アルキメデスの「ユリイカ」
アルキメデスは、風呂で体積に関する発見をした時「ユリイカ!」と二回叫んで、興奮のあまり裸のまま飛び出て、シラクサの町を走ったそうだ。
これは非常に有名な話で、子供の時から知っていたが、大人になるとある感慨を起こさせる。
我々は大人になると、アルキメデスのような子供っぽさを忘れてしまう。ニーチェが、「成熟とは子供の遊戯の熱情を取り戻す事」と言っているが、これは的を得た言葉に思われる。そういう意味でアルキメデスは十分子供っぽい人物だった。
また、この子供っぽさというものを分析するなら、功利に繋がっておらず、それ自体を目的としている事、極度に集中している事の二点が頭に浮かぶ。それ自体に対する理論的熱中。それがあるからこそ、発見した時の喜びは、自分の肉体(裸身)を忘れるほど大きなものになる。
子供の頃の箱庭作り、泥団子作り、なんでもいいがそうした遊戯はそれ自体に没頭するものである。そういう場合、我々はみな天才であった…という風にも言えるかもしれない。大人の論理を破って、再び子供の熱中に還り、それ自体の中にもう一度宇宙を見る事。自分の中の全てが対象にそっくり投げ込まれるのを自分で見る事。対象を手で弄くり、そこから理論的解決、実践的解決を得る事。それのみが自分自身である事。その行為がそのまま己である事。そうした場所におそらく、天才と呼ばれた人達は鎮座していた。孔子の「これを楽しむ者に如かず」とはそうした子供っぽさについて語っているのだろう。
アルキメデスと同じような例を、他の本でも発見した。数学者の岡潔は、極度の集中の為に、授業中、黒板の前で立ったまま動かなくなる事があったそうだ。他人には「変人」だったろうが、そうした評価は、彼が脳内の宇宙に集中し、外界に対して「気にしない」為に現れる素振りだけを見ているから出てくるものだろう。
彼の脳内の宇宙をも、彼の外界に対する動作と一緒に眺める事ができれば、彼を一人の人間として把握するのは容易だったろうし、変人などとは誰も言わなかっただろう。…ただ、そんな視点を持つ事ができるのは他の天才に限られるという理由によって、岡潔という人物は変人かつ天才と呼ばれ続けるのだ。考えてみれば、彼は天才でも変人でもなく、岡潔という一人の人物でしかなかった。
シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」に、彫刻家のロダンが出てくる。客として招かれたツヴァイクは、ロダンに彫刻を見せてやろうと言われて、ついていく。彫刻が沢山ある部屋があって、ロダンはそれらの作品を紹介してくれる。ところが、一つの女性像に目をつけ「ちょっと待ってくれ」と言って、ヘラを持ってきて像を直し始める。しばらく一人で像を修正していたロダンにはもうツヴァイクの存在は消えていた。ロダンが修正を終えて、顔を上げると、そこには見知らぬ男がいる。ロダンは一瞬、怪訝な顔をするが、すぐ自分の呼んだ客だと思い出して相好を崩す。ロダンは外界の一切を忘れて、自分の作品世界に没入していたのだった。
これらの話を総合してわかるのは、天才というのは外界を忘れて、一つの世界に完全に没入するという事である。その極度の集中力は並大抵のものではない。
また、今の時代との関連で言えば、現在に天才が出にくい一つの理由が、人が自分の中に宇宙を見出す事が難しいからだろう。自分の中の宇宙と言っても通じないかもしれないが、天才は自分の創造の中にしか全てを認めないという唯我独尊的性質を持っており、それを現在の外界世界は絶えず突き崩すような運動をしていく。
今の小説を読むと、現実の実生活とあまりにも地続きなのがすぐにわかるだろう。作家は自分の中に宇宙を見いださず、ただ外界と癒着として「物」を作っているに過ぎない。小説というのは現実に起こる事、起こりうる事を描いているので、それが自分の中のイデーから発するという基本事項がわからなくなっている。そこで小説は、目があり耳がある人間なら誰でも書けるという謬見が生じてくる。そうであれば、売上が期待できるタレントが書いた方がいいだろう、というのが現在の水準だ。
天才は極度の集中力をもって事物の中に打ち込む。アルキメデスの「ユリイカ!」の叫びはその鮮やかな証明のように私には思われる。しかし大人になって、もはや打ち込むべき何も見いだせず、それなりに小金を持ち、仕事もあり、人間関係もできながら、自分の熱中できる一筋の道は存在しない……それが普通の大人だろう。我々はそうしたくたびれた存在になってから、むしろ天才の子供っぽさがどうして大人になっても保存できたのかを訝しむ。そこには子供っぽさを守り続け、大人の論理を射抜いて、一つの形象にまで持っていく見えない人生道程があったに違いない。
我々はその道を辿る事ができなかったがゆえに、これら子供っぽさを持った天才達を愛したり、憎んだり、妬んだりする。いずれにせよ、その子供っぽさの中にこそ、大人の小癪な世界を打ち破るもっと巨大な情熱の息吹が存在するのを疑うわけにはいかない。我々は裸で走っているアルキメデスを、常識という警棒で殴って喜ぶかもしれぬが、真には、彼の裸身が小癪な我々を越えて走り去っていくのを我々の魂は認めないわけにはいかないのである。