悪夢を語る少女
「はっ……!」
冬のある日のこと、暖炉のついた暖かい部屋の中で一人の少女が息を荒げながら目を覚ました。
テーブルの上には一冊の本が開かれたままで置かれており、窓を見れば外が暗くなっているのが見える。いつの間にか寝てしまったようだ。
少女は口元に広がる涎を拭いゆっくりと身を起こしあたりを見渡す。
恐ろしい夢を見た……
少女の心中がそう語る。とても恐ろしい悪夢を見たと。
額には汗が浮かんでおり相当魘されていることも伺えた。
そんな中、部屋の扉がコンコンとノックされる音が聞こえる。少女は「どうぞ」と一言返すと鈍い音を立てながら扉が開かれた。
「おやつを持ってきたわよ、ウルギリア」
「ママ……ありがとう」
ウルギリアと呼ばれた少女の目の前に母親が持って来たおやつが置かれる。ウルギリアの大好きなスルメイカとシーザーサラダであった。
だが、いつもなら目を輝かせてシンバルモンキーさながら手を叩いて喜びを表現するウルギリアであるが、今日は違っていた。どことなく俯いており元気が無さそうだ。
その様子を母親はいち早く察してウルギリアの隣に座り優しく声をかけた。
「どうしたの、ウルギリア? いつもならおやつの時間になるとラッパを吹き鳴らして喜んでいるじゃない。体調でも悪いの?」
「ううん…… そうじゃないの」
ウルギリアは声を震わせながら首を横に振る。スルメイカもしっかりと炙ってきたし、シーザーサラダも先程八百屋で買ってきた新鮮そのものだ。何か気に入らないことでもあったのだろうか……?
ほんのしばらくすると、ウルギリアの口がゆっくりと開かれた。
「恐ろしい夢を見たの」
「恐ろしい夢……?」
母親が復唱するとウルギリアは「うん」と小さな声で返し母親をじっと見つめる。ウルギリアの声は震えており、その様子を伺った母親は優しく彼女の手を取った。
「かわいそうに、悪夢を見たのね。怖かったでしょう。でも大丈夫、ママがついているわ」
両手でウルギリアの冷たい手を優しく摩る。しばらくすればウルギリアの顔色が徐々に明るくなりはじめた。
「ありがとうママ。でも先日税務署が税金の取り立てで家に来た時よりかは怖くなかったからもう大丈夫よ」
ウルギリアが笑顔を見せた。やはりウルギリアには笑顔が似合う…… 母親はそう感じた。
「でも、本当に恐ろしい夢だったわ。ママ…… 聞いてくれる?」
「もちろんよ。話せばスッキリすることもあるでしょうし。ウルギリアの悪い夢…… 聞かせてくれるかしら?」
悪い夢も語れば笑い話になる。母親はそう思い、少しだけウルギリアの方へ身体を向けた。
「あのね、家に無作法な保険レディが現れて無理やり保険を契約させられたの」
「まぁ!」
その内容を聞いた母親は思わず口元に手を添えてしまう。
「うん。それでね、出ていってって言っても出て行かないし、それどころか永遠と家に居座ろうとしたのよ」
「な、なんて恐ろしいことを……」
身の毛のよだつ話に、母親は身体を震わせてしまった。
家に保険レディが現れて無理に契約させられるだなんて、考えるだけでも参ってきそうな話である。優しい性格のウルギリアはきっと強く断りきれず、泣く泣く契約させられてしまったのだろう。ウルギリアの優しさにつけ込んだ悪い保険レディだ。
そんな驚く母親を前にウルギリアは「それだけじゃないの」と更に続けた。
「節分の日にコンビニへ行ったら強引に恵方巻を買わされたわ。買いたくもないのに鰻の恵方巻と合わせて4,000円近く払ってようやく解放されたのよ」
「なんですって!?」
本当に悪徳なセールスだ。確かに節分の恵方巻セールスを凌ぐのに大変苦労するのは母親も知っている。こんな悪夢を見てしまった日にはウルギリアのように元気が無くなるのも十分頷ける話だ。
「それでウルギリアは恵方巻を食べたのかしら?」
「お腹も空いていないのに2本も食べたわ」
この子……生物が苦手なのになんていう仕打ちを……!
ぐっと湧き上がる感情を抑え、母親は唇を噛み締めながら静かに耳を傾けていた。
「あと、野球でボールの球をストライクと言い張る審判がいて揉めに揉める夢も見たわ」
「そんな夢まで……」
ただただ悪夢の内容に母親は驚くばかりである。そんなの乱闘沙汰じゃないか、と怒りまで込み上げてしまった。先日母親の応援している球団もこれが禍いとなり負けてしまったこともあったのだ。許せない話である。
「それとね、観たかった映画があって映画館へ行ったのに、一緒に連れてきたひいおじいちゃんが映画館に着いた途端に無茶苦茶なこと言い出して強引に観る映画を変更させられてしまう…… そんな夢も見たわ」
「ええっ!?」
こんな事されたらたまったものではないだろう。困惑不可避な話である。
「お陰様で高齢者と恋愛映画を観るハメになって凄く気まずかったわ」
考えるだけでも気まずい話だ。一体どうしてそんな展開になったのか、母親は正直気になってしまったが、ウルギリアのことを考えると追求する気にもなれなかった。
聞けば一つだけではない。いくつもいくつも奇妙な夢を立て続けに見てしまったみたいようだ。
「なんという恐ろしい夢……神様はヒドいわね」
そっとウルギリアの肩を抱き締める。可愛い一人娘のウルギリアがどうしてそんなヒドい夢を見なければならないのか…… 世の中は本当に理不尽であると母親は悟った。
ウルギリアも母親へと身を寄せてお互いの温もりを確かめ合う。外では雪はしんしんと降り続いており、本格的に寒くなりそうだ。
ウルギリアの好きな温かなカモミールティーでも淹れてあげようと、母親はそっと彼女から離れた瞬間である。
ウルギリアが目の前で開かれた本を指差して声を上げた。
「ママ! 見て、この本!」
「どうしたの? ウルギリア」
何か気づいたかのような表情を浮かべ、ウルギリアは本を拾い上げこちらへ見せてきた。
「悪夢はきっとこの本が原因よ」
「……どういう事かしら?」
ウルギリアから一冊の本が渡される。緑色の表紙をしたごく普通の本であり…… どうやらとある作家の短編集のようだ。
「さっきの夢の話…… 全部この小説に書かれたものなの!」
「ええ!? そんなことって……」
ウルギリアの言葉を受け、母親は本をひっくり返しながら舐めるように見つめた。開いてざっと通すように読んでもすぐに内容は分からない。
「思い出したよママ。あの夢もこの夢も全部、この本に書かれていた話だったんだ。この本を読んでいたときに寝てしまったから私は……」
「悪夢を見てしまったということね」
ようやく腑に落ちた。この小説を読んでしまったがために奇妙な夢を見てしまったのだ。
しかしながらこの本……
「こんな本……一体どこから……?」
母親には見覚えがなかった。ウルギリアは度々図書館へ行くことがあるが、背表紙を見ても図書館の書物と判別できるシールが貼られていなかった。
ということは、買ったのだろうか?
「学校から家に帰る途中、ある男の人からもらったの」
「男の人から……?」
「うん、あげるって言われてもらったんだけど…… 読んでも読んでも変な話しか載っていなくて……そして突然眠くなって寝ちゃったの!!」
色々思い出してしまったのか、ウルギリアが泣きそうな顔を浮かべ、母親に訴える。
ぎり……と母親は奥歯を強く噛んだ。ウルギリアをここまで不幸に陥れたこの本は間違いない……
「この本、間違いないわ…… 悪魔の書よ!!」
悪魔の書…… 巷で噂される不幸を呼ぶ本のことである。図書館や書店のどこかに潜んでいると母親は幼い頃からそんな話を聞かされていた。
まさか本当に存在していただなんて……
母親は信じられなかったが、本の獲得経緯や夢の話を聞けば間違いないと断言できた。
「悪魔の書……!?」
「そう。落ち着いて聞いてウルギリア。この本は呪われているわ。だからここでは捨てられないの」
「そんな…… じゃあどうすればいいの?」
「この本は教会に持って行って預けてもらうわ」
悪魔の書は教会へ持っていく。小さい頃に聞いた話がこんなところで活かされるだなんて思いもよらなかった。
「ママ、早く教会に行こうよ!」
「そうね、すぐ準備するからウルギリアも着替えなさい。外は雪降っていてとても寒いわよ」
そう言い残し母親は急足で部屋を出た。
ウルギリアも慌ててクローゼットを探り上着を羽織る。そして、机に置かれた悪魔の書を恐る恐る手にした時……
ふとウルギリアはこう思った。
この本の作者…… 一体誰なんだろうか? と……
あまり開くべきではないと分かってはいたが、つい興味本位で最初のページを開いてしまう。
そしてウルギリアは下方に記された作者名を小さな声で読み上げた。
「一木 川臣……」
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