
俺はトイレから出てきた彼女に、なんとなしに聞いてみる。
「なんでや?なんもないわ」
と鳴丘玉美は早口で答え、俺の方を向こうとせずその場を足速に後にした。これは絶対なんかあるヤツだ。こういった事に全く気の利かない無頓着な俺にだって流石にわかる。
その日は彼女に無理に聞き出すことはせず、その日店を閉めてから有力な情報を入手する為に、情報源に聞き込みを始める。
「あん娘、未だ帰っとらんの?」
アキさんは俺からの来電で全てを理解したらしい。
詳しく聞くと、鳴丘玉美は高校卒業と同時に、何不自由無い鳴丘通商を営む実家を離れ、幾つかのラーメン屋でアルバイトしながら、数件もの友人の家を渡り歩き、現在の無双布武に就職したらしい。勿論家族は反対していたので、鳴丘玉美は連絡を基本的には取らなかった。ただ母親からはずっとメールが毎日送られてたらしいが、鳴丘玉美は好意的な返事は返さなかった。彼女の中でずっと抱いていた反抗心は家を出た日から、実は既に消失していた。それとは代わりに生まれた喪失感や、虚無感に苛まれながら生活する様になった。
そのわだかまりは歳月を追うにつれ肥大化し、それが彼女を逆に仕事に駆り立てる。家族に寄り添えなかった後悔やもどかしさが、皮肉にも彼女自身を潔白でなくてはならないという思いを確固たるアイデンティティとして無意識のうちに構築していく。それに基づいて今まで気丈に生きていたが、母親が10日前になんらかの病気に倒れたという連絡がある。その事で積み上げてきた自己が崩れ、どうして良いのかわからずパニック状態でアキさんに相談したらしい。
「私は立前なんかどうでもええけ。帰りゃええんじゃ何度も言うたんよ。顔見せんと一生後悔する事になんで。言うてな」
と困り果てた感じでアキさんは悲しそうに言う。
鳴川玉美、なんて不器用な女だ。もっと合理的な生き物だろ女性って。俺の個人的な偏見かもしれないけど。
「パオ太頼む、玉ちゃんをなんとか説得したってや。今のままではお母さん亡くなったらあの娘一生後悔する事になってしまうような気がしてさぁ」
あのミコシン並みに強情っぱりの女を説得して、地元に帰らせないといけないという新たなるミッションが俺にふりかかる。
次の日も鳴丘玉美は平然と出社してきた。
「ぉざーす」
なんて軽い挨拶して俺の横を通り過ぎていく。多分コイツは死ぬほど真面目。それに対して、すごく凶暴な一面もあるのも事実。だから伝え方に気を付けないと、こちらもどうなるかわからない。俺は事前に話す手順を一度脳内でシュミレートしてから試みた。瀧本さんが出社してくる前に、ケリがつけられるよう仕掛けてみよう。
「児島慣れましたかぁ?」
「うん?慣れた言うて、アタシ此処きて3日も経ってへんけど?」
「確かにそっすね。んー広島に比べてどーっすか、やり易いやり難い?」
「んーまぁやり難いかなぁ、広島で慣れとるし」
「そうかぁ。広島懐かしいよねー。あ、俺一人でカープ戦見に行ったんすよ」
「へー初めて聞いたわ」
「初めて言うもん」
「子供か。ほいでどうやったん?」
「微妙だった」
「そーなん、なんで?」
「休みにふらっと行って観たんだけど、演ってたのは広島対ロッテ戦だったんよね。でも俺そもそも巨人ファンだし」
「知らんし。なんやねんその話」
「しかも俺、間違ってロッテ側のチケット買ってたんだよね〜」
「アホやな〜。じゃあスクワット応援もジェット風船もやってへんの?」
「うん。ロッテ側からなんか赤い奴らがやってるのをなんかぼ〜って見てたわ」
「赤い奴らて。自分がやってないんやったら意味無いやん。アタシはアキさんと一緒にやりに行ったもん」
「店長は行くと思う!赤くなって」
「茹でだこみたいになってるから、その表現やめてもらえる?まぁアキさんからユニフォーム借りたから上着はそれなりに赤かったかな?」
「へぇ、カープファンなんすか?」
「いや…親譲りの比較的薄味タイガースファンやね…」
「じゃあ俺と一緒じゃん!この裏切者!」
「いやあの…信仰心が低いと言うか、アタシは…その…ライトなヤツやから。居酒屋で六甲おろしのアンセムとかも参加せんし、あんなもんフーリガンの一族の方々やと思っとるし」
「一族て。色んな人に怒られるから、その差別発言。俺も見てきたよ、ミコシンに色々連れ回されたんだからさー。新世界とか、尼崎とか神戸の新開地とか」
「ホンマに御子柴って感じやね。激震区ばっか攻めたてるやん。あの人立ち飲み屋で、どて煮とかばっか頼んでそうやもん。アタシも嫌いでは無いけども」
「マジでそんな感じだよ。粉もんは嫌う癖にね」
「そうなんやったけ?アタシアレの事よう知らんし、知りたくもないし。うん〜…なんの話やったっけ?」
「あ、そういえば昨日「下げ忘れ」の丼見たんだけど、瀧本さんかなと思って指導しないとって思って、話しかけたら彼女じゃ無いんすよ。なんか知らないすか?」
「アグ!……それは…アタシ…やね」
「広島じゃ絶対すんなって言ってたじゃん」
「…せやね…。ごめんなさい」
「謝らなくてイイっすよ。なんでそんな事すんのかなって思って」
「テンパっててん。昨日のアタシは正気を失ってた。ホンマにごめんな、今日は気を引き締めてかかるわ。さて今日はどれぐらい忙しいかねえ」
と立ち去ろうとする彼女に、
「ちょっと待ってよ。本当にそれだけっすか?」
「なんやねん!しつこいな」
「……アキさんに聞きましたよ。お母さんよくないんでしょ?」
面と面を合わせた時に、彼女の眼が薄く紅い炎症の様な痕がある事に気づいた。母親の事を言われると直ぐ顔に出る事に、彼女の単純で真っ直ぐな気質が伺える。
「要らん事言うな、言うたんやけどなー」
と顔を背けようとする彼女を、
「違うよ店長、俺が問い詰めて聞き出した。此処二日のアンタは俺が知ってる貴方じゃねーよ。らしくないって!バッシングの皿は直し忘れてたし、提供の時は宅番間違えもあったでしょ。挙げ句の果てはトイレに篭って、30分近くも出てこなかった」
「うぐぅ…それはお腹が痛かったんですー」
「え?そうなの?だったらごめん…」
「嘘。…LINEしてた」
「でしょ?ヤバい事聞いちゃったと思って、俺が焦るじゃん」
「五月蝿いねん。お前に関係あらへんやないけ」
「ありますー、瀧本さんもあの人やる気あるんですかねって言ってましたー」
「マジ?」
「マジで言ってたって!」
それを聞くと同時に鳴丘玉美は力が抜けた様に、椅子に腰掛ける。
「もうダっさ。死んでしまいたい…」
力の抜けた彼女の言葉に、しまったこれは言っちゃいけないヤツだったと焦ったが、もう取り返しがつかない。
「ごめん傷つける気はなかったん…」
「え-ねんえーねん。アタシがダサいのがあかんねん。滝本さんがトイレに篭ってLINEなんかしてたら、アタシだったら殺してるし」
「殺しちゃ駄目じゃん」
「なんで?」
「え?殺すまでの事では無いし。普通に犯罪だし。えっと…そのうえ捕まるからかな?」
「せやね。捕まるのしんどいね」
感情が見えねー、なんだコイツ?
「取り敢えず、ひとまず帰ってお母さんに逢った方が良くない?」
「……高校卒業して家出てから一回も帰ってないのに、今更会うてなんの話するんよ?」
「え?そんな帰ってないの?」
「ヤバいと思わへん? ホンマのアタシはヤバいヤツやねんて」
と鳴丘玉美は俯いたまま、悲しそうに笑った。
こんな表情する彼女を初めて見たような気がする。朧げで儚い哀しみ、彼女の強靭なメンタルの中に混在する弱さを俺はこの時初めて知ったんだ。
「それでも帰らんといかんって。もし今帰らんでお袋さんなんかあったら、一生後悔する事になっど?」
「五月蝿い。ゴワスも言わへん鹿児島弁よう聞かんし」
「じゃかしいのは、ワイじゃボケ。虎聞さんには俺から言っとくから、もう今日は帰って準備して大阪帰れよ!」
「……」
「店は瀧本さんと俺とで暫くなんとかするし」
「……」
「何とか言えよ」
「…育てた新人が店任されるって聞いてな。応援してやりたかってん」
「…ありがとう。ホントに嬉しい。でも玉ちゃんが今すべき事はそれじゃないと思う」
「…わかってんねんアホ。そしたら帰るわ…」
「玉美ちゃんさぁ、」
「なんなん?」
「なんでもねーよ。早よ上がり、おつかれ」
「うん?ありがと」
あーあ、もっと言いたいことあったのになぁ。
~Bside~
もーなんなん?
めちゃくちゃ情けないやんけ。
新人店長はめっちゃ気使わせてるし。黙っときゃタメ口聞いてくるし。なんやよう知らんけど、入ったばかりのバイトのおばちゃんにはやる気あるのかわからんとか言われてるし。此処んところのアタシは目も当てがならんぐらい程にホンマにダサい。
いや、広島でもちゃんと働けてたんやろうか?アキさん指示のもと、ずっと皆んなでフォローしてくれていたんやろね。ホンマにどないしてもうたんやろな?アタシ。その落ち込みをまるで見てたかのようにスマートフォンに着電が。勿論アキさんからや。
「玉ちゃん、パオ太と話した?」
「……うん」
「ずっと実家帰るよう言いよったじゃん。アンタまだ帰ってへんかったじゃろ?」
「……うん」
「パオ太と話して、どがーなったんよ?」
「…今日から休めって言われた」
「良かったじゃん。ちょっとゆっくりしたり、大阪帰るのは何時?」
「明日ん朝帰ろう、思っとるよ」
「えーね。良かったじゃん」
「良ぅないわ、全然」
「なんで?」
「だからずっと言ってるやん。アタシは怖いねんて!家帰んのめっちゃ怖い。家族に会うのはもっと怖いねん」
「おちつき、おちつき。前にも言うたけど、娘を煙たがる親が何処の世界におるんよ?」
「娘にもよると思うわ…」
「私の見た所、玉ちゃんはなかなか良い奴やと思うよ。何時でも一生懸命やしね。そろそろ自分を許さな。その生き方はしんどいやろ?」
「ちゃう。アキさんがアタシに対して甘過ぎんねんて。だから甘えてまうし、その都度アタシはダメになってまう…」
「甘やかしちゃおらんて…」
「……」
「……」
「此処の件、前もやったよね?」
「www.せやね」
そのあともアタシ達は多くの事を語り合った。アタシは彼女こそ本当の友人だろうと思う。アキさんに会えただけでもアタシは広島に来たかいがあったと心から感じた。
虎聞さんから、
「望月から聞きました。そういった大事な事は早めに相談して欲しかったです。随分溜め込んでいたみたいだな。有休は32日もあるそーだぞ!」
とラインがあったので、
「すいません。ありがたく休みます」
と返信する。
もう離れて何年になるんやろう。せやね最後の上本町で働いてから、広島に異動やったから実質1年と半か。懐かしいなぁ、コンビニで豚まん買うた時に酢醤油と辛子つけますかと言われて、
「酢醤油?なんそれ?」
なんて思ったあの日から、アタシの間を時間は凄まじい速さで通り過ぎていった。
翌日眼が覚めると、まだ朝の6時やった。正直この町に来てから、正直なんもする気がなくて荷解きもまだちゃんとやってへん。
その荷解きを全然してないおかげで、帰郷の準備は20分もかからへんかった。2年前に奮発して買ったお気に入りのモンブランのスーツケース転がして、引っ越してきたばかりのアパートを朝早く起つ。
コンビニでサンドイッチと珈琲を買って、アタシは児島駅から岡山駅迄のローカル線を渡る。岡山駅に着いた時はまだ8時過ぎ、焦ってもしょうがないよね。駅前の珈琲ショップで時間を潰そ思うて、珈琲頼もうかと思ったけど、さっき飲んだばかりだったんで、今度はホットミルクを注文した。ちょっと前に買ってた「吉本ばななのキッチン」の文庫本をバッグから出して読む。これは丁度高校生の頃、読んで好きだった本。その頃のアタシは多感というか何もかもが気に入らない、生物学的にもようわからん難しい時期やった。
その頃までのアタシは今では死語かも知れへんけど、絵に描いたようなお嬢様やった。よう母さんがベッタベッタなフリル付きのワンピースを買ってきて、女の子らしくしなさいと育てられた事に対して、中学生になったあたりから其れに反発するようになりはじめた。強制される事が色々と鬱陶しく思えて、いつも存在の無い何かにムカついていた。あの謎の激情はなんだったんだろう?そういった時期にアタシは、希望軒というラーメン屋の赤い暖簾をくぐる事になる。あの希望軒の暖簾を捲った事は間違いだったんやろうか、疑いようのないアタシの人生分岐点。アタシはそこで事もあろうに、社長令嬢の道まで捨てて、泥臭い庶民食に携わる人生を選ぶことになってしまった。
そんなアタシにでもずっとメールやラインを送り続けてくれていた母からの連絡が途切れた。それから4日経って弟からの連絡で、母が重症である事を知らされる。その時、アタシはなんかの悪い冗談であると受け止めた。でも弟から2度目の電話があった時、声のトーン、そしてその切迫感で、母の容態は深刻な事実である事を認めざるを得なくなった。
結局新幹線は午前中に乗り、昼過ぎにはもう新大阪駅に着いてた。でも地元の住吉区へは思うようには足が進まない。お気に入りのスーツケースをコインロッカーに入れて、梅田辺りをぶらつく。
なんか悪い事してるみたいに、知り合いにあったらどないしよみたいなネガティブ感情が横行したので、ベースボールキャップを買い深めに被る。心のやりどころがしんどかった。その日はエステを堪能し、街中のホテルで一泊する。
「アタシ何をしてるんやろ?」
翌朝目が覚めると弟の沖春から、
「おい!いつになったら帰ってくんねん?」
というラインが入ってる事に気づく。沖春は私の二つ下の弟で、私が鳴丘家を勝手に出て行ってからも、ずっと両親と今回のお母さんの件も逐一LINEで教えてくれていた。それと同時に彼が鳴丘通商でなかなか良いポジションで仕事しているという沖春の現状を、母からもメールで教わっていた。
二人からの連絡でアタシは鳴丘家の状況を、離れた広島からでも立体的に把握することが出来ていた。
恐る恐る沖春に電話してみる。
「玉姉!久し振りやな、LINE見たんか?」
「見たから電話しとるんやないの。うるさいな」
「玉姉がいつまで経っても帰ってこんからやんけ。一体何時になったら帰ってくるんじゃ?」
「……。もう帰って来とるわ」
「は?何時よ」
「昨日」
「なんで連絡せんの?」
「……うん」
「質問の答えになってへんわ。ほんで今何処なん?」
「北。梅田」
「う〜梅田の何処?」
「上がってきたら教えたるがな。どうせ今会社やろ、迎えに来てや」
「なんやええ女みたいな振る舞いするやん。ほんだら後でまた連絡するわ」
かけるまでの不安を蹴散らすぐらい、息のあった昔ながらの会話が出来て良かった。弟は仕事中だし、普通に高速で直行で来ても30分以上はかかるだろうと言う距離。私は大体2時間ぐらいはかかるやろうねという、高括った気持ちで過ごしてたら彼奴は45分後には大阪駅に到着し着電があった。
沖春は営業で回る様のバンでサッと乗り付ける。
「なんやの。格好つけた所で営業車やん」
「仕事中やけ、しゃあ無いやん」
久しぶりの弟は、アタシの想像を越えるぐらいのマッチョな体型になっていた。そういえば高校と大学時代はラグビーやっていたって話だったっけ。あの泣き虫沖春のマッチョなスーツ姿は、少しだけ今日のアタシには可笑しく見えるけど。
「なんや、ちゃんと仕事しとんか。見た目だけは一応?営業マンやん?」
「見た目だけじゃなく、中身もバリバリの営業マンじゃ。姉ちゃんはよ乗ってや、長う止めてると後ろから鳴らされてまうやん」
「せやね」
アタシは弟のバンの助手席に散乱している書類を纏めてダッシュボードに丁寧に直してから、車に乗り込む。
いや片付けとけや。
「ほんで母さんはどうなん?最近では癌やいうた所で初期で見つかったら、手術で取れたよ。みたいな話よう聞くねんけど?」
「そんないい状態やあらへんねや…」
「結構進行しとるん?」
「良うないんじゃ…ホンマに」
「なんや小さい声でおんなじ事2回も言わんでもええやん。なんかそのステージ?とかいうやんそれとかどうなってんの?」
「……ステージは4らしい……」
「ヤバいやん…」
とアタシの言葉を聞くや否や、沖春は急ブレーキをかけて車を止めた。シートベルトをしてるとはいえ、思わず前にガクッとなる。
「ちょっと危ないやん!」
「ずっとヤバいって、俺は言うてた筈やど!」
沖春の唇は強張り、小刻みに震えてた。
嗚呼完全に怒らせてしもうた。それはそうやな。
「ごめんなさい。お姉ちゃんが全部悪いわ。アタシがちゃんとしなかったせいで、アンタに辛い思いさせてもうた。ホンマにごめんな…」
「…2回も謝らんでえぇわ」
その後、弟は無言で車を走らせる。走行する車内には宜しくなさげな空気が流れた。アタシはまた失敗してもうた。ホンマは最初にしっかり謝るつもりだったのに。
アタシの2個下だった頃、沖春は小さい頃身体が平均より低くアタシの後をチョコチョコ追いかけてくる可愛らしい弟だった。スーパーで玩具を父に買って貰えず、売場でぐずつくどころか号泣したのを、宥めるのに往生したのを今でも覚えてる。
今では筋骨隆々たる体を小綺麗なスーツで包んでいる。こういうタイプの男が好きな女だったら素敵って感じるんやろうねって純粋に感じれる程。
「大阪久しぶりやろ?」
「一年と半ぐらいかな。でも思いの外変わってへんで。ミナミ見たらまた変わっとるかも知れへんけど」
「あの辺はまぁ、ホンマ忙しないからなぁ。姉ちゃんもあんま見た目変わってへん様に見えるけど」
「アンタが変わり過ぎなだけとちゃう?そんな短期間で人間変わらんて」
「ほうか?そんな変わったかな俺。それでも姉ちゃんはラーメン屋ずっとやってて今店長さんなんやろ?ホンマ姉ちゃんは凄えと思うわ」
「なんでやねん。大した事あらへんわ、好きな事やっとるだけやし。後継いで頑張ってるアンタの方がずっと立派やし。アタシは鳴丘家の裏切り者ですからwww.」
「誰もそんなこと言うてへんわ」
病院は実家の車で10分程の所にありそこは小学生の頃のアタシが風邪ひいて、連れて行って貰った思い出もある病院で何処か懐しかった。母の病室に着くまで、彼女と何を話せばいいんだろうと考えると、そのしんどさとはたまたその辛さから、心が耐えられず、アタシはまた思考から逃げてまう。
高校生の頃、一度母と意見が割れ、激しい口論になった。激しい言い合いはその時だけだったが、アタシ達はそれ以上傷つくのを恐れ、互いにコンタクトする事から逃げた。その後も在学中はギクシャクした関係が続き、卒業すると同時にアタシは逃げるように家を出て、友人宅を彷徨いながらバイトで生活した。バイト先は常にフランチャイズ系ラーメン企業ばかり。そうしている間に、気がついたらアタシは無双布武ラーメンの社員になっていた。その間も母は根気強く私に電話をして来たり、メールやラインを送ってきた。面倒臭がって適当に返したり、酷い時は無返信のまま質問を流したりもした。アタシは母に対して、彼女の愛から逃げているだけの臆病者に過ぎないんだろう。
病室の前で沖春の右肘の裾を掴み、
「やっぱ辞めよ。無理や」
と駄々を捏ねた。沖春はそんなアタシを力ずくで病室に押しこむようにして入れた。
足をもつらせながら病室に入ると、電気を付けてないらしく静かで薄暗い。なんとなくその空間だけひんやりとした、でもなんとも言えない優しさの感じられる独特な空気感を感じる。薄暗い病室で窓から斜めに入る太陽光に本を当てながら母は読書を楽しんでいた。その風景はまるで絵画の様に美しく、アタシは思わず息をのむ。そしてその美しさに吸い込まれるかの様に近づいた。
アタシの記憶の中の彼女と比べ、随分と皺が増えた彼女の顔、細くなった腕、これ程に彼女は小さい生き物だっただろうか。生気が薄いような彼女の表情から、現在の病における彼女の状態の深刻さが伺える。アタシはついその儚く揺蕩うような彼女の心に触れたくなり、更に近づく。
彼女はアタシの存在に気付くと表情が一瞬驚きに変わり、安堵と慈悲が混じったような、なんとも言えない柔らかい表情に変わり、
「玉やないの。何処ぞの別嬪さんや思うて驚いたわ」
と優しく笑った、アタシは彼女の横に座り、
「母さん久しぶり。玉美です。随分とご無沙汰してました」
と手を握った。
震える声、鳴り止まない心臓、嗚呼アタシは多分感情が随分昂り過ぎたようで、頬を伝う涙にも気付くことが出来ない程、何度も何度も彼女に謝罪を続けた。
随分と痩せてしまった顔、水分を失いまるで枯れ木のように力を失ったその腕には力が無かった。だがアタシは彼女の瞳の中に、かつての母の燃える暖炉の様な優しさを確認した。涙が止まらず、言葉が出なくなってしまったアタシを慰めるように、母は私の頭の上に手を置き、静かに話し出した。
「前にな、父さんと二人でアンタが働きよった…あれ何処やったっけ?ああそうそう高槻の店に、隠れて見に行ったんよ。アンタ随分大きな声出して一生懸命走り回っとったわ。それ見て二人でな、あの子はああいう生き方が性に合ってるんやろうなぁって話してな。お祖父さんが若い頃、一生懸命働いて事業を大きゅうしたから今の会社があるんや。ホンマの所、アンタが一番その血を継いどるんかも知れへんねって二人で話したんよ。早いもんやねえ、こないだまでこんなおチビちゃんやったのに」
と彼女はか細くなった手で野球のボールぐらいの容積を手でジェスチャーして見せた。
「いや。そんな小さい事あらへんやろ」
アタシは泣きながら笑った。
母はその一週間後、容態が急に悪変して、嘘みたいに呆気なく他界してしまった。アタシ達はその間にまるで今までの空白を埋めるかのように、ずっと今までしてなかった分の話をした。高校の時に勃発した隔たりの原因は、アタシの進路だった。母はラーメン屋になりたいというアタシの夢に猛烈に反対した。鳴丘通商の事務として働いて欲しかった彼女の想いとアタシの夢が完全にコンフリクトした。でも今となっては、やりたい事をやり続ける方がアタシらしくてカッコ良いとさえ言ってくれた。
おそらくアタシは一方的な言い訳を言っていただけだと思う。それでも母はその話を真剣に耳を傾けてくれた。学生の頃にアタシの主張を聞きもせず、自分の考えを押し付けてしまったのは間違いだったと謝ってすらいた。どう考えても間違っているのはアタシやろ。誰が商社の社長令嬢とラーメン屋で油と汗まみれになって働く事を両天秤にかけて、そこで後者を選ぶ人居ますかって聞くなら、恐らくアタシぐらいのもんやろうと思う。アタシは何処で変わってしまったのだろうか。小さい頃は両親の愛に恵まれ、そのまま鳴丘通商で働こうと思ってたらしく、当時男性社員に配布していた金バッジのついた紺のブレザーをぶっかぶっかに羽織って、女性社員に配布していた赤いチェックのスカーフを巻いてピースサインをしている幼少期の写真が今のアタシからすると酷く疎ましい。
アタシは家族の裏切り者だ。中学生から高校生の反抗期にかけては、両親の言う事もろくに聞かなくなった。高校も親の希望ではなく、わざと学力を落とし、低め目の高等学校を受験して親の期待外れな行いをする事で、意図的にその期待から逃がれようとしていた。そういった行動をしていく度に、自分の中で向上心だとか自尊心と言った、自分という人間性の根幹たる内面部分を自傷してしまい、結果として完全に自分自身を見失なってしまっていたホンマに哀しい時期があった。
そんな時期の帰り道、あの懐かしい「希望軒」の赤い暖簾がアタシの目に止まる。小さい頃、ここの大将はいつも笑顔で店の前を箒で履きながら、通りを歩く方々に朗らかに挨拶をしていた。それにあわせ店の中から鶏ガラを長時間炊く事で発生する、脳髄の奥の方を優しく刺激する様な甘く優しい香りが、
「ふわぁっ」
とアタシを誘惑した。彼の笑顔とその香りに引き寄せられる様に、アタシは父に彼処に行きたいと言った。しかし父にはその日は高級なレストランを予約してあるから、そこで食事しようと失念した記憶がある。
高校の心が荒れてた頃に再度、その赤い暖簾がまた瞳に映る。朝の登校時、何時でも大将は通りを箒で履き続けていた。私が初めて彼を見た幼少期の頃から随分とご年齢を重ねられた様で、見た目は初老のように見えるけど、其れを感じさせない様な寛大なるオーラを放っていた。
暖簾を捲り、恐る恐る店内に入ってみる。アタシにとって、生まれて初めてのラーメン体験。
「いっつも前通っとったお嬢ちゃんやんけ。随分大きゅうなったのー」
まさか大将はアタシの事を覚えててくれた。一回も暖簾を潜った事も無くここのラーメンを一食も食べた事が無いアタシを。
何で憶えてるのかと聞いた。当然の疑問やろ?
大将は少し困った様な笑い顔で、
「ワシは何時も店の仕込みで、毎朝鶏を炊きよるんですけどね。一段階済ませたところで表、箒で履くようしてますねや。そん時は幸せな気持ちで美味しいスープが出来ますように思いまして、まるで神さんにでもお祈りする様な気持ちで、表履きながら通り行く方々に挨拶させて貰うとりました。
其れずぅっとやっとるとですね、意地の悪い事考えたりとかしとったらね。今炊いてるスープが不味なってまうやないか?みたいなちょっとした不安材料みたいなモンが芽生えてくるんすよ。せやけそうならへんように、ずっと履いとったら、次第に歩いてはる方々の幸せを祈りながら挨拶するようになりましてん。ほんでそういったきもちで仕事してますと、どしてん店ん前歩いている人の顔まで覚えてまうようになってまうんですよ〜。もし気分悪されたらほんますいまへんの。お嬢さん確か小学生の頃からずっと、ウチん前通ってはったからつい…」
彼は年老いた顔をクシャっとさせながら申し訳なさそうに笑って頭を下げた。そしたら店は急に忙しくなって、あっという間にカウンターは一杯になっていた。
頼んでいた醤油ラーメンが私のテーブルに届く。少女だった私を昔からずっと誘い立てていたこの香り。丼の横に置かれている白い角ばったスプーンが設置されている。これを用いてスープを飲むんやね。周りを真似て恐る恐る飲む。
びっくりするぐらい美味しい!鶏出汁の甘さと醤油の芳醇な香りが絶妙にマッチしている。大将の人間性をそのまま凝縮したような優しく甘いテイストのスープにアタシは思わずうっとりしてしまう。
続いて麺を食す。香り高い小麦の香りにプチプチと食感の良い麺。喉越しの良い其れを頬張る度に、なんとも言い難い幸せに埋もれてしまう。それに合わせてスープの香り高さに小麦の香りが混入し、何とも言えへん多福感に、アタシの思考回路がショートしかかる。あそこの空間は今まで両親に連れて貰って行っていたレストランとは一線を画す、底知れん庶民の、いや人間そのもののパワーがあったんや。
調理したり、接客したり、大将はドタバタとひとりで店を切り盛りしながら、会計する私に、
「どーもすんまへんの。うちは何時もこんな感じで、忙しゅうなると店ん中は基本ぐちゃぐちゃなってまうんすよ。嫌な事なんかなかったですか?」
アタシはすっかり興奮してしまって、嫌な事など一つもなかった。美味しく頂きましたと伝える。会計を済ませ帰ろうとするアタシに、
「毎度おおきに!」
と大将は言った。それは優しさと元気の割合が超絶的に黄金比率のトーン。アタシの人生においてあんなに元気が出る挨拶を、他に聞いた事がない。アタシは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
希望軒の大将はまるまると太っていた。いつも真っ白い作務衣をきてガニ股で特徴のある歩き方と鼻がかかった様な特徴のある話し方。
「街の人の希望になりたい思いましてね、店ん名前決めたんですわ」
とまん丸と出た腹を叩いて言うのが、妙に愛嬌があった。そうアタシは間違いなく大将に憧れてこの世界に入った。でもアタシは大将にこの事は伝えてはいない。大阪に住んでいた頃は通って居たので、アタシの事を玉ちゃんと呼んでくれて可愛いがってくれていた。彼の事を心底慕って居たからこそ、敢えて同業者である事は伏せたかった。そんな事で彼との関係性が無くなるのを、アタシが恐れたからやと思う。
しかし母が他界してからのアタシは凄まじい虚無感に襲われ、なんにもしたくない無気力な精神状態になってしまう。一週間程何もせんと実家でゴロつく私に、弟は馬鹿にして抜け殻にでもなったのかと無慈悲に言う。でもこんな時って不思議なもんで怒りも哀しみも起きひんのよ。感情を何処かで紛失したような暗闇のような気持ちやった。虎聞さんにLINEで有給の残りを聞いたら、あと10日もあるんやて。そんなに休んで現場復帰出来るやろうかアタシ?
確かに今のままだと良くない。脳の奥というか、心というか、人間としての感受性が日を追うごとに鈍化していくような感じがしていく。何か行動せなアカンわと思い、奮起してアタシは久しぶりに希望軒に足を向ける。まだ大将は相変わらず元気なんやろうか?
希望軒は今も健在である事を高らかに歌うかのような、あの憧れの赤い暖簾に心を躍らせて、アタシは入店した。
「いや誰やねん?」
思わず発してしまったのはアタシやった。そこには大将の姿は無く代わりにほっそい身体。比較的イケてない方のツーブロックに黒いセルロイド眼鏡の30代前半ぐらいと見受けられる年齢の男性が厨房からお前こそ誰だとばかりに不機嫌そうにこっちを見てる。なんとなくヤバいね。
まず状況を整理せなあかんわ。急に扉を開け此方側を見て先ず、店員である自らに対し、いきなりお前誰だ発言。これはどう考えても完全にこっちが失礼でした。
「いきなり失礼してホンマにごめんなさい。私此処の先代店主さんに色々可愛がって貰うてまして、尋ねてきたんですけど…」
その黒縁メガネの方は気が立ってるように、
「なんや松永さんの事かいな?」
とぶっきらぼうに仰る。どう考えても私の誰やねんは彼に聞こえたのは間違いなさそう、無礼を真剣にお詫びすると、本当は随分と気さくな方だった。
彼は田岡さんと言うらしく、大将の2代目としてこの店を引き継いで経営しているらしい。大将の本名は松永さんというらしく、大将の元で一年程修行したと彼は言う、アタシが最後にこの店に来たのが約二年前。それからいままでの間に、色々な事が起きた事だけは間違いなさそう。
「すいませんが松永さんは今?」
アタシは率直な疑問をかける。営業中の今、店にいないのも考えるとおかしい。
田岡さんは大きく息をつくと、厨房に置いてある椅子に腰掛け、
「今から丁度、半年前にご他界されましたわ」
と静かに仰る。アタシに対してもそうだったが、大将は自分の事を余り多く話そうとはされなかった。アタシが地元を尋ねると、
「その辺の関西のどっかや」
と面倒臭そうに、詮索するなというような素振りを見せるので、タブーとされてきた質問だったのはアタシも憶えてる。田岡さんは当時サラリーマンだったらしいが、丁度跡継ぎを探して居た大将の人間性に惚れこみ、脱サラして弟子入りしたそう。大阪を離れている間に、アタシの地元の味は微かに変貌しとった。
田岡さんは話していくうちに愛嬌のある方で、少しだけ大将の影もうっすらではあるが、微かに見受ける事も出来る。大将は生前に希望軒のレシピを田岡さんにに引き継いでご他界された。お子様が居なかったので、跡継ぎが見つかったのは嬉しかったに違いないやろね。そういう事あったんやとアタシはそのまま帰るのも失礼やし。懐かしい思い出の「醤油ラーメン」を注文する。
「ありがとな。でも俺の作るヤツは松永さんの味とはちょっとだけ変わってるみたいなんや、確かに俺は松永さんのレシピを引き継いだ。俺はそこからなんにも変えてへんねん。其れはホンマや。でもなお客さんからは前と味がちゃうわとか、一寸レシピ変えたやろって言わはる方がおんねや。なんでなんやろうね。それがホンマにわからへんねん」
と田岡さんは不思議そうに語りはる。
実はアタシも似たような記憶と経験があんねん。
無双布武に入りたての頃、生活費に余裕がなくアタシは職場の賄いで一日の栄養を満たしていた時期があった。何故かバイトが全員辞めてしまって人員不足の状況で、当時駆け出しだったアタシと、御子柴いう口の悪い出っ歯の同期と、澤北店長でピーク帯から閉店までぶっ続けで、休憩も取らず店舗を運営していた地獄としか言いようのなかったあの頃。
アタシ達は閉店後、疲労困憊で3人で賄いを食べて帰宅するという時期があった。賄いは当然、無双布武ラーメンやから、慣れているアタシ達は調理役を交代制にした。でも当時、正直言うと今でもやけど、アタシは特にこの口の悪い出っ歯の御子柴を毛嫌いしていて、奴の作るラーメンは何故か美味しいとは感じることが出来ひんかった。でもその反面、優しい澤ヤンこと澤北店長の作るラーメンは何か味付けを変えてるんちゃうかと感じてた時もある程、美味に感じるという不思議な経験があった。
結局味覚を判断するのはブレインやからなんやろか?
この田岡さんという脱サラ叔父さんは今まで懸命に努力して来られたんだろう。麺の茹で方からスープの丼への移し方まで、ホンマに大将そっくりだった。それはまるで物真似芸人を思わせる程に。
傷つけたらアカンと思って流石にそれは言わへんけどね。仕上がったラーメンのルックスは間違い無く「希望軒」のラーメンで間違いなかった。
チャーシュー、シナチク、青葱の天乗せ、少し黒みがかった黄金色のスープ、鼻腔をくすぐる甘い香り、私をこの世界に引き摺り込んだ張本人の様なラーメン。
でも彼はこのラーメンが、先代の大将が作った物と、全く同じレシピであるのにも関わらず、別物であると仰られる。アタシはそんな事言われてもリアクションに困るわと思った。恐る恐るスープを飲んでみると、確かに希望軒の醤油ラーメンに違いないと思う。更には麺をたぐって食してみると、いや間違いなく「希望軒」の味だ。懐かしい希望軒の味に、私が学生の時に初めて食べたあの瞬間とリンクし、デジャブのような感覚が生まれた。アタシは思わず、大将がそこに居るような錯覚を感じ、居ないはずの彼に思わず話しかける。
やけど実際厨房を見るとそこにいるのは、田岡さんやった。当たり前やけどね。でもそう感じた瞬間に食べていたラーメンの味も大将の時と違うような気がする。私の味覚が変わってしまったのかも知れへんけど、言われてみれば違うような気がせんでもない。正直言うとよくわからへん。
田岡さんは困った様な笑顔で、
「やっぱり…松永さんのヤツとはやっぱりちょっとちゃう感じします?」
と尋ねてくる。アタシは彼が大将に寄せようとしすぎて居るのかも知れへん、実際目の前にいる人間が違うんやし、受け取るほうのコンディションも受け取り方も、今日と明日では違う可能性も絶対あるし。そういう事はなんとも言えへんやん。
「あんま気にせんとえーやないかと思いますよ。確かに大将には大将の味があったとしても。貴方はそこに100パーセント、寄せる必要は無いんやないかな思います。貴方は貴方なので、如何に貴方の素晴らしさを出す事に、一生懸命ならはったらええんやないでしょうか?…こんな小娘が生意気言ってごめんなさい」
ほら!また勝手に熱なる癖が出てしまった。
アタシが自分の嫌いな所。
田岡さんはは静かに俯いていて、何かを熟考されている様に見受けられたが、ふと顔をあげられて表情の曇りがやや少しだけ晴れた様に見えた。
「確かにあんたの言う通りやなぁ。ワシはなんかに囚われとったんかも知れへん。確かにあの人になるのは無理やね。俺は俺にしかなられへん。そう言う事やろ」
多分そういう事なんじゃないかなと思う。同時にアタシもアタシにしかなれへん。其れを聞いて、田岡さんの表情は少しだけ明るくなった様に見えた。姉ちゃんはなんの仕事しとるん聞いてくるので、正直に今までの経緯を話す。
「www.なんや同業者やったんかいな!それやったら松永さんからスープ作りのレシピ預かってんけど、持って帰る?」
田岡さんは急に、聞き間違いやあらへんか思う様な事を言い出す。他所がどうかは確かにはわからへん。けども基本的に飲食業の人間が、料理のレシピを部外者に口外するなんてありえへん事。私の働いている無双布武に至ってはスープはセントラルキッチンと言われる工場で作成されていて、詳細なレシピに関しては上層部の人間ですら知り得ない。つまり飲食店においてレシピというものは、絶対的に他言不可のトップシークレットという事や。
彼の言ってることがわからず、ポカンとしていたアタシに田岡さんは、
「www.それも松永さんの意思やねん。確かに店のレシピって人に教えへんもんやもんな」
と笑って続けた。
「あの人って、俺の前には弟子とか取らへんかってんな。でもひょんな事から健康診断に行った時に、いきなり余命を宣告されてまうねん。本人はもう少し長生き出来るつもりておったらしいねんけど、急に余命宣告された時に、急に自分の味を守りたいっていう思いが生まれたらしいねん。ほんで俺を雇ったって理由」
と話しながら、田岡さんは大将と肩を組んで笑っているスマホの写真を見せてくれた。二人とも店内で穏やかに笑っている素敵な写真だった。それを懐かしそうに眺めながら、田岡さんは大将との思い出を続けた。
「亡くならはる数日前にな、もし俺を尋ねられる人間がいて、またその人が俺の味を引き継ぎたいという人が来る事があったら、誰にでもかまわず教えたってくれや。その人の中で、俺のラーメンが生き続けてくれるとするならば、其れは其れで美しいって思えんねんっていうんが、松永さんの遺言やったんや」
と田岡さんはスマホの写真を、懐かしそうに眺めながらに語った。アタシなんかに味を引き継ぐ資格は無いと断ろうと思ったが、正直言って大将のレシピには興味は大あり。恥を捨て去り田岡さんが書き移したレシピを写メさせて貰う。そのあと数分程アタシ達は雑談した。帰ろうとするアタシの背中に、
「毎度おおきに!」
田岡さんのお見送り挨拶は、まるで大将の生き写しかのようやった。思わずアタシは振り返る、田岡さんの背の上に、大将の薄らとした影の様なシルエットの様な映像が一瞬だけ錯覚のように感じられた。
多分見間違えやろけど。
アタシは今まで、独立して自分の店を持つ事を目標に生きてきた。せやからマンションには寸胴鍋やラーメンを作る為の調理器具は一式置いてあるし、休日はスープを作る事も結構やってきてると思う。流石に毎回麺を食べると、スタイルに響くんで、スープが出来ると野菜や豆腐を入れて食べるようにしてた。圧力鍋で豚骨を長時間も炊いたこともあるし、魚介系だしに昆布を潜らせた和風のスープに敢えて牛の背脂を入れたり等、我ながら色々やったと思う。
預かった大将のレシピは鶏ガラを80度の水で長時間煮るという調理法は、アタシの立てた仮説を外れることは無かった。
「仮想希望軒の醤油ラーメンのスープ製作」
を着工した回数は、二本の腕の指足してもきかへんぐらい。なんといっても希望軒はアタシの原点やから。
実家のベッドで撮影したスマホで大将のレシピを見ながら、田岡さんの全く同じ調理法でも結局味が変わってまうという話を思い出してた。味覚というものは不思議な感覚で、時が経つにつれて美化されたり、逆に風化されたり、不安定な側面も持っていると思う。
2年前当時付き合っていた彼氏とデートで行ったイタリアン、彼は気取ってジュノベーゼパスタなんか頼みよった。洒落たようにお高くとまったその注文に、アタシはちょっとだけ不服やった。けど少しだけ分けて貰ったそのパスタはもの凄く美味しかった。でもその彼とは最悪な喧嘩別れになってもうて、バジルという食材そのものを、避けてしまう今があるように。
虎聞さんに有給の残日を確認すると、あと8日あると言うので、取り敢えず2日後には復帰したいと伝える。児島店は今のメンツで大丈夫そうだから、現時点としては取り敢えずマンションにて待機。
勤務先に関しては後日報告との事。アタシは大阪を離れる前に、母の墓に彼女の望む道に背き、我が道を突き進む愚かな娘を許してほしいという謝罪と、これからの人生何があろうと自分の間違ってると思うような生き方はしないと誓う。
アタシのこういう人間性を、前に重たいって言われた事もある。でもこれがアタシやから。
大阪を離れる前に、父から鳴丘通商の役員の席を提案されたが、そんな事より今まで会社を支えてくれた社員さんに還元したれやと怒鳴りつける。やっとホンマの姉ちゃんが帰ってきたと、横で見ていた馬鹿弟は喜んでいたが、正直アタシには全部どうでも良いように感じられた。田岡さんと会った後でも、アタシの心はまだ抜け殻のままの状態やった。
正直言うと、このまま会社辞めたいような気もするし、もうラーメンなんかどうでもいいような気持ちも正直言うたら無い訳じゃない。田岡さんみたいな純粋な人だったらこんな精神状態にはならへんのかなぁ?
岡山から児島に向かうまでのローカル線から見える風景がアタシは好きや。長閑な山道を越え、最初に海が見えた時は思わず声を出して喜んでしまった。一人なのに急に感嘆した私を隣の子供が指をさして笑ってたのがめっちゃ恥ずかった覚えがある。
愛想笑いで誤魔化し心の中で、
『すいまへん。都会っ子なもんで』
と心の中で内密に毒づく。でも正直言うとこの街に最初に来た時から好印象だった。アタシは勿論生まれ育った大阪を愛しとる。だからこそ離れる時は抵抗もあったが、広島も実際住んでみると良い街やった。離れた今でも、彼処がまるでもう一つの故郷の様に思える瞬間がたまにある。
恐らくにして間違いなくアキさんのおかげやね。
児島駅に着いて、またこのデニム一色の駅に着くと、何故かこの真っ青な駅の構内にて食事したくなったので、キオスクでサンドイッチとコーヒーを買って食べてみる。やっぱこれで正解や。母が他界してしまってから、アタシにまとわりつくモヤっとした暗い気持ちがずっとついてまわってた。でもそんな気持ちの悪いヤツを此処から一枚ずつ丁寧にひっぺがしていこう。アタシの中で少しずつ少しずつ心の温度が、温度を取り戻していく。
此処はそんなポジティブなブルーや!
食事を終えて、駅の近くを歩いてみる。すると港が見えてくる。思えば港に来る事自体、アタシの人生において数回ぐらいしかないぐらいの貴重な経験。気がつかない内に、アタシは気分が高揚していた。太陽の光を受け反射する水面、停泊する船に朽ちかけた様な漁具、その全てがその日のアタシにホンマに新鮮に映る。なんて長閑で美しい風景……。
そうそう港の端には久しぶりに見るのはアタシの後輩、パオこと最近店長任されたばかりの望月君。テトラポットに座って彼は魚釣りを興じてた…。此処の漁港の雰囲気ホンマに素敵…まるで時が止まったかの様に長閑やし…。
ちーがーうって。何してんねんコイツ!
なんやねんこいつ。人がこんなに落ち込んでいるのに。なんかムカつくから、なんもされてないのに目に物を見せたろ。アタシは奴の視界に入らないように音を立てないように近づく。でもこのテトラポットの上を移動してみると、足場が悪く移動が滅茶苦茶大変。汗だくになりながらも、なんの為こんな身体張ってるのか自問自答繰り返しながら、必死でテトラポットの間から釣り糸を垂らしているパオのこっそり横につく。荒れた呼吸を整え、年老いた老婆に声色を寄せて語りかける。
「どうですかな、釣れますかいの?」
パオはアタシの方をみる事もなく、小さなクーラーを乱雑に指差した。気になるんだったら、そん中開けて見ろよとその指は語ってる。なんやねん此奴と思って開けてみると、クーラーの中にはメバルと型の良いガシラが5匹ぐらい程入ってた。
「凄い!」
と口走りそうになるのを抑え、一回落ち着く。音を立てず、パオの横にスッと入り、
「ほんで、店は今どうなっとんじゃ」
と声質をあたし本来のトーンに戻し、軽めにドスを聞かせて脅すように話しかける。
パオは私の方を向き、ビクッとなって子リスの様な驚嘆のリアクション。やっぱ此奴ちょっと可愛いわ。
「こんな所で、脅かしたら下に落ちるでしょうがー」
まるで子どものように、怒りだした。
やば。笑い止まらん、此奴こんなオモロかったっけ?
「この下落ちるとめっっちゃ、痛いんだよ」
「www.落ちた事あるん?」
「中1の時、一回だけね。一回落ちただけなのに5個も怪我したんだから」
「その上に海水濡れるし、付随するバツ効果としてはしんどいなwww.まぁパオは落ちそうなイメージ確かにあるかな?」
「俺そんなドジキャラじゃ無いよ!」
その返に会話にならない程、アタシはツボに入って笑ってしまう。
「ちょっと笑い過ぎだって、玉ちゃん」
「わかったってごめん。あと5箇所な、正しく言うなら」
「うん? でも良かった玉ちゃん元気そうで、お母さんの件は聞いたけど、大変だったね」
「うん。しんどかったけど、さよならは言えたわ」
「お母さんは?」
「幸せそうに見えた。でも私の主観的な願望がそう見せているだけ…」
「幸せに決まっとるがよ!娘に会えて嬉しくない親が何処においもんかよ?」
「そうやったらええんやけどなぁ。パオさ」
「何?」
「感情的になった時、方言出るな」
「五月蝿か」
「アタシゃえー思うで。味があって」
「どーもあんがとさん」
海が太陽に照らされ、キラキラと反射してえらい綺麗。まるで見る物の心を撃ち抜くレイザーみたいかも。この後輩はアタシに対しては、もうタメ口でいくって決めたみたい、でもこの海見てるとまぁええかって思えてくる。母さんに会えたのもこいつのおかげやしな。
「ほんで店はどうなっとん?」
「新しい店長来てる」
「は?」
「俺、会社辞めんだよね」
「えマジ?なんで辞めるん?」
「実家に居る同期がそろそろドイツに帰るから、親父だけじゃもうしんどい。店まわらんから帰ってきてくれって」
「そうなんや…。」
同期居らん筈かったやけど?日光当たり過ぎて頭やられたんかな?まぁええか。
「ちょちょちょ、これどうやって釣るんよ。教えてや」
穴釣りという漁法らしく、テトラポッドの間にエサを落として居着いた魚を釣る釣法らしい。こんなんで釣れる訳無いやろとツッコむ所やけど、既に実績が物語ってるしな。
オモチャのような短い竿に、玩具の如き小さなリール。こんなんで魚が釣れんのと疑いながら、パオ持参の塩締めアサリがあんまりにも臭すぎたので、餌付けは本人にして貰った。此奴曰くテトラポットの間は魚の棲家らしい。言われるがまま、隙間に餌をゆっくりと落としていく。オモチャの竿にツンツンという小鳥が餌を啄む様な反応がある。童心に戻るとはまさしくこの事。ドキドキとワクワクがほんまにヤバい。
ツンツンいう反応が無くなった。パオが言うには餌が無くなったらしく、巻き上げてみると確かにその通り。もう一回餌をつけて貰って別の隙間にずいっと落として見ると、ゴンッと竿先が曲がってギュウゥと引っ張られる。中に人間がおって引っ張っとんちゃうかという意味不明の錯覚とかが交錯し過ぎてアタシは完全にパニックに陥った。それを見かねたパオが竿をグッと支えてくれて、
「リール巻いて!」
と大きな声で言う。結構な引きを懸命に釣り上げて、あがってきた魚は大きなガシラ、母さんが買ってきてよく煮付けてくれた思い出の魚やった。
「見て!めっちゃ大きいガシラやぁ」
というアタシに対し、パオは何それって顔して
「いやアラカブっしょ」
と返す。
「なんやねん、その…語彙力ヤバい名前。この魚はどう見てもガシラやん」
「何だよ。そのゴジラもどきみたいな名前。この魚はアラカブってゆーの」
アタシ達はお互いに顔を見合わせて首を傾げた。ググってみると関西の呼び名がガシラで、ほんで九州ではアラカブって呼ばれていて、でも本当の名前つまり学名はカサゴって言うらしい。争っていた私達は二人とも別の名前で呼んでいた。なんやねんそれ統一せぇよ、って言うてアタシらはそこそこ笑った。
しかしアラカブって名前の語彙力ヤバくない?
ついアタシはホンダカブに乗った荒くれ者風バイカーが、暴走族に入れてくれって頼みに行くけど、
「いやwww.原付だとちょっと無理っすね〜」
って冷淡に加入を拒否られる映像を想像した。入れたりゃえーやん可哀想に。でも原付に速度合わせんといかんから、今後暴走は出来ひんくなるけどなwww.
でもこれは恥ずかしいから、アタシの中だけで留めて誰にも言わんとこ。
「今日釣った魚、家で煮付けようと思うんだけど来ない?」
ってパオに誘われた時には、テンションあがって絶対行くわって快諾した。ほんでもよくよく考えたら彼奴って男なんよなぁ。最悪やで。押し倒されたりされる様な事があったらどうしようと一瞬よぎる。でもパオに限ってそれは無いやろ。最悪そうなってたとしても、金玉蹴り上げればなんとかなりそうやし。
それにしてもアタシどうなるんやろ?異動待機ってなんなんやろ、初めて聞くフレーズ。寒い所だけは勘弁やで、アタシ極度の寒がりやからな。いやほんま。
夕方、彼奴に教えてもらったアパートの前で電話する。でも、なんぼ鳴らしても出らへん。どういう事なんやろ?部屋がわからんから電話かけてんのに。3回かけても出らへん。これはどうすればええんやろ?帰ろうか?無駄足過ぎひん?コンビニで珈琲でも買って時間潰す?それ女として負けてない?うーんどっちに転んでも全部ムカつく。
色々考えたけど、もう一回電話をかけてみる。
うん?聞こえてくる着信音から彼奴の部屋が断定されてしまう。窓から覗くと彼奴は寝てた。自分から誘っといて、まさか寝てるとは思わへんかった。あり得なくない?男のツレとちゃうで?一応レディやねんで!ホンマに考えられへんねんけど!
腹たってきたんで部屋のドアをガンガンしてやったら、
「新聞だったら取らんですよぉ」
と寝ぼけ眼でドアを開けて私を見て、
「店長、新聞勧誘のバイト始めたんすかぁ?」
昔の漫画みたいな天然ボケ。あまりに古典的過ぎるボケに呆気に取られてアタシの方が固まっちゃったわ。
このオールドスクール天然ボケに、しっかり現状を把握させるのに3分も費やした。コイツは釣りから帰ってきてから、そんままベッドに倒れて寝たらしく、クーラー内の魚もそのまんま。氷が溶けてへんかったのが責めてもの救いやった。しゃあないから、今から二人で仕込まなあかんね、と言う状況やねんけどここで一つ問題が発生。アタシが魚触られへんねん。ぶっちゃげこの魚棘だらけで怖いし。こっちは来たらもう出来てるつもりで来てるし。調理未着工なんて想定外過ぎやし。
顔洗ってしっかりしたのか、パオは私の知ってる望月君に戻っていた。地元のレコードショップで働いていた時から結構釣りはしてたらしく、鱗落としと料理バサミで手際良く魚の処理を済ませていく。パオが余りにも手際が良かったので、私もなんかやらせろいうと、出汁が身に良く沁みるよう魚の腹部にバツの字の切れ目を入れるよう言われる。魚触られへん言うてるやん言ったら、
「そんな事も出来ないなんて、まるでちっちゃい女の子みたいに可愛いね。玉ちゃん♪」
って馬鹿にされた。
むっかついたから、ムキになってやったら確かに普通に出来たけど。
処理した魚を生姜と牛蒡、白出し•醤油と酒で味付けすると、母がたまに作ってくれたガシラ改めカサゴとメバルの煮付けが出来た。パオのアパートは、ベッドとテレビと洗濯機しか無いぐらいの質素の極みといった生活やった。彼処で2千円ぐらいで売ってそうな安っぽいちゃぶ台。出来た料理と奴の地元から送って貰ったらしい「多良㐂」とかいう焼酎を薄めに割ってもらう。中古の画質低めのテレビで丁度やってた漫才のネタ番組を見てると、不思議と昔家族で笑いながら食卓を囲んでた頃を思い出した。
「やっぱ魚めっちゃ旨いわ。外で食べると千円以上するもんねぇ」
と言うとパオは自慢そうに、
「新鮮さが違いますから」
とイキってきやがる。ので、
「放って寝てた割にはな」
とチクリ。するとバツが悪そうに視線を逸らした。
帰る時、見送りに来てくれてコンビニで珈琲を買って漁港を歩く。
「仕事何時迄なん?」
「今週迄。それから有休消化。そうなったら鹿児島もう帰る」
「そうか〜虎聞さんはなんて?」
「決めたんだったらしょうがねぇって」
「あの人らしいっちゃ、らしいかな…」
「玉ちゃんも来ない?鹿児島」
「なんでアタシが行くん?」
「なんでって言われても…。一緒にやったら楽しそうじゃん」
「楽しいかも知れんけどさぁ。行く理由がないやん」
「……。そうかなぁ?」
なんなんこいつ?
「ほんで店はどうなっとん?新しい店長ってどんな奴?」
「玉ちゃんの知ってる人だと思うよ」
「御子柴?」
「じゃないよ。ミコシンは難波だよ一生。多分だけど」
「せやんな。え、誰やろ。めっちゃ気になってきた」
「明日来てみればいいじゃん、そんなに気になるんなら。俺も出勤だしどうせ暇っしょ」
「やかましわ。んーまぁ確かに暇は暇やねんけど、なんか行ってオモロい事あんの?」
「オモロい事は間違いなくあるだろうね。まぁ玉ちゃん次第だからねぇ、受け取り方次第かな?」
「んーまぁ、あれや。行けたら行くわ」
漁港のベンチに二人で座って全然お洒落じゃ無いのが逆にメロウ。珈琲の香りと磯の匂い。合う合わんで言うなら、勿論合いませんけども。
次の日パオに言われるがま、アタシは無双布武•児島店に足を向ける。彼奴が言ってた新しい店長、アタシが知っている人間だというが、ホンマに誰なんやろ。店に近づくと、確かにアタシの見覚えのある丸坊主の図体のデカイ男が飛び出して出てきて、見送りをしている。
彼奴や。ヤバい奴や。パオの言ってた新人店長は、確か御子柴とバンド的なヤツを組んでいた呼男君とかいう奴やった。確かアタシと入れ違いで難波に異動で来たというのは聞いていた。でもその頃から、変なバンドしてるとか、色んな意味でヤバいとかいう事で界隈では有名やった。でも仕事は超絶的に天才で、凄腕過ぎて逆に会社辞めたっていう謎のエピソードを聞かされた事あったっけ。
知らんけど。
呼男の視線に入らん様に、アタシは店内に侵入する。客の入り率は2割といった所。厨房を見るとパオと瀧本さんが談笑している。お客さんの目に映る所では私語は慎む様に育てたはずやねんけどなぁ。
アタシは二人の視界に入らない様に、すっと厨房内に侵入しパオの背後へまわり込み、奴の後頭部を優しく叩く。
「お客さんから見える位置でくっちゃべんな。言わへんかったか?」
「あ、すんません店長!・・・・www.玉ちゃん」
「お久しぶりです瀧本さん。以前勤務で一緒になった時は、心ここに在らずといった感じで大変ご迷惑おかけしました」
彼女には深々と頭を下げる。この人にはホンマに迷惑かけた。彼女は全てはパオから聞いたので、アタシの心を逆に気遣って下さる。職場の雰囲気も良く、アタシが居ない間に二人は良いラーメン店に作りあげていてくれていた。
「あーれー、知ってる人だぁ!」
声のボリュームにビックリさせられた。
しかもその上、近距離でかつ声が五月蝿い。振り向くと其処に居たのは他でもない丸坊主の呼男とかいう奴やった。
「前に御子柴と一緒に働いてたでしょ〜?僕彼奴と友達なんですよ〜」
知ってますけど何か?と思いながら適当に処理して流そうと思っていたアタシは、呼男のその直後の行動に度肝を抜かれた。ヤツはその場でいきなり、胸に平手を添えたまま、その場で直立の姿勢のまま、直線上にかつ連続的に跳び続けた。
いやなんで跳ぶねん。以前過去にアフリカの部族で飛びながら、なんらかの儀式をする部族をテレビで見たことがある。が、これはあれのカバーかなんかやろうか? わからん。どっちにしてもコイツがどういう感情で跳んでるのかも、こっちは知らんし理解する気もあらへんし。
「ハハハー!知ってます、知ってますよ!
前に御子柴と仕事してた…ねえ!」
賛同を求め、パオの立ち位置を振り返ると誰も居らへん。え?と思い周囲を見回すとパオと瀧本さんは二人でコソコソと洗い物に取りかかっていた。しかも二人とも含み笑いで、チラチラと此方を覗き見してやがる。これはアタシにこの呼男とかいうこの奇人をあてがう為の罠だったんや。
「アハハ…。会社戻ってこらはったんですね〜」
最悪にもアタシは奇しくも、目の前の飛び跳ねる男の対応をせざるを得ない状況に陥る。
「そーなんですよ。僕は此間まで四国の高知まで行ってたんですよね。そこには桂浜っていう美しいビーチがあって、そこで禅の修行を初めましてね。実は其処でとある真理に辿り着いたんですよね〜」
と彼は飛び跳ねる事を辞め、その場でボックスステップを踏み始めた。もう会話にならないので、とりあえずダンスを辞めて貰う。
「真理ですか?凄〜い哲学的ですねぇ。アタシ興味深いですぅ♪」
正直言うと、この変人が発する言葉にビタイチ興味ない。でも空気が変になって会話が長引かないよう、取り敢えずそれなりの相槌を返す。そんなアタシの思惑に気づく様子も無く、呼男は胸に平手を当てたまま、高らかに宣言した。
「それはですね。人間という生き物は、働いて収入を得ないと、生活していくことが出来なくなってしまうという事です!」
いや、極めて普通の理論なんやけど。それ出すのに禅要らんでしょ。
「凄〜い!へぇ~確かにそれ、真理かも知んないなぁ」
と取り繕って返すも、このやり取りに終わりが見えない。っていうか、ホンマになんやねんこの人、本当に変わってはるわ。
頼む。助けてくれという気持ちで、厨房のパオ達を見ると、瀧本さんとこっちに来てくれる動きだしを見せる。助かったこの地獄から早く解放してくれ。戻ってきたパオは勿体ぶって、
「二人とも知ってる間みたいだから、放っておいたんですけど、後任の佐々木店長。こちらは僕を育ててくれた上司の鳴丘店長です〜」
と比較的雑目に、私達を紹介した。
うん。放っといたってどういうことやねん。
なんやこの人、苗字佐々木っていうんやねと思って、呼男の名札を視線を向けると「佐々木翔」と記載されていた。呼男ちゃうやないか。なんで呼男って呼ばれてるんやろ?何故かアタシそれが妙に面白くなり、吹き出すのをまた堪える事になってしまう。
堪らず下を向いて、笑いを堪えてるアタシに追い討ちをかける様に、パオは佐々木翔に質問をかけた。
「そういえば翔さん。高知に住んでる頃、禅にハマってたんですよね?」
「そうなの、禅はええのよ。禅を組んで瞑想をするとな。体内思想における全ての悪が浄化され、体内における本来の透き通る無限大の愛を放出することが出来る心になれるのよ」
いや、どんな心理状態やねん。達観しすぎやろ。そんなあたしのサイレントツッコミも虚しく、翔は胸に手を当てたまま、目を閉じ語り続ける。
「スピリチュアルな瞑想をしてると、精霊が語りかけてきます」
そう語る翔にパオは合いの手を入れるが如く、
「そういえば瞑想される時間のベストってありましたよね?」
と質問する。翔は胸に手を当てながら、
「うん。瞑想は深夜がベスト。得に午前3時を廻ると面白いもので、急に精霊達の声が良く聞こえる様になります。まるで靄が開けたかの様に……」
いや。それ精霊やのうて亡霊やないの?
もうホンマにこの人ヤバいと思って、パオを見るとコイツも完全に笑いを堪える顔になっている。いやいやいや、アンタら仕事中やし、ホンマに霊やったとしてもちょっと怖いし。
一体何をしているんでしょうか、アタシ達は。
「ねぇ、そろそろ仕事に戻りましょうか?」
と無理矢理目に話を打ち切り、アタシはその場を離れ瀧本さんに話しかける。勿論大分変わっとるけど新しい店長と今後一緒やっていけるのかという相談をする為に。
「うん。少し変わっとるけど、仕事はめっちゃ早いし、良い人よ。せやねぇ、天才肌って感じなんよ。うーん例えて言うなら、リオネル•メッシとジミー大西を足して2で割ったって感じかな?」
誰と誰を掛け合わせとんねん。おい。
結局の所、この人も伏兵だった。可笑しすぎてもう付き合いきれへん。全員一丸となってボケすぎやし、いちいちツッコむのもしんどいし。
もう良いやと思ってアタシはそのままアパートに避難するかのように帰る。虎聞さんから異動の連絡が来たのは、その日の夕方やった。その移動先は関東より結構上の寒い事で有名な県やった。遠いなぁ。
異動日はその2日後やった。殆ど荷造り解いて無かったアタシは、午前中のうちに荷造りを終わらせた。人寂しさを覚えたアタシは無双布武ラーメン児島店に立ち寄ろうかと思うも、あそこはなんばグランド花月みたいに笑いを仕掛けてくるので、行くのは辞めてジーンズストリートに出かけ、パンツを一着買って喫茶店で紅茶を飲んで時間を過ごした。
希望軒二代目田岡さんから預かった醤油ラーメンのレシピをずっと眺めていた。大将の後継者は田岡さんになった。もし私がこの味でもし店が持てたとしても、それは結局の所、田岡さんの二番煎じの様な気がしてならない。
それってアタシのやりたかった事やろうか?
そもそもアタシ何がしたかったんやろうか?
アタシは何がしたくて500万も必死に貯め込んでたんやろ?
真剣に何時間も考えたところで、答えなんか出てくる訳なんか無かった。帰ってベッドに寝転んでニュースを見ていると、中東の辺りの物騒な事件を報道していて、アタシは少し悲しい気持ちになりながら、うとうとと微睡に。
ピコリンとラインの通知でその微睡から、ずるんと引き起こされる。
望月包太郎
「話あるから、いつもの漁港で23時に」
いつもの漁港って、なんなん?此間釣りしただけやん。ワードチョイスのダサさに思わず吹き出したが、それまではもう少し時間にゆとりがあるみたいなんで、アタシはまた微睡の中へ。
漁港に着くとパオはベンチに座ってボーッと真っ暗な海を見ていた。
「どしたん、精霊の声でも聞こえるん?」
「俺、呼男君じゃないし」
とパオは薄く笑った。
「ホンマにヤバいなあの人、もうなんかに取り憑かれてんかも知れへんやん」
「共存出来ずに出ていくんじゃない?霊の方が」
「この人間には憑いてられへんわ〜言って出ていくん?だったら凄いな〜陰陽氏泣かせやん」
「逆にバチバチ陰陽氏の血脈って可能性もあるよね」
「www.めっちゃウケるなそれ」
「そういえばあの人、名前は佐々木翔って言うんやな」
「実はそれが本名みたいなんだよね。呼男っていう呼び方されるの嫌いみたいで、ちょっと怒るんだわあの人」
「なんで怒らはんの?」
「知らんて」
「そもそもなんで呼男なんやろね」
「ミコシンが言うには『ノブオ』を呼び間違えて『ヨブオ』になったらしいよ」
「なんで?佐々木翔なのに?」
「俺も知らんて。ミコシンに聞いてよ」
「面倒くさ。御子柴の番号知らんし。それ知ってどうすんねんって話やし」
「あ!あのさ今日アタシ思ったんだけど、『佐々木翔』って名前見て、一つ感じた事あんねんけど」
「うん何?」
「『B級暴走族の旗持ち』みたいな名前しとると思わん?」
「wwwなんじゃそら。全国の佐々木翔さんがブチ切れるって。真面目な佐々木翔さんはどうすればいいの?」
「佐々木翔に真面目な奴居らへんて。名前に授けられた勲章に従い、暴走するって」
「www.それ玉ちゃんの一人称差別だろ。ありとあらゆる所から怒られるよさ」
アタシのネタ非難するのは、気に食わへん。トドメを刺さなあかんわ。そこでアタシは胸に平手を当て、
「本日は謹んで旗持させて頂きます!」
と少し佐々木翔に寄せて言うと、パオは笑い崩れた。
「族が謹むな」
と返すのがやっとらしい。随分とツボに入ってたみたいでコイツの回復を待つ時間が、少々面倒くさかった。
「ほんで本題わい?」
「まぁ飯でも食いながら話しましょうや」
「後ろのファミレスぐらいしか、やってるとこ無いやろ」
「そっすね。そこでご馳走しますから」
「それやったらファミレスで待ち合わせれば良かったやん。なんで漁港にしたん」
「港で待ち合わせってフレーズが、カッコいいじゃん。ギャング映画みたいで」
「お前は中学生か。あとアタシ女やし」
アタシ達が丁度入った時、そのファミレスは客は2組やった。壁にかけてる時計を見た時丁度午前0時。パオはお腹空いてるらしく、ハンバーグの中にチーズの入ってる、超ベタなザ•ファミレス注文になぜかその日のアタシは少しひいていた。別に良いじゃんね。
「異動。らしいね」
「うん。らしいな」
「場所聞いたんだけど」
「あーホンマに?」
「遠…くない?」
「ホンマやねえ…、アタシも正直マジ参っとるわ」
パオが頼んでいたチーズインハンバーグが届く。アタシはドリンクバーで紅茶飲むだけだった。少しだけハンバーグを分けようとするパオに、今食べると太るから意図的に食べないのという事を説明するのに、多少なりの労力を多少なりに大目に使う。
マジで面倒くさ。
「行かんで良くね?」
ハンバーグのタレでライスをがっつきながら言うパオに、アタシは思わずキョトンとする。
「なんでなん?クビになってまうわ」
「そーなるだろーね」
「ちょっと。どう言うことなん?」
「俺も辞めるし」
「パオは実家継がんと、いかんからしゃあ無いとしてもアタシは継ぐ店もあらへんのよ。職を失う事になるやん」
「…。だから玉ちゃんも一緒に継ぐの。俺の実家を」
「え?なんで?此間もそないな事言いよったよね。アタシが継ぐ意味が無いやん。大体パオはどうするんよ」
「俺も継ぐよ。親父の店を」
「ん〜…せやんな、店被ってるやん」
「被ってない。二人で継ぐから」
「は?ホンマ意味わからんて」
「だから…その…玉ちゃんが俺の元に来る感じになるね」
「は?なんでそうなるん」
「うーん。わからない?」
「一個もわからへん」
「そんな俺ってさぁ、魅力無い?」
「はぁ?…マジ何が言いたいんよ?」
「だからぁ、俺の所に来てくれっつってんの」
「そこがわからへんねん。何で行かなあかんねん!」
「おいがわいの事が好きやっで、一緒にラーメンを作っていきたいっつってるところやろうが!」
「は?」
「ん?だからわいん事が好きやいう訳よ」
「え?」
「うん?解らんの?んんー…。だから貴方の事が好きなのよ」
え?誰が?
「うん?え?えへへ。ぅえ?ホンマに意味わからへんねんけど。ホンマどゆこと?」
正直言うとファミレスでそんな恥ずかしい事、デカい声で言うなって気持ちが強過ぎて、ホンマに思考が完全に止まっとった。
〜第四節目 fin〜