(5・終)
灰色の船内はしかし未だ過去の呪縛に沈んでいるかのようだった。大半が地球行きを支持するようになりながら、それでもまだためらう者も多数いたのである。それはさながら船自身が人々を逃がすまいとしているかのようだった。願い----そこに込められた幾多の思いが、絡みつき皆を引きずり止めているかのようだった。
----サリーア・・・----
ずっと暮らしてきた船である。もう長い間その船長の責を負ってきた船である。キルシュの船に対する思い入れは誰よりも強い。それでも人には未来がいる。過去だけでは生きて行けない。
「・・・何百年という時をこのまま無駄に捨て去ると言うのか」
議論は未だ続いていた。
「私らの父の、母の、その父の、母の、彼らの努力は何だったんだ?大地を捨てて犠牲になった者たち皆をこの上無為に帰すと、そう言うのか」
年長の者ほど船に残ることを主張した。船は彼らの故郷だった。容易には捨て去れない。
けれども----
----もういい----
キルシュはついと顔を上げた。
「もう・・・いいじゃないか」
ハッとしたように皆がキルシュに視線を注ぐ。キルシュは静かに言った。
「もう十分だ、そうだろう?この上新しい世代を犠牲にして何になる?私らは追いつかれてしまったんだ。それは消しようのない事実だ」
誰も何も言わない。キルシュは小さく息をつき、言葉を継いだ。
「たとえプロジェクト自体は失敗であったとしても、それでこの船内に息づき、生きてきた者の意味が失われるわけではない。確かに彼らはここにいて、私らもまたこの船に暮らした。それで・・・いいじゃないか」
サリーア・・・キルシュは心の中でそっと船に語りかけていた。お願いだからもう赦してはくれないか、もう彼らを、私らを、赦してくれないか。古い積み重なった時間の軛を外し、新たな一歩を踏み出させてはくれないか、と。
「やれやれ、一段落ですねえ」
白竜号はひょいと管制室に自分の人型を出して言った。ブルストリーたちは白竜号がこれをすると嫌うのだが、幸い今この管制室にいるのは「夜勤」のイシュラインだけである。白竜号は小うるさいことを言わないイシュラインが好きで、彼の当番の時にはしょっちゅうこうして出てくる。
「ご苦労様」
イシュラインが言う。
「別に何もしていませんよ。隊長ってばあれもしなくていい、これもしなくていいってなーんにもさせてくれなかったんですから。折角私が最高のもてなしをしようと思っていろいろ申し出たのに・・・。でも、人間って分かりませんよねえ。一体何をあんなに悩む必要があったのか。地球へ行く方がいいのは自明のことなのに。変な意地はっちゃって、未来に来る世代まで巻き込む気だったんでしょうかねえ」
「さあ・・・私には分かりませんが、」
イシュラインは丁寧な口調で言った。
「ただ、そう簡単には割り切れないということなのでしょう」
「割り切れない、ねえ」
白竜号はそれこそ「割り切れない」表情をしてしばらく考えていたけれども、不意に将棋盤を取り出した。
「まあいいや、後でゆっくり考えることにします。それよりイシュライン技官、将棋しましょう、将棋」
「いえ、私は今勤務中・・・」
「カタイこと言わないで。鬼のいぬ間に何とやら、ですよ。大丈夫、わたしがちゃんと見張ってますから、ね、ね」
白竜の「大丈夫」はあまり当てにならないのだけれども、これが拗ねるともう一段厄介である。イシュラインは苦笑しながら言った。
「仕方ありませんね。では一局だけおつきあいしましょう」
大移動の騒ぎが済んで静寂に返った船内をキルシュは改めて見回した。これはラウィがつけた傷、あそこはニキが落っこちた場所、うっすらとまだ残っているのはノナが壁にかきつけた落書き。叱られて半泣きで消していたっけ。机の上のカップの跡、扉の小さな傷、壁に残る手の跡。それら一つ一つに様々な思い出が埋め込まれている。キルシュはいとおしむようにそれらの跡に手を触れた。
笑い、怒り、泣き・・・そのすべてを飲み込んで船はあった。小さな小さな閉じた世界。陽の差さぬ人工の閉じた空間。「外」の人間たちは----あのブルストリーでさえ----そんなキルシュたちに同情しているようだけれども、キルシュに言わせればこれほど的はずれな反応はない。同情されるようなことは何もない。この厚い外板にくるまれた内側が全てのこの世界で、キルシュは思った。
----私達は決して不幸ではなかった----
しばしもの思いに沈んでいたキルシュは、けれども不意に船長、と声をかけられて我に返った。最後まで残って作業をしていたシュウエンである。
「そろそろ時間ですが」
「ああ・・・そうだったな」
言って小さく息をつく。
「全員移乗したか?」
「はい、全て終わっています。いざ離れるとなると・・・」
シュウエンが語尾をつぶやきに変えて辺りを見渡す。二人はしばしコントロール・ルームを眺めていたけれども、やがてキルシュはおもむろに小さな手荷物を持ち上げた。
「・・・行こうか」
背後で音もなくコントロール・ルームの扉が閉じる。恐らくもう二度とこの扉をくぐることはないだろう。ハッチへの長い廊下を抜けたキルシュは、そしてたった一度だけ自分の船をふり返った。ただ一度、全ての思いをこめて。
「過去から来た船」これで完結となります。お付き合い頂き、ありがとうございました。
次話は、「猿と虫」になります。