第二節
ラーメン! 第二節目
格安だったLCCの航空券で関西空港につき、それから電車に揺られ2時間ぐらいローカル線を乗り継ぎ、俺は西宮市に着いた。道中目を覆いたくなる程の眩しいまでの大都会に目を回しながらも、俺はなんとか無双布武ラーメンの総本山本社に到着した。
ラーメン屋の2階が事務所になっているのかと思いきや、普通にドラマに出てくる様な大企業の事務所だったので少し、いやかなりビビる。俺は受からなかったらどうしようという不安が募り、トイレで稔君に貰ったお下がりのスーツの丈を必死に揃えた。
心臓が口から出るんじゃないかとか言って、実際は出ないぐらい緊張して面接に挑んだ。面接官は思いの外、優しい口調だったので緊張が解け、自分のやりたい事を素直に伝えることが出来た。ただし実家がラーメン屋をやっていて、そこを継ぐために修行する事が本当の目的、という事を伝えるのは宜しく無いのではと思い敢えて伏せた。結果が出るまで稔君の指示に従い、周辺のゲストハウスに寝泊まりしながら、周辺を散策するという予定通り、俺はチェックインを済ませる。
そのゲストハウスは超破格で一泊2千円だった。今まで実家の味しか知らなかった俺は、無双布武ラーメンを食べてから他のラーメン屋も勉強しとかないといけないと思ってたので、此処を拠点に関西方面の有名なラーメン店を勉強するべく、周辺の情報を入手する為にゲストハウスのリビングルームでラーメンに関する情報誌を見ていた。
その最中に俺は見知らぬ2人の外国人に声をかけられる。一人は短髪で体格の良い30代ぐらいの男性で、モスグリーンのポロシャツの袖からゴツいライオンのタトゥーが見えている。ガタイも良いせいもあって少し怖いが、聖者の如き笑顔なので恐らく敵意は無いのだろう。もう一人は20歳なるかならんかぐらいの若僧、まあ俺と変わらんぐらいのヒョロッとした奴で、焦茶色の天然パーマが特徴のガキという二人組だった。
天パのガキが、凄い早口の英語で話してきたので、俺は意味が解らず凝固していると体格の良い方が、
「ラーメン、オスキナンデスカ?」
と訳してくれる。見た目の迫力に最初ビビったけど悪い奴では無いようだ。超絶的にカタコトだが時間をかけて、よく聞けばボディランゲージを交えて真剣に語りかけてくるすごく感じの良い奴。
ゴツい方の彼はショーンというらしい。歳は35才でアイリッシュビールの名の知れた会社の営業マン。俺は営業でタトゥー大丈夫なのかと思ったが、怒ったら怖そうなので聞くのは辞退した。
もう一人の最初に早口の英語で、話しかけたコイツはパブロっていうドイツ生まれの天パの奴、コイツはショーンと違って、全く日本語が喋れないようだ。せかせかした性格で、早口の英語でショーンに話しかけた事を、彼が丁寧にカタコトに変換して話してくれる。
かくいう俺も、普通だったら忙しいのでと逃げる所だが、面接の合否を待つ約2週間ぐらいの間、間違い無く暇。が確定してる上に、俺も見知らぬ都会で、仲間が居るなら木片であったとしても嬉しい。日本人が居たら、話しかける予定だったのだが、想定外の出逢いに驚き、そして感動した。
それから真剣に考えると、友達とはいえ流石に木片は無理だな。俺は考えて発言した方がいい。
二人の来日の目的を聞いてさらに俺は驚いた。二人の白人の来日目的はラーメンそのものだった。
ショーンは生まれ育ったダブリンの一等地に、会社が新しいショッピングモールを作るらしく、それに日本の大手のチェーン系ラーメン企業を取り込もうと提案営業する為、ビジネスを目的として来日。
かたやパブロは、フランクフルトにある実家の倉庫を改造して、そこに自分の店を持とうと思って修行先を探しているらしく、このゲストハウスで二人は出逢い意気投合したらしい。俺が知らない間にラーメンっていう食べ物は世界に進出していたんだ。この事を親父が聞いたら、どう思うだろうと
胸がドキドキした。
この二人の間柄、パワーバランス的には圧倒的にショーンが上、年が全然上だしね。パブロは彼の行動力に、無策で付いて行ってるという感じだ。剛腕のショーンは気前が良い。
いや良過ぎるんだよ、こっちが黙ってたら缶ビール一本でも奢ろうとしてくるぐらいだ。
「ケイヒデ、オトス、No problem.」
を事あるごとにもの言う。まるで、このタイトルの往年のヒット曲でもあるんじゃないかと思える程に。
ショーンは金銭的な面でも当然、パブロを世話しているようだ。そして俺も日が経つにつれ、それに恥ずかしくも甘んじる形に。ショーンの所属している会社は、この男に全幅の信頼を寄せているらしい。イカれてる会社だと思う。
俺が無双布武ラーメンで入社試験の面接を受けて、結果待ちの今の状況を話すと、ショーンはso cool!と両の親指を天に突き上げ、奥ゆかしい我ら日本人が決してとらない、例のあのダサいポーズをとった。
彼の来日目的は、ショッピングモールに無双布武ラーメンへ出店交渉するのが目的。商談事態がそもそも双方ウィンウィンの物だし、商談中も雰囲気良い感じでショーンの手応えでは間違いなさそうだ。デカい商談を決め、このアイルランド人は気分がこの上なく良い。金なら俺が持ってるから3人でこの辺りのラーメンの名店巡りをしようかと言いだす。
こんなうまい話人生で一回有るか無いかぐらいだろ、まさしく奇跡だ。当然俺はこの話に乗っかる。そして此処にアイルランド人とドイツ人と鹿児島人という、奇妙なラーメン冒険隊がその夜、結成された。
ゲストハウスで契りを交わした俺達は、無双布武の合否を待つ間、3人で何店もの関西方面で名の通ってるラーメン屋を探検、訪問、爆食いしまくった。
神戸の「もっこす太郎」尼崎の「ピッグスター」、大阪城近くの「かみまち」西長堀の「中華そばカドタ食堂」京都の「猪児」「極みの鶏」等あげたらキリが無い、何件も何件もまわった。昼はラーメンで夜は早い時間から居酒屋に行って、翌日の丑の刻まで飲んで最後はまたラーメンで締めると言う、健康的生活とは真逆の不健康道を、マッドマックスばりに爆走する日々を過ごした。
彼等との生活で気づいた事がある。彼奴らはマジで酒が強い。そりゃ俺だって、ヨーロッパ人が全員もれなく強いって訳じゃない事ぐらいわかるけども。
ショーンは外出の際、常にハリントンジャケットの内ポケットに、アイリッシュウィスキーをストレートでぶち込んだスキットルを忍ばせており、気分が良くなると路上でもそれを煽る。映画だと良くあるシーンだが、こんな奴、肉眼で見たのは初めてだったので、ただただひくぐらいの事しか俺には出来なかった。
続いてのパブロはビールしか飲まない。だが量がヤバい。一回飲み放題の居酒屋で自分の為にピッチャーで頼み出した時はマジで、
「なんだコイツ〜」
て思った。
一体なんなんだよ、こいつら。
二人とも、うわばみがひくぐらい呑みやがる。
俺は合わせて飲んでると、最後のラーメンが食えなくなる事があって、それはまずいなと思って上手く抑えて飲む様に努めた。ショーンとパブロと連む様になってから、9日経った午前10時に俺は無双布武ラーメンに内定の電話が来た事が、随分と騒がしく、最高に楽しかったトリオの終わりを告げる。
俺は二人に真っ先に合格の事を伝えたら、パブロは俺に抱きついてきた。俺達は10日間に国境を越え親密な間柄になっていた。腕にあるライオンのタ
トゥーが、イカつ過ぎるこのアイルランド人は、
「キョウ、ハ、ホウタロウ、ノ、マツリデス」
とおおらかに笑いながら言った。
俺は如何様に祭りあげられるのでしょうか?
3人で居酒屋行ったり、クラブ行って馬鹿な踊りをしたり、随分バカやったあの夜。このアイルランド人は、一体幾ら使ったんだろう?ケラケラと笑いながら、異国の地で武勲を立てられるかも定かでは無い若輩者2人に躊躇いも無く、多額の出資をしてくれた。
俺はあの3人で騒いだ、ゲストハウスの10日間を死ぬまで忘れないと思う。粛々とメールアドレスの交換だけ済ませて、この奇妙な多国籍トリオは、この日を以て解散することになった。翌日朝、俺はまたサイズの合わないスーツに袖を通し、ゲストハウスを後にした。最後に3人で飲む珈琲は感慨深く、俺は目頭が熱くなるものを感じたが、一応クールに装った。この頃の俺はまだ若い。
勿論今思ったらの話だけどね。
無双布武ラーメンの人事課を尋ねると、キビキビとした無表情の女性に言われるがまま、色々な契約書を書かされた。書類が多すぎて何の書類なのかも、よくわからない物も多くあったが、まあ書けばいいんだろうと思い、言われるがまま、なすがまま俺は記入した。
全て書き終えた後、色々な説明をされたが正直難しい言葉を乱用するもので、聞き返すのが面倒になった俺は、ほぼほぼを聞き流した。
但し、
「望月さんの勤務先は、広島の流川店になりますので、早急に移動しておいて下さいね」
と言う彼女の発言には流石の俺も、
「マジっすか?」
と聞き返したのだが。
新幹線で広島市まで移動、領収書を専用の書式に貼り付けて本社に送れば、給与に上乗せする形でその代金を振り込む。但しその領収書がない場合、天変地異が起きても絶対に支払いはされない。だから死んでもなくすな的な事を、あくまでも事務的にかつ無表情で淡々と話すこの女に些細な恐怖心を抱きながら、俺は事務所を出てまたローカル線で大都会を梅田大阪駅まで。
俺はそれ以降、今後の生活が急に怖くなったのか凄くケチになった。駅内の100均ショップにて小さな電車代の領収書を無くさない様に、管理する為のファイルを購入する。このファイルごと紛失するなんて事はねーよな。なんて考えながら新幹線で2時間書類整理したり、買っておいたジャンプを読んだりしている間に、新幹線は広島市に着いた。駅から川沿いを歩いて30分程歩いた所の、繁華街のド真ん中に無双布武ラーメン流川店はあった。
丁度ランチの時間が終わって、営業を休んでいる時間帯だった。話はしやすいかもなと思ってリラックスして、戸を開けて入ろうとする。停止状態の自動ドアをこじ開け入ると、中は薄暗く奥の厨房から人の話し声と作業音が聞こえる。どうやら人はいるようだ、俺の事は聞いてもいないのかと思うと、少し怒りの感情も混じってきた。
「すいませーん、新入社員の望月と申しまーす」
と大声で呼ぶと20代後半だろうか、女性が出てきたので要件を話す。
「てーんちょー」
と呼びながら、中に入っていった。すると代わりにショートカットのもっと若い女が出てきた。余りにも若いので、またこの人も学生のバイトかなんかと思った。
「そういえば虎聞さんから言われとったわ。ごめんなさいね」
その女は面倒臭そうに言い、はい。と鍵とアパートの住所が記載された小さな紙を渡された。いやそれだけ?と思って、大体どの辺りの場所なのか聞いてみると、
「ちょっとそこは自分で調べて下さいよ。それアタシの仕事と違いますわ」
と冷淡にあしらわれる。なんか嫌な女だなと思うが怒りを抑え、わかりましたと言う俺に、
「今日明日で身支度揃えて、明後日朝9時出社してくださいね。上長が対応致しまーす」
と突き慳貪に言い放ち、俺は追い出されるように扉をバタンと閉められる。
一体なんなんだこの嫌な女は。
そのマンションの場所へはコンビニで場所を、数件尋ねて俺はやっと辿り着いた。重たい荷物を持って結構歩いたんで正直疲労困憊だったが、生活水準の確保と確認は絶対しないといけない。先ずは其れを最優先する。いわゆるライフラインは確保されていたが、逆にそれ以外のものは一切無かった。色々諦めた俺はシャワーを浴びて楽な格好に着替え、床に寝転がってるうちにその日は眠りについていた。
翌日はそのせいもあって、まぁまぁ早起きだった。カラスの鳴き声が古弾する、早朝の繁華街を歩くとなんとも言えない孤独感を感じた。だがコインランドリーで洗濯物を突っ込んで回す間、コンビニでパンと珈琲を買って、公園でゆっくりしていると俺を照らす太陽が、不安だった背中を不思議と後押ししてくれるような不思議な錯覚を俺は確かに感じたんだ。
街中を回って、安価な敷きと掛けの二つの布団と枕を購入した。それ以外の必要な物はあとから購入しよう、なにぶん金が無かった。その日は広島と言えばお好み焼きだろと思い、「へんくつおじさん」という少し変わったユニークな名前の店に入って、一番オーソドックスらしい「そば肉玉入り」を注文。俺も地元で今まで広島風お好み焼きは食べた事ぐらいあった。しかし俺が今まで食べてきていた其れとは圧倒的な違いがあったんだ。
それは調理の過程で、麺を実際に茹でる工程が組み込まれていた事だった。加熱された鉄板の上で、生地や麺の焼ける音と、ソースが焦げる音と匂いに心躍らせながら飲むビールは格別だった。お好み焼きを食べやすいサイズにヘラでカットして口に運ぶ。やっぱり予想以上に美味い。香ばしいソースの匂いも良いのだが、特筆すべきはやはり麺の食感だ。表面のカリカリしたスナックの様な食感と、麺そのもののもっちり感が混合した様な食感。俺が今までずっと食べた広島風お好み焼きより、ずっと美味かった事に感動した。
翌日はボーッとして過ごしたが、昼からは出かけてビートルズの曲名を店の名前にした、雰囲気のいい感じの喫茶店で珈琲を飲んだりして過ごした。それから弁当とビールを買って部屋に戻り、それらを平らげると不思議と寂しい心持ちに、俺の脳内に両親の事が過る。ずっと実家を離れてからも母ちゃんはメールをくれていた。今日は店は忙しかったとか暇だったとか、お父さんはどうだったとか、最近足が良くないとか、ほんの些細な事でもメールをくれていた。そのおかげもあり、俺は実家の状況を遠くにいながらも認識する事が出来ていた。真摯にメールを送り続けてくれた母ちゃんの心には本当に感謝したい。
でも久しぶりに電話すると忙しそうに、生きてるんだったらそれで良いって一方的に電話を切られる。俺は多分電話するタイミングを間違えたんだろうと思う。なんかその間のずれた感じが少し俺と母ちゃんっぽいなと思って、正直心がほっこりした。
テレビも何も無い静かな部屋の中で、買ったばかりの安物の布団に入ると、近いからなのか俺の部屋が静か過ぎなのか、下の路上から呑み騒ぐ若者の怒号のような叫び声が聴こえた。この薄っぺらい静寂を掻き消すような離れた若者の喧騒が聞こえる中、俺は見知らぬ土地でやっていけるのか。とか一昨日鍵を預かった性格のキツそうな小さい女とは上手くやれるのだろうか。とか考えるうちに気づいたら俺は眠りについていた。
携帯のアラームは7時にセットしたはずなのに、目覚めたのは早朝5時半頃とスーパーに早起きだった。こういう時無理に横になったところで、再び眠りにはつけないことを、俺は昔から良く知っている。小学生の頃からよくある現象だから気にも止めず、朝飯を求めて性懲りもなく早朝の繁華街をまたぶらつく。
繁華街の朝はまだ目覚めて居らず、酔い潰れた若者と、それに狙いをつけたおそらく東南アジア系と思われる女性が口論に近い商談をしていた。
「五月蝿えな」
と思いながら歩いていくと牛丼屋が見えた。ここでいいじゃないか。この頃から早朝には味噌汁付けてくれたりサービスが良くなってる事を、一人暮らし始めた頃から俺は知っていた。味噌汁付き牛飯を食う。安心かつ安定の美味さで俺は腹拵えて一時アパートへ戻る。だが時計を見るとまだ9時まであと2時間もありやがる。満腹感から眠気が再燃し軽く睡眠とろうかとも思ったが、それは非常に危険な香りがするので早めにアパートは出る。9時前までコンビニのイートインで、心から溢れ出す不安を宥めながら過ごした。
緊張を抑えながら、無双布武での初めての出勤。通電されてないらしく、また重たい自動ドアを手動でこじあげて入ると、あの嫌な女が客席に座ってスマートフォンを眺めてた。
「どうもはじめまして新入社員の望月です、よろしくお願いします」
と俺は元気良く挨拶したつもりだったが、彼女はなんとも言えない熱量の少なさで、
「ちゃんと聞こえてます。担当居てますんで呼びますわ」
と無表情に応えると、奥にスタスタと消えていく。
イントネーションで、この女が関西圏の人間というのは分かった。相変わらずの冷淡な態度に、やっぱこいつは苦手だと感じる。その女は紺のシングルスーツをサッカーの若き日のジョゼ・モウリーニョ監督を思わせるような着こなしをした清麗な顔立ちの男性を連れてきた。まるでスーツのCMに出るような綺麗な着こなしに、俺は稔君のサイズが合ってないお下がりスーツが恥ずかしくなった。
でも稔君だったら、そんな事気にするだろうか?きっと彼なら人間の本質は見た目じゃないって言ってくれるような気がする。俺の脳内に稔君が背中を押してくれる様なイメージが瞬間的に沸き起こった。
俺はもう一度全力で挨拶する。それをこの女は興味なさげに軽く鼻で笑うような素振りをした様に見えた。
「うんいいですね。元気のある挨拶、ありがとうございます。このエリアのスーパーバイザーを務めさせてもらってます。コモンと申します」
とスーツの男は名刺を渡してきた。虎聞拓人と書かれ、役職名はスーパーバイザーと記載されていた。
「で、この子が、この店舗の店長を任されている鳴丘玉美さん。鳴ちゃん宜しくって」
っていうスーツ男の紹介にこの女は、
「店長の鳴丘です。宜しくお願いしまーす」
と感情の全く感じられない挨拶を、外方を向きながらした。
「まぁこんな感じだけど、一応これでもこの辺り。あ、そうだ望月さんは九州の出だから知らないかもね、この辺り山口~広島~岡山県の辺りのいわゆる瀬戸内海側の地区を山陽地区エリアって一般的に呼んでます。そこを当社ではこの山陽エリアを西と東に2分割してエリア管理してるんですよね。
そしてこの店は東区に該当しますので、そこを管理しているのが僕、虎聞ですね。後で企業としての組織表もお出ししておきます。実は鳴丘店長は山陽地区としても、全国的に見ても、実績トップクラスの凄い店長さんなんです。こんな若いけど凄い人だから、彼女の元で色々と勉強して下さいね」
と信じられないような事を言って、虎聞とかいうスカしたイケメンの上司は淡々とした内容を俺に伝えた。
それとは対照的に鳴丘玉美は外方を向きながら、
「恐悦至極にございまーす」
とボソッと発した。俺がバイトと見間違ったこのチビな女は店長でかつ、やり手らしい。嘘だろと正直思ったが、俺はもう一度宜しくお願いしますと改めて頭を下げた。
そこで鳴丘玉美とかいう女は、他の仕事があるという事で席を後にした。その後も虎聞さんとの打合わせは続く。その話の中でこの会社の立ち振る舞いとして、俺は二つの道を問われた。一つはこの会社で彼の様に会社員として出世していく事を目指して働くか、
もしくは経営のノウハウを学び、最終的に自立して独立するのが目的なのかを問われる。俺は後者の目的は許されないだろうという小さな思い違いをしていた。だから面接でも言わなかったのに、俺は正直に実家の事や将来的に地元に帰って、親父の店を継ぎたいという本当の希望を語った。
「鳴ちゃんこの子も鳴ちゃんと一緒。独立希望だってー」
虎聞さんの素っ頓狂な語りかけを聞いた時、鳴丘玉美は初めて俺の目を見た。
「あ、そなんですねー」
と真顔でかつ、単調に放たれる言葉の裏側に、どういう意図や感情で喋っているのだろうと思い、俺は奇妙で不気味な心持ちにさせられた。
「えっと、望月君はLINEってやってる?今当社はね、店舗でグループラインを作って貰って、その中でコミュニティを持って貰おうとしてるのよね」
と尋ねてくる虎聞さんに対し、
「あ、僕未だガラケーなんですよね」
と答えるしかない俺。
言い訳じゃないけど、そういった所の生活費は正直ギッチギチに切り詰めていたんだよ。
「あ、そなんだ。それは一寸困りますねー。それだと仕事に支障があります。早急にスマートフォンに変えて貰わないと一寸困りますねー」
虎聞さんのその冷たい言葉を少し離れた場所で聞いて、鳴丘玉美がふっと鼻で笑う素振りを見せ、俺は顔真っ赤になりそうな気持ちで一杯になる。
「じゃあ俺。他の店舗廻りあるんであと宜しく、望月君しっかり頑張ってね。鳴ちゃん、ちゃんと見たげてね」
俺の肩をポンポンと叩いて去っていくスカしたイケメン上司に、この女と二人きりだけは勘弁してくれと、俺は頼み込みたい気持ちで一杯だった。
虎聞さんが居なくなったあと、鳴丘玉美はお前なんかにどう思われたところで知った事かよと言った感じで、
「ほんだら、仕事にかかんで。そこに自分の制服置いとるから着替えたら声かけや」
と退屈そうに静かなトーンで言うと、厨房にスタスタと消えていく。嫌で重い気持ちを抱えて更衣室でユニフォームに着替えてみると、それはオーダーメイドかよってぐらいサイズはぴったりだった。
俺の最初の仕事は、店外の窓拭きと店舗に面する道路のゴミ取りだった。鳴丘玉美とかいう嫌な女は、辞書の様に分厚いマニュアルブックを机にドンと置き、
「ほんだら。これに書いてある通りに掃除して貰います。自分の考えで勝手な事はしないでください、ここに書いてある通りやるだけなんで超簡単です。アタシ仕込みあるけ厨房で作業してます。記載してある通りの作業が終わったら報告してください。ほんだら宜しく」
と言うとスタスタ厨房に帰っていった。
そのマニュアルは掃除なんてもんは、適当に履いたり拭いたりすればいいだけのもんだろって思っているあの日の俺みたいな奴を、会社が求める人物像への型に嵌める為のもので、窓拭き一つにしても拭き方の一つ一つの取るべき所作の全てを細かく作り込まれている、クソ細い業務マニュアルだった。今までの俺だったら、間違いなく適当に済ませていただろう。でもそのやり方だとあの女は、絶対文句つけてくるに決まってやがる。其れに対し俺の中で対抗心が芽生え、今までちゃんとやったこともない掃除をマニュアル一文一文を頭に入れ、記載されている様に実行した。
「めっちゃ良いじゃないですか。凄く綺麗になってますねー。ありがとーございまーす」
とその時、この女は比較的薄っぺらい言葉を並べて少しだけ笑った。だがこういう風に笑う事もあるんだと感じる事で、俺の中で此奴に対して切り詰めた対抗心が、少しだけ薄れる感覚を感じたが、
「でもちょっと時間かけすぎですわ。今日の半分の時間で出来る様にならなあかんすねー」
とまた彼女が急に厳しい一面を見せる事で、俺達は何故か少しだけ良い距離感になった様に感じられた。錯覚かも知れないけど。
「店長ご出身関西なんすか?」
「うん大阪やね。2年前此処に来るまでは、ずっと関西。そしたら開店まで少し時間あるから、葱の仕込みでもやって貰おうかな。この箱に入ってる葱を切ってこのタッパーに詰めたってな」
とドサッと白葱が一杯入った段ボールとタッパーを置くと、またすうっとに居なくなる。
俺はこの時、この食材の切り方が正直わからなかった。言い訳って訳じゃないけど、実家の「みさきラーメン」では青ネギと呼ばれるよく味噌汁とか蕎麦に入れたりする細いネギを大体3ミリぐらいの長さでカットしてタッパーに入れ冷蔵保管する。それをお客様に提供する前に、丼の中央部に山盛り状に盛り付けるスタイルだった。因みに青ネギを乗せるという調理工程は親父が絶対するという暗黙のルールでね。
そういう事もあって、この時点で俺はこの太い白ネギは切った事がなかった。どうしようと思った俺は稔君と行った時の無双布武ラーメンの器の葱がどういう形で丼に配置されていたかを必至に思い出すが、ヤバいぐらい思い出せない。正直言うと先日パブロ達といった店の中に、白髪葱をアホみたいにてんこ盛りにしてた店があって、そこの記憶が異常に強くそれしか思い出す事が出来ない。これには参った。
とりあえず無双布武ラーメンはその白髪葱じゃ無かった事だけは間違い無い。じゃあ普通に切ればいいだろ。とりあえず実家同様3ミリの長さに切っていく。やってみると思いのほか難しい、だがこういう葱乗せている店あるよねと思って少し気が楽になる。切るネギが3本目に突入する時、鳴丘玉美はなんかの書類を見ながらブツブツ言いながら、俺の作業する厨房に戻ってきた。俺が居る事を完全に忘れてたみたいで、軽くビクッとなる素振りを見せる彼女に、俺も反応してビクッとなってしまう。だがお互いの其れに気づいた俺達は何もなかった様に装った。バツが悪く、俺はその後も作業に集中するフリをして目を逸らしていた。
油断していた俺の臀部に強烈な痛覚を感じる。
「おいなんやねんこの切り方。何これ?ブツ切りになっとるやん」
急に蹴られた尻を抑えながら、戸惑っている俺に、
「切り方がわからへんのやったら、聞かなあかんやろ。お前がラーメン屋の息子や言うから、知っとんのかなってこっち思うやんけ?やり方がわからへん時は人に聞かんとあかんのとちゃうんけ?」
と言葉を捲し立てながら、顔を近づけてくる。その迫力に思わず、つい俺は謝罪してしまう。
「簡単に謝罪すんな。貶めよう思ってやっとんちゃうねん。せやのうてわからん時はまず聞いて欲しい。聞かなあかんと思うし。ほら、下の冷蔵庫にもう切ってあるヤツがあんねん。これ見ながら目指して切ればええだけの話。な、聞けばわかる簡単な話や」
と葱がぎっしりと入ってるタッパーを出した。その中には斜めに薄切りされてある葱がギッシリと入っていた。
「もうこの葱は使われへんから持って帰り、ウチではもう使われへんから。食材を無駄にするのは許さへんど。タダじゃないんで。なんや、葱の切り方から知らへんのかいな。知らへんのやったら聞いてくれな困るわ…」
と言って、俺がブツ切りにした葱を袋に入れてくれる。越して来たばかりで、正直俺は鍋一つも持っていないんだけど。
白ネギを斜め切りしていると、稔君と食いに行った時の無双布武ラーメンの映像が今頃になって思い出される、今思い出してもなぁ。そのうえ落ち着いて周りを見ると、無双布武ラーメンのポスターには斜め切りされた白ネギをフワッとのせたラーメンの画像が写っていた。これ見て切れば良かったじゃねえか。俺の馬鹿。
それからその斜切りされてある白ネギを見様見真似で切っていく。長さや切る角度に集中するので時間を要した、取り敢えず切ったネギを鳴丘とかいったっけ?あの女に見てもらう。
「ん。まぁえーけど…。とりあえず今からクオリティを5倍、スピードを10倍あげ。じゃなけりゃ仕事にならんわ」
は?ふざけんな。慣れてないとはいえ、俺なりに一生懸命やったつもりだ。仕事にならんって言うのは言い過ぎだろ、俺は異議を申し立てる。
「だったらその『仕事になるレベル』っていう仕事を見せたる。その葱貸してみ」
そういうと女は藍色の皮製の包みから、中華包丁を出した。柄の箇所が赤黒い木材で作られており、柄の部分と刃の部分の合間にターコイズが飾られていてすごく綺麗なまるで中世ヨーロッパ調のような中華包丁だった。それで俺が渡した白ネギをまな板の上に乗せ、リズミカルに手早くあっという間に白ネギを捌く。確かに俺のやるスピードの十分の一程の速さだった。5本のネギは斜め切りの状態に、しかも俺のより切り口が美しく鮮度が失われてないように俺の目には映った。
「それだけとちゃうぞ、ほらこれ見てご覧」
俺の切ったネギを彼女がもって見せると、それは完全に切断されてなく、くっついている状態だった。仕事の精度の低さを指摘され、焦燥感に俺は駆られてしまう。
「まぁ最初は誰でもこんな感じや。やっていくウチについていく技術やし。やかまし言う事でもないけども。ただしアンタは店長候補で社員やからな。せやったら向上心を持って取り組まなアカンと思うよ」
「ウィス。そうですね…なんかその包丁カッコいいっすね」
「お。よう気がついたね、これなアタシのオリジナルやねん」
「オリジナル?」
「前に知り合いから高級な欅材を貰ってな。これを京都の木造作家に拭き漆仕上げにして貰って、これを柄にして金物屋さんにお願いして、中華包丁を仕立てて貰ったんや。其れにアタシのハッピーストーンのターコイズをあしらってね。これ可愛くてカッコよくてめっちゃお気に入りやねん」
この時、初めてこの女が笑った所を見た。
当たりがキツく、冷くて嫌なイメージしかなかったのに、俺はそのギャップに少しドキッとした。
「マジでカッコいいすもんね。それ、なんか…厨二病って感じで」
「お前ぶっ殺すぞwww,」
「冗談です、冗談。店長、その包丁すっごく可愛くて素敵」
「やかましわ。とりあえず葱切りその箱全部やり、終わったら休憩!」
「えー全部?」
「ごちゃごちゃ言わんとやれや」
ネギ切りを終えて休憩室に入ると、お茶と菓子が用意されていた。確かにあの女厳しい言い方するところもあるが、色々気がつくしネギの切り方も凄かったし、本当はいいヤツなのかも知れないな。
休憩が終わると、俺が最初にこの店のドアを開けて入った時、出て来てくれた女性が来ていた。赤石アキさんという大学院に通ってる方で、この店では一番長いスタッフさんになるらしい。明るい方で鳴丘店長とは仲良いらしく、友達の様に話している。
「アキさん此奴新人店長だから。今日からホールでちょっと鍛えんとアカンわ。キッチン任せていい?」
そのアキさんという女性は「えーよ」と頷いて、
「殺されないよう気をつけて下さいね。この人関西では『鬼のナルタマ』言うて周りの人から、恐れられとったらしいんで」
と俺に笑って話しかける。その彼女に、
「殺さん殺さん。アキさんやめて。アタシこれでも丸くなったなんじゃ」
と鳴丘玉美は笑って返す。
「でもまぁ〜大事な事は厳しく教えるけど、悪意はないからな。年もあんま変わらんようやし、確か22やったっけ?」
「です。今年で23」
「そっか年下やな。ところで接客業ってやった事あるん?」
「あ、ここに来る前もずっとレコード屋で品出しとか、レジ打ちとか普通にやってましたよ」
「何?自分音楽とか好きなん?」
「働いてた頃は、結構レコード買ってたんですけど、地元離れる時全部売っちゃいましたねー」
「何?アンタ博打みたいな生き方しとる人なん?」
「博打っていうか…うん〜。普通に金が無かっただけだと思います」
「わかったわ…飲食の接客は初めてや。言う事でええな?」
優しい言葉はそれで最後だった。
それからコイツの接客のスパルタ教育が幕を開ける。何度怒鳴られただろうか?何度尻を蹴られただろうか?もっと全身全霊でやれ、魂が篭ってないと詰め寄られただろうか?
「挨拶は人間の基礎、それが欠けてるっちゅう事は人間の基礎がなっとらんと言う事や」
と俺は帰ったアパートでも挨拶の練習をさせられ、それの合格を貰ったのは初勤務から3日後の事だった。
俺はあのコッテリとしたスープの味の作り方が、盗められたらと思ってこの会社に入ったのに、接客のスパルタ指導の終わりが全く見えてこない。そのうえ営業時は基本、接客メインで営業終了後はレジ清算とか、家で母ちゃんがやってたような細かい、金関係のめんどくせえ仕事の指導が続いた。思ってたのと違う状況にひどく俺は困惑した。
仕込みの時間は葱切りと、メンマの仕込みだった。メンマの仕込みは、袋に入った大量のメンマを水洗いして完全に塩を落とす。それが終わると、湯掻いてからの水洗いの工程を3回施す。完全に塩抜き出来たそのメンマを、本社にあるセントラルキッチンから送られてくる漬けダレと混ぜたそれを、タッパーに入れ冷蔵庫に一日漬込む。少量だと苦にもならないんだろうが、寸胴鍋で一杯の水でやるとすると、これまたなかなかの重労働だ。
初めてやった時、勢いで湯気が直に眼球に入り、その余りの熱さに「グワ」という奇声をあげてしまった時、
「熱いんやったら、熱ならんよう工夫すればええやん。湯気が上がるところに、眼球が在るから熱い。ほな目を背ければ、ええだけの話やろ?」
と半分笑いながら、俺に言う。それは一寸おかしいと、こうなるのが分かってるんだったら最初にやる前に教えて欲しい。こうなるのは分かってたんじゃないかと言うと、
「人間は痛いとか、熱いとか、ネガティブな過程を経た時に、初めて学習して成長すんねん」
とにこり。俺はムカつきを通り越して逆に一緒に笑ってた。
この女の凄い所は、変わり身が凄く相手次第でキャラクターが180度変化する。俺の前では完全に鬼軍曹なのに、客の前ではまるでアイドル。実際にファンもついてるらしく、玉ちゃん玉ちゃんだの呼ばれて本人も満更でも無さそうだと思ってたら、
「でもあの人の凄さはそこだけじゃないんじゃ」
何も考えないで見てると、適当に愛想振り向いてるようにしか見えないかも知れないが、ああ見えて実はしたたかでかつ、情に満ちた信念のある人間であると言う事をアキさんは語る。
彼女の話では店長が広島に来たばかりの頃、ご老人で常連のお客さんがいたらしい。鳴丘玉美が来る前の店長がお気に入りだったらしく、お前じゃ駄目だとか、お前のような小娘はよう好かんとか、来る度に酷い言われ方をされていた。アキさんは腹を立ててないかと聞いたら、
「そんなもんやて」
と気にも留めないしない様子。その上、
「そこから認めさせるのが、オモロいんやん」
と彼女は楽しそうに笑ったらしい。
その後もそのご老人は、鳴丘玉美を罵倒しながらも来店をし続けた。でもご年齢のせいか入退院を繰り返していたらしく、来店の頻度が次第に少なくなっていく。そこで前任の店長に連絡を取り、ご老人の入院してらっしゃる病院を聞き出し、調べるとご老人は緩和ケア病棟で療養中だったらしい。
鳴丘玉美は何を思ったのか、だったらいけるなと思ったらしく、ご家族と病院側に頼み込んで食材と調理器具を持ち込んで、そのご老人に無双布武ラーメンを無料提供したらしい。その2ヶ月後老人は御他界されたらしいが、最後に店長に手紙を書いた。
それにはインデックスにボールペンで、酷くヨタヨタの字で、
「ありがとう いろいろとわるい」
とだけ書かれていたそうだ。それを見て鳴丘玉美は、
「この仕事を選んでホンマによかった。アタシの天職や」
と目頭を熱くして語ったらしい。この話をアキさんは、
「優しくて熱い人なんじゃ。怒りっぽい所があるのも確かじゃけどねぇ」
と困ったように笑いながら語った。
初勤務から7日経った2回目の休日、俺は携帯電話をスマートフォンに変える為、販売店に足を向けた。スマートファンを最新型では無く比較的古めの機種に変更する事で、ほぼ出費無く変更出来た。
それから店長が、広島のラーメンで一番好きと言う「明朗」という江波という港町にある店に向かい電車に揺られていった。その結果、俺は初めて見る世界遺産原爆ドームを電車越しで見る羽目になってしまう。
江波についてから、まだ慣れない操作のスマートフォン頼りに行ったラーメン店は、建物から凄みを感じる程の老舗店だった。暖簾を潜るとおばちゃんの元気な挨拶が聞こえ、旨そうな香りがこの店で提供される食物全てのレベルの高さを物語っていた。
何故か俺は無性に実家を思い出し、心臓の鼓動が幾分か早くなった。
帰りの電車で虎聞さんからダウンロードする様言われてたLINEを落とすと、自動的に母ちゃんの名前が出てくる。俺が遅れていただけで、俺の実家にもデジタル化の波は押し寄せていた。俺は慣れない操作で、
「スマホデビューしました」
って送ると、数分もしないうち、
「遅過ぎ!」
って返ってくる。それから10分ぐらいしてから、みさきラーメンの店内の写真と、麺を湯がく親父の姿の写真が送られてきて、
「お父さんとお母さんは少しだけ歳をとりました。包太郎が今どの辺りに住んでるのかも、私達は知りません。でも何処で働くにしても、周りの人に迷惑かけない様に、一生懸命やりなさい。でも無理はしちゃ駄目だからね。辛くなったら帰ってきても良いからね」
という文章を見た時、俺は電車の中で声も出さずまた泣いちゃったよ。
帰り道に行きがてら、電車越しにフライング気味に見てしまった原爆ドーム。原子力爆弾にて大破した荘厳なる建造物は、人類の争いの愚かさを雄弁に物語っていた。毀損されたその施設は歪な形をそのままに残されており、心を撃つものが確かにあった。しかしそれよりもドームに群がるかの様に取り囲む、大勢の欧米系観光者の異様な光景に、俺は凄く奇妙な感覚を覚えた。アパート近くの焼鳥屋でビールを飲んでいると、スマホの電池はほんの僅かになっている事に気付いたので、あまり長居はせず帰路に着いた。
翌日出勤すると俺の仕込みの仕事は、葱切りとメンマではなく、待ちに待っていたスープ造りだった。
「無双布武ラーメンのスープは、全てセントラルキッチンで作ってんねん。そして輸送しやすい様に水分飛ばして、ペースト状にしたこの固形物がスープの素。ウチらは送られてきたこれに、マニュアル通りの水分を加水していく。ペーストは絶対焦がしたらアカンから、此処に書いてあるようにせなアカンから気をつけてな」
とラミネートされた2枚のプリントを渡して店長は続けた。
「手順一つでも間違えたら、もうそれは無双布武ラーメンでは無いものになるから、十分に気を付けんなアカン。調理場の室内温まで完全に固定するよう定めてあんねん。相当作り込んだマニュアル、これでどこの店でも同一のテイストが提供ができる様になる。これは一種の発明やと思うわ」
愕然とした。そもそも俺が無双布武ラーメンに身をおきたいと思った理由が、旨味が強い謎のドロドロスープの作り方を学ぶ事が最大目的だったからだ。スープの仕込みを学べないんだったら、何の為に地元を離れて来たのか修行の意味すら見失ってしまう。
「スープって、店じゃ1からは仕込まないんですね」
「ん、どゆこと?」
「豚骨とか鶏ガラ炊いたりとか、そういう作業ってないんだなぁって思って。ウチの家は朝早くから豚骨炊いてます。そういう所も勉強出来たらなぁって気持ちもあったんすけど。俺ここのラーメンのスープに衝撃を受けて入社したんで」
「うん…スープの仕込みなぁ。そういう事は確かにウチでは、勉強は出来ひんかもなぁ…」
鳴丘店長は少し考えて、
「うーん。ほなアンタがアパートで休みの日に作ってみればええんちゃう?」
と俺を振り返り、裏手で指差して言う。
「家で?休みの日に?」
「そうや。ベースは鶏ガラ。買うてきて炊いてみりゃええやん。スープ作りならアタシもけっこうやってたから必要なら圧力鍋とか寸胴鍋とか、貸したるで?」
「すんません。俺のマンションまだコンロも無いんすよね」
「えええ?ご飯とかどうしてんの?」
「コンビニとか、外食とかで適当に済ませてますけど?」
「絶対アカン!適当ってどう言う事や?野菜とかもちゃんと取らなあかんし。」
と鳴丘玉美は首を大きく振って否定した。ラーメン屋の店長なのに。
「店長。休みの日はスープ作りみたいな事ばっかしてんすか?」
「馬鹿にしとんかお前。自惚れちゃうけど、ある程度の所まで到達した思うから、最近はあんまりやってへんの。まぁでも最初入ったばかりの時は、確かによう鶏ガラに豚骨、牛肋肉とかも炊きよったで?」
と懐かしそうに過去を振り返る彼女。本当に自分のアパートでスープ作りを模索していたと言うのはどうやら嘘じゃないみたいだ。
「やっぱ無双布武のラーメンが、店長の憧れの味だったりするんすか?」
「ホンマはな、憧れの味は正直他にあんねん。大阪の実家の近くの醤油ラーメンやねんけど」
「へえそこも食べてみたいなぁ。あ、そいえばこないだ教えてもらった江波ってとこの…なんだったっけ?」
「明朗ちゃう?彼処もホンマにええラーメン屋やね。こないだの休み行ったん?」
「はい。それで行ったんすけど、彼処良いっすよねぇ。港の近くって所もなんかグッと来るって言うかポイント高いっていうか」
「せやねんせやねん。ノスタルジックっていうか、ホッとするっていうか、ああいうホンマに優しい雰囲気?やっぱああいう店がええねんな」
「やっぱああいうほっとする感じの店が、好きなんですか?」
「ほんまはな。でも無双布武が駄目ってわけでも無いで」
「一応俺ら社員ですしね」
「うん〜。まだ、君は社員の域とは言い難いな。早よスープ作り、時間なくなってまうよ」
「ウィス」
「ちゃんと読んでマニュアル通りに作成すんねやで?愚直なまでに徹底してな」
「ウィス」
「ほんで鍋どうするん。借りるん?」
「ウィス。借ります」
「そん前にコンロ買わんとどうしようもないね君、www .」
「ウィス」
「ウィスしか言うてへんやん大丈夫?」
「ウィス。今集中してるんです」
「あそうなんwww.ごめんごめん出来たら教えてや」
広島に越してきてから1ヶ月半が経つ頃、俺はホールの仕事を店長に見張られず、出来る様になってた。この頃から店長は俺に恐らく経営のやり方を教えてくれようとしていたんだと思う。
「ボーっと突っ立っとらんと、一日中考えながら仕事せなアカン。なんで今日は暇だったかとか、今日はなんで忙しかったかとか。幾つかの仮説をたててそれが立証された時、それは仮説では無く定説になるやろ。そういったデータベースの積み重ねがなによりも大事。それを基に売上の予測を立てていくねん」
「そしてその予測を基にシフトを組むですね」
「そう。ちょっとは理解出来てきたやん。じゃあ今日22時ぐらいから急に忙しくなったのはなんでやと思う?」
「今日のお客さんはカープの帽子被ってる方が多かったんで、試合観戦の帰りじゃ無いですかね」
「そういう事や!わかってきたやん」
「ってアキさんが言ってました」
「あwww,そうなん。まあえーわ。色々お客さん観てどういった流れでご来店されたかは、見といた方がええから、習慣つけとかなって事だけは覚えといてね」
広島には広島東洋カープっていう強い野球チームがあるので、そこの勝敗次第でも繁華街の盛り上がりは大きく影響を受けるんだ。あと俺が働いていた頃は原爆ドームの流れとか、欧米人の観光客も顧客の大きな要因だったね。まあ兎にも角にも店長から営業時は全身全霊で接客して、お客さんに顔を覚えてもらうよう厳しく育てられたって感じかな。店長から言われていたスープ作りも10回ぐらいはやったっけ。でもユーチューブで人が作ってる動画を見ながら作ってたら、通信料が上がりすぎて携帯代がめちゃくちゃ高くなった上に、ガス代までマジでどえらい事なったからそれを言い訳にやめちゃった。結局俺は親父の味を引き継ぐ形になるんだろうし。
休みマジ大事だし。
広島で肌寒いを超え、ロングコートを着た人達がチラホラ通りを歩き、俺も買ったばかりの厚手のパーカーのフードを被りながら、通勤する様な季節に入る頃、俺は仕事として店舗の精算•売上金の入金•日報報告等、所謂店長としての内務をなんとか出来るようになっていた。百貨店はクリスマスに彩られ、忘年会帰りと思われるサラリーマンが膨大に増え、店も常にドタバタしっぱなし。俺達は会話もすらままならないまま、なんとか日々の営業もなんとか乗り越えるので精一杯だった。
若い男性のバイトも大勢居たが、色々口実をつけ深夜前に上がり、本当に忙しい午前1時時以降は常にアキさんと店長と俺の三人で店を回す事が多かった。俺はホールを駆け回り、アキさんは厨房で叫びながら働いていた。そして店長たる鳴丘玉美はオーケストラの指揮者が如く、俺達に指示を出しながら双方のバランスを保てる様に常に気を張っていた。年末が近づくにつれ、店はどんどんと忙しくなり、俺達はあまり雑談をする余裕がなくなっていった。会話と言ったら閉店後に店の締めをしながら、こんな感じでドタバタと話すぐらい。
「店長も実家がラーメン屋だったりするんですか?」
「いやウチは違うで、ウチの親はアレや、なんちゅうか資産家っちゅうか?そっち系?みたいな感じかなぁ?」
まごついた様な彼女の受け答えに、
「資産家って凄いっすね。もしかしてお嬢様とかだったりして?」
と俺は何も考えず聞いてしまう。すると小さくなった声で、
「そんな大層なもんやあらへんよ。ウチもこんな感じで、学生時代は比較的ヤンキー気味やったし、もう家出てもう結構経つし、あっちはアタシの事なんかもう覚えても居らへんのやないかな」
言い辛そうに俯く、様子の彼女の心が小さくなっていくような気がしたので、もうそれ以上の詮索はしないようにした。
その辺りから、俺に「パオ」ってあだ名がつく。許可なく勝手につけられ、俺はそんなふざけた名前で呼ばれる様になる。つけたのはアキさん。
包太郎をパオタローってアキさんが面白がってつけた名前で店長が
「なんで『包む』の字だけ中華風やねん」
ってツッコんで、まぁまぁの笑いにはなってたらしいよ?丁度その時、俺は仕事で一杯一杯だったから、聞き流していたけど、本気で五月蝿いし勝手にしろって思ってたっけ。それも最近じゃあ、それ程嫌じゃなくなっているって言うから、人の心はうつろいやすいっていうか、マジSGMJって感じで、もう俺にはわかんないや。
は?SGMJって何って?
諸行無常の略称だよ。学校で習ったっしょ?
アキさんに後から聞いた。店長の実家は関西では名の知れた会社らしく、其処の令嬢さんだったらしいんだが、家の近くあるラーメン屋の大将に、惚れ込んでこの世界に入ったらしい。因みにずっと、家族とはあまり良い関係じゃないらしく、この話をふったら、かなりの確率で落ち込むから禁句だそうだ。
もう遅えよ。
年が明け、成人式の日に若い奴が集団スーツで闊歩する頃には、俺は初勤務から6ヶ月が経っていた。
いつも通り出勤すると、虎聞さんが店に来ていた。俺はあまりに久しぶり過ぎて、彼の名前がスッと出て来ずちょっと焦った。虎聞さんの要件は俺の異動通知だった。その先は「難波千日前店」という店らしく、彼が言うには関西エリアで一番売り上げが高く、若手の叩き上げにもってつけの店らしい。彼曰く、
「望月君みたいな新人の登竜門みたいな店だよ」
とニコニコしていた事に、俺の不安は結構肥大化した。
難波って確か大阪だったよなと思い、この件を店長に伝えるとビックリした様子で、
「ホンマに難波千日前?澤ヤンとこやん」
と素っ頓狂に答えた。
どんな所か聞くと、関西エリアで若手の登竜門とか新人の叩き上げとかそんな感じの所で兎に角、忙しい店らしい。
翌日店長は休みだった。俺はこの頃、開店準備を任せて貰うようになっていたので、一人で済ませ大概の所まで済ませ開店まであと20分余裕があったので、お茶でもしようといった時、店長からLINEがあった。
内容は、
「難波千日前店。
新宿店、博多中洲店と無双布武の3大地獄店舗と称される激烈ハード店。繁華街に面している為、客層は余り流川と変わらない。その量が膨大な上、仕事量も当然エグいぐらい多い。
関西圏では若手の登竜門といった所。私も前に勤務していた事あるけど、まぁ控えめに言っても地獄。何回かマジで辞めたいって思ったもん。この店でやれたら、何処でも行けるでしょって会社の目利きなんやろけど。多分辛いと思うわ。パオはここが正念場だと思って、頑張らんとアカンと思うよ」
それを見て、正直相当ナーバスになった。
異動日は2週間後で、当然引越も考えないといけない。それよりも折角慣れてきたばかりの街、そして鳴丘玉美やアキさんとの別れが近づいている事が、俺を哀しい気持ちにさせた。
「パオごめん!アタシの思ってたよりもずっと異動早かったわ。ホールしっかり教えてから、キッチンやらすつもりやったのに、やらす前に異動がきてもうてんって状況やねんけど」
そう、俺は厨房の仕事は仕込みしかしてなく、営業時は常にホールの仕事つまりは接客業。お客様のオーダー伺い•配膳•食事を終えた方の皿の撤去作業•テーブルチェック等表の仕事と、精算•銀行振込•開店準備•日報報告しかしてなかった。この状態で難波千日前店に行くのは些か不安であるが、あっちで覚えるから気にしない様答える。
「やらす前に異動がきた」
って言い回しが、なんか妙に可愛かったし。
もう今から慌てて覚えても店でやり方微妙に違ったりするから、ホールと店長職を完璧にさせようという事で、最近優しくなりかけていた店長の鬼軍曹化が再燃した。それは接客だけに留まらず、日報文章の句読点の使い方までに及んだ。
「他はええとして、これ以上にキッチンで一番しんどい仕事ないから、一つの指標としてこれだけやっとこうか」
すっごく明るく言うので、なんというか奇妙な恐怖心を抑えながら、俺は指示に従わざるを得ない。
グリーストラップ、通称グリストの清掃という作業だ。グリーストラップは飲食業に於ける厨房で設置されている、いわゆる一般家庭のキッチンに於ける、シンクの役割を果たすものだ。三層になっており、まず一層目のバスケットに食物のカスとか厨房のゴミとかを、排水溝に流さないように捕らえるいわば網の役目の部分、二層目は油分を蓄積する為の層。そして三層目はそれらの汚れが排水溝に流れる事がない様、阻止する為の装置。
清掃作業として、まず3つの層を隔てる敷居を外す。次に専用のスポンジを投入して油分を吸わせる。それが終わったら、網でスポンジを掬ってバスケットに入れる。次はバスケットを上げて水気が切れる場所に引き上げる。バスケットの下に隠れてるスポンジを掬って水気が切れる場所に引き揚げたバスケットに投入する。
そこまで終わったらバスケット内に入っていたゴミを、バスケットに設置してある網ごとしっかり水気を切って捨てる。終わったら新しい網を張り替えて元の位置に戻す。そこまで終わったら、仕切り板をして蓋をする。此処までやって一連の作業は終了する。
この仕事の辛い所は凄く臭い上に、スーパーに汚い。俺は最初被せてある鉄蓋を開けた時、あまりの匂いに思わず戻しそうになった程だ。あとは油を吸ったスポンジがなかなかにかなり重たい。
作業を通して汚く辛いハードな油仕事。俺はつい高校卒業してすぐ就職した車の板金工の仕事を一瞬思い出すが、臭さの種類が全く違う。まぁどっちにしろ臭いし、重いし、精神的に辛い。厨房の人間がこんなハードな仕事をしていた事を俺は知らなかった。
「清掃が終わったら、最後に清潔な状態を写メって虎聞さんに送信すんねん。これ送らなかったら、お叱りの電話来るから怖い事なんで」
鳴丘玉美は腕を組んで壁にもたれかかりながら、悪戯っぽく笑った。
「結構大変っすね。マジでしんどいわ」
「毎日やってたらそんなにキツい事やないって、人間っちゅうんは慣れるから。でもそれにも限界があって一回、前に駄目な店長が三ヶ月間も掃除してない状態のグリスト見た事あってな」
もう俺はそれ以上聞きたくなかった。だがそれを無視するかの様に鳴丘玉美は続けた。
「なんかもう凄いねんもん。この世の終わりみたいな匂いと見た目してて、流石のアタシももう無理ーってなって、ちょうど居たおじさんにして貰ってん」
いやちょうど居たおじさん可哀想。
どのおじさんかは知らんけど。
「でもな、最近では写メって毎日本部送るシステムを考えたのって虎聞さんなんよ。これで誰もグリスト清掃をサボることが出来なくなった。これって革命的な事やねん」
「何時だっておじさんが丁度居てくれるとは限らんしね」
「www.せやせや。キープのおじさん待機させなあかんくなるしな」
「店長って何気に酷いとこあるね」
「www.冗談やて。ジョーダンジョーダン…」
「…ん?もしかしてマイケルジョーダン?」
「誰やそれ?此処は普通エアージョーダンやろ?」
「いや。その元になってるのが、マイケルジョーダンなんですよ。バスケの神様って言われてる凄い選手なのに知らんの?」
「知らん知らん。バスケの試合とかよう見らん」
「じゃあなんでエアージョーダン知ってるの?」
「ああそれはな、前の彼氏がそのエアージョーダンって高いスニーカーを大事に大事しとってん。保存用とか言って磨いて部屋に飾るぐらい。スニーカーやで?こいつホンマ頭バグってないとか思うとったら、ソイツ二人で借りてた部屋に、知らん女連れ込んどってさぁ。滅茶苦茶ムカついたから、ソイツの眼の前でその靴切り刻んでやってん」
「!……」
「どしたん?急に黙って」
「いや、純粋にひいてて」
「せやねん。浮気信じられへんよな?」
「じゃねーよ、おかしいのはアンタの挙動でしょ。状況はどうあれ人のスニーカー切り刻むのは良くねーだろ」
「オイ!ア・タ・シは店長ですよ。そのアタシにd逆らうんですか?」
「ウグ。汚え…」
「汚く等無いのです。歴史を紐解けば、権力を得た人間こそが正義。逆に言えば権力を持たぬ人間等正しく無力も同然なんです。ですよねぇザーボンさん。ドドリアさん。……そして。ペサメムーチョ白澤さん?」
「最後のやつ誰よ?」
「wwwジョーダンジョーダン。冗談やて。ええかでもなビジネスという物は、必ずお客さん目線で考えなあかん。お客さんの立場にたってどうあって欲しいという事を吟味し続ける事が、一番大事な事やねん。その吟味の量が、サービスのクオリティに直結するから」
何故かこの日の鳴丘玉美は、クリティカルにボケてくる事が多かった。おそらくにしてそう言う日なんだろうと思う。でもスニーカー切り裂いた件はマジでびびった、流石「鬼のナルタマ」と呼ばれるだけの事があるわ。
広島最後の勤務の時に、店長の奢りでアキさんと3人で飲みに連れて行って貰う事に。
「広島に来てまだ牡蠣食うてへんの?勿体無いわ、アタシが奢ったるから行こうや」
始まりは些細な事だった、アキさんの同級生がバイトしている牡蠣食べ放題の店がある。というか広島という街はこういった牡蠣食べ放題の売りにしている店が、繁華街に結構多くあるらしい。
正直言うと、俺は牡蠣が嫌いだ。ガキの頃、母ちゃんが鍋にぶっ込んでたの食べた時、
「なんだこれー」
っつって吐きだしてしまった。臭えし、なんか苦い。それ以降も、母ちゃんは俺の好き嫌いを克服しようと牡蠣フライを食卓並べたりもしたが、俺は頑なまでに拒否を続けた。今思うと俺って最低な奴かも知れないな。
銀山町にビールを飲ませるだけで、行列ができる有名な店があるから行こうと二人が言うので、そんな店ある訳ねーだろと思ってついて行くと、マジで並んでるのでビビる。並んでいる間、大阪弁と広島弁から挟まれながら、俺が方言を使わない事が話題に。
癖が強いから使っても、伝わらないからと弁明すると店長が戯けて、
「せやせや、鹿児島いうたら西郷隆盛や。ゴワスやゴワス。ホニャララでゴワス、そういう風に言うねん。今日は休みだからパルコ行くでゴワスーとか、折角の休みだからネイルつけに行くでゴワスーとか、そういう使い方すんねん」
言わねーよ。なんでその文脈でゴワスつけんだよ、あと俺の地元にゃパルコはねえしー。地元を馬鹿にされた感じになり、俺は少しムカついた。
「ゴワスなんて誰も使ってないすよ。方言を誇張して使うつまらん地方タレントですら、使ってないっスよ」
声のヴォリュームを間違えたんだろう。怒ってるような感じになってしまい、3人の空気が変な感じになってしまい、俺は少し困る。
「まぁウチらもガンスなんてよう言わんのんで」
とアキさんが優しくフォローしてくれたお陰で、すこしだけ場が保たれ、俺は申し訳ない気持ちになった。
話してる間に俺達の順番が廻ってきた。店内に入ると見たこともない様な、かなり旧式だと思われるビールサーバーを使っていた。初老といった男が白衣を思わせる様な白いジャケットに白いシャツに蝶ネクタイをしていた。その男は講談師さながら、ビールに対しての様々な知識や彼の哲学を語りながら、ビールを注ぐ。その一切の挙動がまさしくプロフェッショナルといった鮮麗な風貌で、俺達は其れに魅了されてしまう。
俺たちも一応は店でやっているので、ビールの継ぎ方ぐらいは知っているのだが、その旧式のサーバーの驚く所は、ビールの出るスピードと水量が桁違いな所だ。なんというか水道の蛇口を全開にしたかの様な勢いで、ドワーッと出てくる。それを一気にジョッキに入れ泡切りをするのが「一度注ぎ」、ビールが出るスピード弱めながら注ぎ、2分程少し置いて炭酸を飛ばす「マイルド注ぎ」等、同じビールでも様々な口当たりを楽しませてくれる面白い店だった。
俺は早く飲みたかったので、一度注ぎを注文したが御淑女お二人はマイルド注ぎを注文。当然俺のヤツが来る方が先に来る。お二人は炭酸抜きの時間待ちだ。
「同じメニューにした方が良かったじゃん」
と怒るアキさん。
「ここは普通オーダー揃えるトコやろ。コイツ空気読まれへんねん。一人っ子らしいしの!」
一人っ子関係なくね?と思いながら、俺はそのビールを一気に飲み干した。
旨い!俺のビール人生最強かも知れない。何故かわからんが、ケツを蹴られた様な気もしたが。
「いやー美味しい美味しい。乾杯は2杯目でさせて頂きまーす」
これは本当に申し訳ない。
彼女達のビールの炭酸が抜ける間にアキさんが、
「なぁ鹿児島弁ってどんなんじゃ。教えてぇや」
と言うと、店長もそれに乗っかって、
「ほんまや、その話終わってへんわ」
本当にこの人達はしつこい。俺はイライラしてきて、
「はんたちゃ、んのごてせがらしかの!」
俺たちの世代でも普段使わないぐらいの親父の世代の方言、いわゆる「かごいまべん」で文句を言ったつもりだった。
また俺は声のヴォリュームスイッチを捻りすぎたようで、また沈黙とおかしな空気になってしまった。
「貴方達は本当に騒々しいですねって意味です。ほぅらわかんないでしょう?」
場をとり繕う為、慌てて俺は弁明する。すると堰き止めていた川を勢いよく流れ出すかのように、
「めっちゃ謎言語やん」
「何言うとんかホンマにわからんわ」
となんとかかんとかそれなりに笑いにはなった。この場合して貰ったと解釈するべきだろうか?
等等言ってる間に、ビールが飲み頃になったとの事で、それに合わせて俺も「一度注ぎ」を注文して乾杯した。勿論美味かったよ!
その店を出てアキさんの大学院の同級生がバイトしている牡蠣専門店は、テーブルの上にバーベキューコンロが設置されていた。
「うわぁマジで牡蠣喰わんといかんとけ?」
と俺は、糞みたいに憂鬱だった。
でも二人はそんな俺の憂鬱なんか知ったもんかというばかりに、バケツ一杯大量に注文しやがる。炭火で加熱された網に手際良く並べられ、俺達は凄まじい磯の香りに包まれる、ヤバいヤバいヤバい。
「すんません。俺、牡蠣駄目なんすよね」
と俺は随分と遅れたこのタイミングで告白する。
「え、なんで今言うん?」
「せやで、もっと早よ言わなアカンやろ」
当然、御淑女2人は怒りを露わに。
これはまずい本当に困った。
「www.えと、言い出すタイミングを逃しちゃった感じでゴワス〜みたいな。www,」
「さっき自分で言わへん言うたばっかやん」
ちくしょう。
「知らんがな。もう頼んだからしゃあないやん。もう焼いとるし。この場で克服せぇよ」
と当然のように言いやがる。
「えー無理だよ〜」
と必死に返すも、
「焼きが一番癖が無いから。騙された思うて試しに食べてみんちゃい」
とアキさんも言う。
騙されたと思って~の件は、昔からあんまり好きなフレーズじゃないけど、どうやら俺は逃げられんパターンの中にハマってるらしい。
網の上でじゅうじゅうと良く言えば香ばしい、正直それが俺には臭いんだが、牡蠣は食べ頃のようだ。覚悟を決めねば。
「オススメの食べ方ってなんすか?」
「覚悟決めたようじゃの。私の本当のオススメ教えちゃる。先ずは塩を適量をかける。その後レモンを搾ってかけるんよ。これで大分臭みも少しは取れる。美味しいから。保証する!」
その保証が効くんだったら警察や保険屋は要らねえよと思ったが、俺は観念して口に運ぶ。
「んんん。ううう」
「どしたん蹲って。食あたり?」
「にしては早すぎじゃ。体質的に合わんかったんかも知れん!」
「うううぅ」
「大丈夫か。吐き出し吐き出し!あたったら大変じゃ。強制して悪かったわ」
「パオ大丈夫か?救急車呼ぶか?」
「うううぅぅ••••••。美味い!」
「古典コメディかオイ!」
「いやマジで美味い。一寸人生最強かも知れん!なんこれ?めちゃくちゃ旨い!ウマー♪」
「なぁアキさんコイツ殺さへん?」
「奇遇じゃね。ウチもおんなし事思うとったとこじゃ」
と叫ぶ俺にとって、後ろで恐ろしい響きが聞こえる。
幸運にも俺は殺害されることは無く、翌日荷物をまとめ広島を後にした。
〜ラーメン!第二節 fin〜