バーベナの陰
「 」
「 」
「 」
周りの声がノイズにしか聴こえない。
何かを喚き散らしてるけど、俺には関係ない。もう、全部どうでもいい……。
本当にこの家はややこしすぎる。
いや、ややこしいというよりはどいつもこいつも頭が悪い。
俺が言えた義理じゃないけど、答えはとっくに出ているはずなのにそれを認めようとしない。別の答えがあるはずだと、折角のシンプル且つ単純な答えを難しくしようとする。
あー、そんなバカな大人に巻き込まれる子供の身にもなってくれよ……。
あ、とりあえず自己紹介をしておく。俺の名前は拓海。苗字は世間でも有名で、俺にとっては忌々しいものだから、苗字で呼ばれたくないから口にしない。名前で読んでくれ。
さっき散々言っていたややこしい俺の家。そうだな、まぁ軽くではあるけど説明する。
大人たちがどうしてこんなに喚き散らしてるのか、それは”跡継ぎ”問題だ。
俺には姉が一人いる。容姿端麗、文武両道のすげー姉貴。劣等感とか嫉妬とかはなくて、単純に尊敬や憧れとか抱いていた。それに比べて俺は、見た目はそこそこで頭は悪い。姉貴とは全くもって正反対という存在。
そんな俺たちは、この家の跡継ぎ候補。
跡継ぎの条件は以下の通り。
1.男である事
2.優秀である事
俺は性別が当てはまっているだけで優秀ではない。
姉貴は、優秀ではあるが男ではない。
このことから、お互いに欠けている俺たち。単純に考えて家のことを考えれば性別なんて問題じゃない。優秀な姉貴が後を継げばそれで終わり。
と、なってないからこうなっているわけだ。
面白い話をしてやるよ。俺と姉貴は所謂異母兄弟ってやつで、父親だけが同じで母親が違う。
姉貴は”愛人妻”の子供。俺は”正妻”の子供。
正妻の子供で、男ではあるが優秀ではない俺。
愛人の子供で女ではあるが、優秀である姉貴。
そんな俺たちのどちらが跡継ぎになるのか。大人たちは口論が耐えない。そして、我が子をと、母親同士が子供を使って争う。
優秀ではない俺は、いつも母親に怒られながら勉強をする。でも、どんなに努力をしても結果が残せない。その度にヒスって殴られて。それの繰り返し。
姉貴の方も同じだ。姉貴は優秀だけど天才ではない。姉貴が優秀であるのは彼女の努力の結果だ。
日に日に感じる息苦しさ。押し潰されるような窮屈さ。
あれやこれや言われ、嫌々で言われたことをする。頑張っても、求められている結果を残せなければ殴られる。
何度も、何度も、何度も……何年も、これの繰り返し。いつからだろう……俺の思考はこう考え始めていた。
もう嫌だ……俺はもっと楽になりたい……開放感を感じたい……自由になりたい。
そう思い続けて、溜まりに溜まっていくよくわからない感情。その感情はやがて、俺の中にある器にはいきれなくなり、限界を迎えた。
「坊っちゃま! おやめください!」
「誰か奥様と旦那様を!」
気付いた時には喚き散らしながら部屋をめちゃくちゃにした。
使用人の制止の声も、俺の耳には全く入らなかった。
「拓海! 何をしているの!」
騒ぎを聞きつけ、部屋にやって来た俺の母親は、いつもみたいにヒスりながら、俺を殴ろうと手をあげたけど、それよりも先に俺が母親を殴った。
限界を向けていた俺はその時思った。親とはいえ、相手は女。力で負けるはずがないのに、どうして今までこんな簡単なことができなかったんだろう。どうして素直に言うことを聞いていたのだろうと。
俺がじっと、母を殴った右手を見つめていると、床に倒れ、殴られた頬に触れながらか細い声を上げながら俺を見上げる母。何が起きたのか全くわからないみたいで、不思議そうな顔で俺を見てきた。
疑問だった。お前が散々俺にしてきたことを自分がされて、どうしてそんな顔するんだよ。どうしてまるで自分が被害者みたいな顔をしてるんだ?十数年お前がやり続けたことを俺がたった一度やっただけで、どうしてそんな怯えた表情をするんだ?
「ふざけるなよ……ふざけんなっ!」
また、腹の底から怒りが込み上がってきて、再び暴れた。
ひとしきり暴れれば、家の中はめちゃくちゃだ。怪我人も出た。
虚無感を感じた。自分は何をしてるんだろう。物や人に当たったところで、こんなことをしたところで何かが変わるわけでも、数十年と言う時間が戻ってくるはずもなかった。
「拓海」
「……おやっ」
気づいたらそばに親父がいて、名前を呼ばれて振り返った瞬間に思いっきり殴られて意識がなくなった。
目を覚ました場所は、自室ではない別の部屋だった。出入り口はどこも開かず、完全に閉じ込められた状態だった。
一度眠ったおかげか、酷く冷静だった。
きっと、頭を冷やせと言う意味だろう。出して欲しいなんて気持ちはない。ただ、不思議と感謝の言葉が込み上がってきた。
ある意味この状況は俺自身もありがたかった。きっと、母さんを見たら俺はまた同じような行動に出るかもしれない。暫くは、この部屋で大人しくすることにした。
どれだけの時間、ここに閉じ込められたかはわからない。食事は用意されたし、俺に同情した数名の使用人が今の家の状況を教えてくれたりもした。
あの一件をきっかけに、姉さんを投手にと言う声が大きくなったそうだ。でも、そのせいだろうか。姉さんへの期待がどんどん増していって、感情があるのかもわからないほどらしい。ある意味、人の形をした”人形”だと。
その話を聞いて、やっと決心がついた。この家から出よう。いや、街を出よう。もう俺は、この家と関わりたくない。後継が決まっても、待ち受ける未来は大人たちの操り人形だ。
そんなのごめんだ。俺は自由になりたい。
必要なものだけを鞄に詰めて、家のやつらが寝静まり返った夜にでてくことにした。
「姉貴、まだ起きてるか?」
出る前に、姉貴の部屋に行って事情を話した。そして姉貴も出ていかないかと誘っけど、静かに首を振られた。
姉貴は、母親のためにも全部を無駄にしたくない、と。家のことは自分に任せて、お前は自由に生きなさいと、そう言ってくれた。
優しい姉貴。いや、優しすぎる姉貴。本当は苦しいはずなのに、弱音を一切吐かない。
俺自身も自分のことで一杯一杯だったけど、それでも姉貴が俺と同じように、俺以上に苦しくてひどい仕打ちを受けている。日に日に、姉貴が昔の姉貴じゃなくなっていっているなんてとっくの昔に気づいていた。姉貴を楽にさせたい。自由にさせたい。どんなに拒絶されても、その手を掴んで二人で家を出て行こうとも思った。
だけど、無表情。人形のように全く感情が顔に出さなかった姉貴の浮かべる笑顔を見てそれができなかった。
今にも泣き出しそうなその笑顔。じっと俺のことを見つめる瞳には俺に対する怒りと妬みを感じた。
その時思った。あー、そっか。好意を持っていて、姉貴を守りたい、救いたいと思っていたのは俺だけで、姉貴はずっと俺のことが嫌いなんだったって。
俺は姉貴を尊敬した。嫉妬なんてものはなかった。だけど姉貴は違う。ただ性別が違うだけ、産んだ母親の立場が違うだけでこんなにも苦しい思いをしている。母のためにも後を継ぎたい。でも、姉貴からしたら俺はとてつもなく邪魔な存在だっただろ。
俺のそばで笑って優しくしてくれている時も、心の中でずっと思っていたんだろう。
アンタサエイナケレバ
それがわかると、俺の中にあった姉貴に対しての込み上がる感情も、スッと消えていった。
手をつかもうと伸ばしていた手を戻し、俺は俯いた。
「わかった。元気でな」
あの時の俺のように、積もりに積もった感情を姉貴はきっとグッと我慢している。
あれ以上しつこくしていれば、俺が起こしたように姉貴は俺を罵倒しながら殴りつけたりしただろう。
姉貴のためにも、そならないように俺は潔くその場を後にした。
「くそったれ……」
家を出る時、無駄にでかいその家に向かって、俺はそう言葉を吐き捨てた。
行く宛てなんてものはない。行き当たりばったりで、好きに色々なところを回る。
知らない土地、知らない生き物や植物……知らない……知らない……
これから目にするであろう未知のものに対して、そして、やっとあの家から解放される嬉しさで、俺の足はとても軽かったし、清々しい気持ちだった。
だけど足は町の外には向かず、家の近くにある墓地へと向いた。
ここを離れる前に、先祖の墓にだけは挨拶をしておこうと思った。
あんな家だけど、金はたくさんあったから不自由はしなかった。それもこれも、ご先祖さま……幼い頃に聞かされた曾祖父、家を興した誠太郎という人物のおかげ。
そんなご先祖様に申し訳ないと思いながらも、俺はどうしてもここを出て行きたかった。家の恩恵を受けていたのに、受けるだけ受けて出て行くだなんて、恨まれるかもしれないし、もし声が聞こえたら引き止められていたかもしれない。それでも、俺の意思は変わらない。謝罪の意味を込め、ここを出る前に手を合わせて行こう。
「ん?」
墓参りに毎年のように来ていたから迷わず向かうことができた。夜の墓場ということもあり、何か出そうな雰囲気をしている。それこそ、幽霊の一人や二人が出てもおかしくなかった。
少しだけ辺りをキョロキョロしながら目的の場所へと向かっていたが、先祖の墓の前、そこに見知らぬ女性が立っていた。
時代錯誤の格好。はいからさんというのか……そんな格好をした、わずかに青みがかった黒髪を月光が照らす、なんとも目を惹かれる美人だった。
思わず見惚れてしまい、ぼーっと彼女を見ていると視線を感じたのか、女性は俺の方に振り返った。
目があった瞬間、俺の心臓はどきりと大きく跳ね上がった。
今までに、見合いでたくさんの女を見てきたが、これほどまでに美しい女……女性は初めてだ。
元々見合いなんてしたくなかったから相手の顔と名前を一々覚えてはなかったけど、彼女を見た瞬間に、自分が今までに見てきたのは本当に女性なのかと思わされてしまう。
時代錯誤の服装に、月光に照らされた夜の墓地。そして、それを彩る舞い散る桜。なんとも絵になる構図だ……こんなにも魅力的な絵があったら、是非とも買いたいほどだ。
「あら、こんな時間帯にお墓参りなんて珍しいですね」
「え、えっと……」
「彼は、幸せ者ですね」
何かをつぶやいた彼女は、また墓の方を向いてしまった。
わずかにドキドキと心臓が痛いほどに激しく動く。恋とかそういうのではなく、なんというか……緊張に近いものを感じる。
俺はゆっくりと彼女の隣に歩を進め、彼女の見つめる墓に目をやる。それは、自分が尋ねようとしていた墓だった。
親戚だろうか……でも、こんな美人を今までの集まりで見たことがない。
別の人か……
「貴方は、どうしてこんな時間にここにいるの?」
「え?」
「たわいもない話よ。お互いに無言というのも退屈でしょう?」
「……家を出たんです。で、このまま町を出ようと思って」
「どうして、家を出たの?」
「……楽に……自由になりたかったんです」
彼女と視線を交わすこともなく、お互いに目の前の墓に視線を向けながら会話をする。家のことをなんとなく話したけど、彼女はただ黙って聞いていた。それが心地いいのか、見ず知らずのついさっき会ったばかりの相手なのに、ほぼ全部と言っていいほどのことを話してしまった。
どうしてこんなにも口が軽くなるのかわからない。彼女には、もしかしたらそういう力があるのかもしれない。
「それで、家を出る前に墓参りと思って」
「そうなの、大変だったのね」
一通り話しを終えると、彼女は俺に視線を向ける。遠目でも見惚れるほどの美人だとわかっていたけど、こうも近いと頭がおかしくなりそうなほどに、その美貌にあてられてしまう。
「私は、彼のことをよく知ってるわ」
「え……」
「貴方の曽祖父の誠太郎のことを、私はよく知っているわ」
この人は、何を言っているんだ?
曾祖父のことを、知っている?こんなに若い女性が、どうして俺の曾祖父のことを知っているのか。
浮かべる笑みは、その心の内を全く読ませようとしない。
「お聴きになりますか?私が知っている、彼の話を……」
嘘か本当かはわからないけど、どうしてか彼女は本当に曾祖父のことを知っているんじゃないかと思った。
「この後はもう、町を出るだけだし……この町での最後のいい思い出に、美人さんの語りを聞くのもいいかもしれませんね」
苦笑を浮かべ、俺はそのまま硬い石の上に腰をおろして彼女を見上げた。
「そういえば、名前を聞いてなかったですね」
「私の?私はユキ。姓は……もう忘れてしまったわ」
「詳しくは聞かないでおきます。女性の過去話はろくなもんじゃないってよく聞きますから」
「ふふっ、ご心配なく。私のことは、これからお話しすることに含まれていますから」
そういって、彼女は片手を胸に当て、片手を広げて過去のことを話し始めた。
空から差し込む月光が、まるでスポットライトのように彼女を照らすせいで、まるで自分が大きな舞台の観客席に座っている気分だった。
「では語りましょう。それは今から100年ほど前。時は大正時代……」
*
「はぁ……今回の依頼も無事完了。後は依頼主に報告をするだけ」
深々と溜息を零しながら、重い足を前へ前へと動かす。
依頼主に頼まれた仕事をこなし、これからその人物の家に報告へと向かう。
相手は華族のため、普段着るような薄汚れた袴よりもチェスターフィールドコート……最近やっと覚えたこの服がビシッと決まった、小綺麗な格好をして向かわなければいけない。だから、仕事を終えた後はわざわざ家に、着替えをしに帰らないといけない。
「本当に、無駄にでかい家だな……」
歩みを止めて、僕は依頼主の家を見つめる。街から少し離れた場所にあるその家は、無駄に大きく、奥には森のようなものまである。華族の間では結構有名な人物だと噂で聞いた。
「はぁ……こんな服でもないと普通に入れない家だよな」
僕はこんな見た目をしているが、さっきも話した通り、本来こんな上等な服を着る身分ではない。
身寄りをなくして、頼れる身内もいなくて、明日を生きるのに必死で……仕事を必死に探しても、悉く断られて途方にくれていた。そんな時にこの家の当主に声をかけられ、僕は彼の密偵のような真似事をして生計を立てている。
華族だけに、報酬はかなり奮発してくれる。面倒な仕事はであるが、金のためだと割り切っている。正直僕は、華族が嫌いだ。
今日は少し風が強くて、わずかに額に汗が滲む今の時期にはとても心地よかった。こんな日は、窓辺で風に当たりながら昼寝がしたいものだ。
さっさと報告を済ませて家に帰ろう。
「ん?」
そう思いながらふと、顔を上に向けた時に黒い影が見えた。屋敷の二階。その一番端の窓から、一人の女性が顔を覗かせていた。
陽の光を浴びておらず、部屋に明かりもついていないせいで薄暗く、相手の顔がしっかりとは見えないが、それでも彼女が美人であることは遠目からでもわかった。
僅かに青みがかった長い黒髪がなんとも印象的な女性。幻想的。この世のものとは思えないほどの美しさ。
この家の当主の娘だろうかと思いながら、魅入られたように彼女のことをじっと見つめていた。
しばらくすると、彼女はカーテンを閉めて影が部屋の奥へと消えてしまった。
少しだけ残念に思うと同時に、急に現実に引き戻されて不思議な気分になった。
彼女の事が気になるが、とりあえず当主に仕事の報告をしなければ。
*
「はぁ……疲れた……」
当主への報告を終えた僕は、家に着くとそのまま服を脱ぎ捨てて、いつもの服に着替え直した。やっぱり、こっちの方が落ち着く。
整えていた髪もぐしゃぐしゃにし、そのまま床に大の字になって天井を見つめる。
ぼーっとした頭で思い出すのは、あの屋敷にいた彼女の事だ。
今まで見た女性とは比べ物にならないほどの美しさ。会話もしてないし、遠目でしか見ていないのにどこか人間味を感じなかった。だけど、それを疑問に抱かないほどに彼女のまとうそれは自然と当然なもののように感じた。
当主に聞こうとしたが、そんな身内の話をするような間柄ではないため、聞くことはできなかった。
まぁ「次も頼む」。なんて言われたから、またあの家に足を運ぶ機会はある。きっと、また彼女に会えるだろう。
「妖……な訳ないか」
「おーい、誠太郎。いるかー」
扉が強く叩かれ、聞き覚えのある声が聞こえる。
オンボロの安アパートだ。そんな大声を出されては、ご近所さんに怒られる。
僕は重い腰を上げ、そのまま扉を開けた。
扉の向こうにいた男は、僕の顔を見ると笑顔を浮かべ、手に持っていた瓶を見せてきた。
「暇だろ?いい酒が入ったから一緒に飲まないか」
「強引だな」
「いつものことだろ。それに家にいるってことは仕事は思う終わったんだろ?飲もうぜ」
少しばかり上等な服を着た彼は、僕の知人。蓮香という名前だ。華族ではないが、それに近い身分の男で、仕事で色々と助けてもらっている。
女遊びが激しく、たまに問題ごとを僕に投げてくる以外はいい奴だ。こうやって、たまに酒などを持って尋ねてくる。まぁ、突然な上に、あんなにどんどん、激しく扉を叩かないで欲しいけど。
「どうだ、仕事は」
「ひと段落したよ。また頼むってさ」
「そいつは良かったじゃねーか。あの当主は羽振りがいいからな」
綺麗なグラスなんてない。普段使っている湯飲みに酒を注いでもらって一口飲む。あぁ、いつぶりだろう。こんな上等なものを口に運ぶのは。
仕事をしてる間は酒を飲まなかったから、アルコールが体に入っていくのを感じる。少量しか口にしていないのに、少しだけ体がふわりと浮く感覚がする。
「うまいだろ」
「まーな。疲れた体にしみる」
「そいつは良かった」
「で、この酒は今日の相手からか?」
「あぁ。名のある華族の奥様からだ」
それを聞くと、美味しいはずの酒に少しばかり眉を顰める。
こいつが持ってくる酒はどれもいいものばかりだが、その大半がこいつの遊んだ相手からのものだった。今回は華族か……面倒ごとにならなければいいが……
そう思いながら、湯飲みに入った酒の水面に映る自分の姿を見つめる。
ふいに、僕はまたしても彼女のことを思い出した。そして、もしかしたら蓮香が何か知っているかもしれないと思った。女遊びは激しいか、その分色々なところから色々な情報を持っている。
「なぁ蓮香」
「んー?どうしたよ」
「あの家の当主に娘はいるか?」
「あの家?今の仕事先か?」
「あぁ」
「んー、娘かぁ……」
「当主の家に行った時に二階の端の部屋にいたんだ。それはもうとんでもなく美人の」
「ほぉー、それは興味が注がれるな」
女好きの蓮香はしっかりと食いついた。しかし、すぐに彼は手を振りながら僕の問いに反論した。
「残念だが、あの男に娘なんていないよ。隠し子なんて噂もない。使用人と間違えたんじゃないか?」
「……使用人の服では、なかったな」
確かに着物は着ていたが、エプロンをつけていなかった。それに、遠目でも彼女の着ていた着物が普通のものとは違うということはわかった。
娘ではないとなると、彼女は一体……
「まぁ、あんまり首を突っ込まないことだな。お前はあくまで雇われてる側だ。深入りしすぎて仕事をもらえなくなって困るのはお前だろ」
「……そうだな」
そうは言っても、やっぱり彼女のことが忘れられない。それほどに、彼女の姿は僕の頭に焼きつき、僕の感情を刺激した。
(また、彼女に会えるだろうか……もし、会えるのだった……話がしてみたいな……彼女は一体、どんな声をしているのだろうか)
酔いが回っているのか、わずかにぼんやりとする頭で、僕はそんな叶うかもわからない望みを密かに抱いていた……。
*
「しばらくここでお待ちくださいませ」
数日して、僕はまた当主の屋敷へと足を運んだのだが、残念ながら彼は屋敷を留守にしているようで、使用人に待つように言われた。
案内されたのは、屋敷の敷地内にある森……実際は庭なのだが、草木が茂っているから森と言っても間違えではないような気がする。
そこのガーデンテーブルで、僕は当主がくるのを待つことになった。
「なんて、花だろうか」
庭の一角に畳三畳分の花壇がある。
僕は花に詳しくないため、そこに咲いている色とりどりの花の名前を知らない。
知らないけど、酷く目を惹かれる。
「そちらは、"バーベナ"というんです」
鈴がなるような美しい音色が耳に届いた。
それを聴いた瞬間、夢心地のようなふんわりとした感覚に襲われ、僕は振り返る。
そこにいたのは、いつか見た彼女だった。青みがかった黒髪に、上等な着物と袴。春が来たことに気づいてないような雪のような白い肌。
あぁ、遠目で見るより……暗がりでみるより……今目の前で微笑む彼女はなんと美しいのか。
「数年前に渡来してきて、彼に頼んで植えたんです」
「え、えっと……」
「その花のことです」
クスリと、無邪気な子供のように、着物で口元を隠す彼女。
胸が酷く高鳴る。笑う彼女から目が離せない。なんだこれは……今までにこんな感情を僕は抱いたことなんてない。
「少しばかり、お話相手になっていただけませんか?」
「……え、あ、はい!大丈夫です!」
「ふふっ。ありがとうございます」
勢いよく立ち上がり、被っていた帽子を抱えながらそういえば、彼女がまたクスリと笑った。なんて愛らしくて、美しい表情なんだ。
ゆっくりと近づいて来た彼女は、僕の向かいの席に腰を下ろした。
見た目は、ぱっと見僕よりも下。二十にも満たない年齢のように見える。
「以前、一度目お屋敷の外で私のことを見ていらっしゃいましたね」
「き、気づいていらっしゃいましたか……」
「はい。最近、あの方が雇っている探偵さん、ですよね」
「探偵だなんて、そんな大層なものではありません」
言葉がぎこちなく、さっきはあれだけ彼女から目を離せずにいたのに、今は目を合わせる事ができない。
痛いほどに心臓が激しく鳴り響き、うまく声や体を動かす事ができず、俯きながら彼女と会話をする。申し訳ない気持ちはあるが、今の僕にはどうすることもできない。
「改めて、私はユキといいます」
「えっと、自分は誠太郎といいます」
「誠太郎様……素敵なお名前ですね」
きっと彼女は今、目を奪われるほどに美しい笑みを浮かべているかもしれない。それを見れないのはとても残念だ。せっかくの機会なんだ、ちゃんと彼女の顔を見て、まだ知らない彼女の表情を見ながら会話がしたい。
「黙って部屋から出てきてしまったので、あの方が帰ってくるまで、お暇ならお話しませんか」
「……あ、あなたは……あの男の娘、ですか……それとも……」
言いかけた言葉を、僕はぐっと飲み込んだ。これは、一番考えたくないことだ。だって、こんなに若くて美しい女性が……。
「残念ながら、私は彼の娘でも妻でもありません。もちろん、愛人でも」
意地悪をするかのように、彼女は俺が飲み込んだ言葉を口にする。
クスクスと笑っている声が聞こえたから、もしかしたら本当に僕のことをからかってるのかもしれない。
「さぁ、俯いていないでしっかりと顔を合わせてお話をしましょう」
彼女にそう言われると、不思議と背筋が伸びて、俯いていた顔が上がり、しっかりと彼女の顔をみる。
陽の光を浴びた彼女の髪と肌。なんて神々しいんだろう……思わず僕は目を細めてしまう。
胸がざわつく。不思議だ……僕は今までこんな感情を抱いたことはない。これは、一体なんだろう……甘くて苦しい……ねぇ……君は、この感覚を知っているのかい?
「時間もありませんし、色々お話ししましょう」
僕の心の問いかけに気づくわけもなく、彼女はにっこりを笑みを浮かべる。
考えるのはやめよう。せっかくの機会なんだ……今は、彼女と話ができれば、それだけでいい……
*
「最近、いいことでもあったか?」
昼過ぎの夕方前。仕事を終えた僕は、今日も雇い主に報告しに屋敷へと向かうところだった。
一度家に帰って、着替えをしようとした時、蓮香が訪ねて来た。要件を聞くも、ただなんとなく立ち寄っただけだと。
蓮香の存在など気にせずに、僕は次々と自分を着飾っていく。
「女か?いい女なら紹介してくれ」
「お前じゃ相手にされないって」
「本当に女かよ」
腹を抱えるように笑われた。本当に失礼な奴だ。
しばらく蓮香は考えるそぶりをしながら唸り、僕の想う女性が誰なのかを考えた。
「……もしかして、例の女か?」
煽るような言葉に、僕は蓮香の方を振り返る。
ニヤニヤとした表情を浮かべる彼に対して、僕は不快感しか感じなかった。
あれから、僕と彼女は交流を深めた。
ある時はあの日のように会話をし、またある日は視線だけを交わし合う。
そんなことを繰り返すうちに、僕は思い始めた……
もっと彼女といたい
彼女のそばにいたい
僕だけを見て欲しい
彼女をあの屋敷から助けない
抱いていたこの感情の答えを、最近やっと見つけることができた。
僕は彼女に”恋”をした。
激しい恋慕。今までこんなにも感情が揺さぶられたことなんてなかった。そして、こんなにも幸福で心が満たされることもなかった。
「あぁ、それはまずいやつだな」
きっと僕は今、居合わせそうな笑顔を浮かべながら身支度をしていただろう。だけど、そんな僕の様子をじっと見ていた蓮香はふいにそんな言葉を口にした。
それは、今の僕とは反対と言っていいものだった。
僕は彼に「何が」と尋ねると、彼は珍しく呆れたような表情を浮かべていた。
今の僕とは対照的な表情だ。
「その感情はまずい。別に恋することが悪いことじゃない。でもお前のそれは、恋は恋でもあまりいい類のものじゃない」
「回りくどいことを言うな。大体、僕が誰に何を抱こうが君には関係ないだろ」
「華族が嫌いなら、華族の人間に入れ込みすぎないほうがいい。俺はお前のためを思って言ってるんだ」
「確かに僕は華族が嫌いだ。でも、彼女は関係ない」
もう一度身だしなみを整えて、僕はテーブルにおいていた帽子を被り、玄関へと向かった。
「それは傲慢であり、強欲。すなわち、独占欲だ」
扉を開ける手を止め、僕はもう一度蓮香の方を向く。いつもになく真剣な目。その表情がより一層言葉に対する重みを深くさせる。だけど僕は……
「お前みたいに他に目移りするよりいいだろ。出るときに戸締りしてくれよ。鍵はポストに入れておいてくれ」
振り返ることなく、僕は家を出た。
足取りは軽く、心は少しだけウキウキ。だけど、蓮香の言葉のせいなのか、わずかにもやもやとした感覚もする。
幸福な感情の中にある雑味に、僕は奥歯を噛み締める……
「以上が今回の報告です」
「なるほど……ご苦労だった。引き続き頼む」
家を出た後、いつものように依頼主の屋敷に足を運んだ僕。
敷居を跨ぐ前にいつもの部屋を見るが、そこ彼女の姿はなく、依頼主が留守ではなかったので案内されたのは応接室。今日は彼女には会えなさそうだ。
「これは報酬金。そしてこっちは追加の金だ。次の報告次第では、また金を出そう」
テーブルに置かれた布袋。いつも報酬金が入っている袋だ。今回もまたずいぶん奮発したな……まっ、これだけあれば暫く不自由はしないだろう。
そんなことを思いながらゆっくりと袋に手を伸ばす。
「そういえば、随分ユキと仲がいいみたいだな」
依頼主のその言葉に僕の手が止まる。
ゆっくりと顔を上げて相手の顔を見れば、なぜか彼は窓の外を眺めている。
庭の方……あの花……バーベナでも見ているのか……。
「悪いことは言わん。ユキには関わらないほうがいい」
「……あなたには関係ないことだ。彼女とのことは、依頼には関係ないのだから」
「……あれは、知人から預かった子だ」
「知人?」
「あぁ……あの娘は、いろいろなことを知りすぎている。知人のことも、過去のことも……」
そう言って、男はまた庭の方に視線を向けた。
知人から預かった子……その知人の娘ということだろうか。だからと言って、どうして部屋に閉じ込める必要がある。この男の発言には違和感しかない。というよりも、何かを隠している。
「どう意味、ですか」
わずかに震える声でそう尋ねれば、男は視線だけを僕に向けた。その目はまるで「わかるだろ」と言っているようだった。
そうだ。僕の抱いているこれはきっと一方的な感情だ。彼女にとって僕は、ただの話し相手にすぎない。
華族の家に住んでいるんだ、彼女もきっと華族。
どんなに手の届く距離で話したところで、僕と彼女の、もっと別の何か……その距離が縮まることはない。
「また報告の際に伺います……」
金を受け取り、隣に置いていた帽子を深く被って屋敷を出た。
何も口にしてないのに、口の中に苦味を感じて顔を歪める。廊下を歩く足は少し早く、すぐにでもこの屋敷から出たいという気持ちに蝕まわれる。
屋敷を出て、僕はまた彼女がいつも顔を覗かせている部屋を見つめた。
そこに、彼女の姿があった。
嬉しくて、さっきまでの暗い感情が一気に消え去った。
だけど、彼女がどこか寂しそうな顔をしながらそのままカーテンをしめて部屋の奥に消えていった。
今まで見たことのない彼女の表情に、僕の心はひどく擦り切れそうだった。
「どうして君が、そんな顔をするんだ……」
*
あれから数日。僕は仕事で色々な場所に足を運び、仕事をこなしていた。
今日は調べ物で、少し大きめの図書館に訪れていた。ここには過去の新聞の切り抜きや、手記の一部なども一般的に公開されている珍しい場所。平民でも色々なことを知ることができるが、華族も出入りする為、それ相当の身だしなみを整えないといけない。
だから、今日はわざわざ報告の時によく来ている服を身にまとっている。あぁ、早く脱ぎたい。
「最近見合いした相手はどうだった?」
「見た目はいいが、見た目だけだ」
近くでは華族が雑談をしている。本当に耳障りな声だ。内容は基本的に他の華族の悪口。せいぜい華族同士で足を引っ張りあえ。
「そういえば、例の《禁書》は今、藤森の家にいるんだよな」
「おい!こんなとこでそんな話をするな」
先ほど見合いをしたという男が何気無い発言をした瞬間、もう一人の男が慌てて止めた。随分と人に知られたくない内容のようだ。もしかしたら、面白い情報を口にするかもしれない。聞き耳をたてるか。
「誰も聞いちゃいないさ。平日は人も少ないしな」
「お前な……親父に怒られるぞ」
「そうだな。親父もその禁書に、結婚する前に色々とやばいことを知られたみたいだからな」
雑談だろうけど、あまり楽しい話じゃないみたいだな。その禁書というのは、随分と危険なものらしい。
話を聞くに、その禁書というのは華族たちの間で呼ばれているとある女性のあだ名らしい。大正時代からずっと、色々な華族の家に引き取られ、そこで知ってはいけない色々なことを知ってしまっている、と。
そんな理由から、その女性はそう呼ばれているらしい。
(藤森って、今の依頼主だよな……女性って……)
僕の頭の中に浮かんだのは、彼女の姿だった。
いや、でもそんなことはありえない。だって、話の中でその女性は大正時代からずっと居るって……彼女の見た目は、幼く……そんな事はあり得ない。
「まぁ親父たちは怖がってるけど、見た目はすげー美人だぞ」
「なんだ、見たことがあるのか?」
「あぁ。親父の付き添いで藤森のに行った時にちょろっとな。遠目でもわかるぐらい、印象的な鴉色の髪だった」
気づけば、僕はその場から離れていた。そして、気づけば自分の部屋の中にいた。
もう何が何だかわからない。頭の中も心の中もぐちゃぐちゃで……
「仕事、しなくちゃ……」
*
数日後、僕はいつものように依頼主に報告をした。
彼女のことは話題に出さず、いつものように金を受け取って、次の依頼を受ける。
用事を済ませれば、案内された応接室から出て、一人で屋敷を出ようとした。
「暗い顔をしていますね」
不意に聞こえた声は、久々に聴くものだ。
耳を塞ぎたくなるような美しい声。
目を塞ぎたくなるような魅力的な姿。
あぁ、会いたくなかった。会ってしまったら、僕の心は酷く酷く荒れてしまう。
「よければ、私の部屋にきてください。お茶をご用意します」
「……そんなことしたら、君が怒られるだろ」
「大丈夫です。あの人は、私に文句など言いませんから」
にっこりと笑みを浮かべて、彼女はそのまま廊下を歩いて行く。
すぐ横には、1Fに行くための階段がある。そこを降りれば、すぐにでも帰ることができる。
「来ないのですか?」
でも、そんなことできる筈もない。
久々に聞く彼女の声はひどく魅力的で、僕はそれに逆らうことができない……僕はそのまま彼女の後をついていき、彼女の部屋に足を運んだ。
僕と彼女、二人っきりの空間……
「どうぞ」
テーブルに用意されたのはお酒ではなく紅茶だった。
飲むのはいつぶりだろう……蓮香には酒を。依頼主には珈琲を出されるため、なんだかもう随分と飲んでない気がする。
「美味しい」
一口飲んだだけで、なんとも心が落ちつき、体の中の疲れが消えて行くような気がした。
「気に入っていただけたようで良かったです。お代わりもありますから、遠慮しないでくださいね」
彼女とのお茶会は、本当に久々だ。感覚的に、初めて彼女と言葉を交わしたときと似ている気がする。顔を見ることができなくて、少しだけ声が上ずって……。
彼女との会話は何気ないものだ。
仕事はどうだったとか、庭の花がもう少しで散ってしまうとか、おすすめの本のこととか、そんな話し。
ちらりと視線を向ければ、彼女も視線を下に向けている。なんていうか、カップの中……紅茶に写っている自分を見つめてるような……なんとも切ない表情。そんな姿もひどく魅力的だ。
「あの人とは、飲み物の趣味が合わないんです」
「え……」
「食べ物も、家具も……唯一あうのは、花の趣味だけです」
カップをコースターに乗せ、気品のある女性のような振る舞いをしながら、彼女はにっこりと笑みを浮かべる。
「今の私は、あの人と貴方しか、男性を知りません」
普通なら、その言葉の意味を理解することはないだろう。だけど僕は思う……彼女はもしかしたら、外の世界を見たいと思っているんじゃないか……この屋敷だけじゃなくて、もっといろんなものを見たいんじゃないのか……
もしそうであれば、彼女をここから連れ出したい。彼女が見たことないものを見せてあげたい……ずっと、ずっと……このまま一緒にいたい……いつかと同じ、激しい感情が込み上がってくる。
「そろそろお時間ですね」
空になったカップを置き、椅子から立ち上がった彼女は、僕のそばまでくるとおずおずと手を差し出した。
その手は、骨のように白くて細かった……なんていうか、一言でいえば病弱な手だ。
可哀想。なんて言葉が頭に浮かび、僕はその手に少しだけ触れた。握ることはできなかったけど、それだけで満足だった。
見た目通りの冷たい肌だった。でも、僕の体はとても暑くなった。
「お見送りします」
「いや、いいよ。ここで失礼するよ」
帽子を軽く脱いで、簡単に会釈をして僕は部屋を出る。
最初はゆっくり。だけどどんどん足は早くなり、屋敷を出ることには僕は駆け出していた。
あぁ彼女の肌に触れた。初めて触れた。もしあの時手を握っていたら、彼女はどんな表情を浮かべただろうか。もしあのまま彼女を連れ出したらどうなっていただろう。いや、それ以前にもしあのまま彼女を拘束して、もしそのまま欲望のままに行為に及んでいたら……
もしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもしもし……
頭の中に数多くの妄想が広がる。
数ある“もし”。その中の一つでも現実になったら、どんな結果が待っているのか。
あぁ、神様、”もし”僕の願いを叶えてくださるのであれば、僕は彼女とずっと一緒にいたいです……。
*
「藤森家からの依頼をもう受けるな」
あれから数日が経った日だ。この日は休みに似たような日で、彼からの依頼報告をする予定の日から少し余裕ができたからのんびりしていた。
そんな日に蓮香がやってきて、部屋に入るなりそんなことを言ってきた。
「なんだよ突然」
表情はいつものような飄々としたものではなく、真剣……というよりも焦りのようなものがあった。
「あまりいい話じゃないんだけどな……どうやらあの男、一部の奴らに随分と恨まれているらしい」
「まぁ、意外でもないだろ。華族なんて、みんなそんなものだ」
「確かにそうだが、そいつらの中には随分と暴力的な手段に訴えようとしている連中もいるらしい」
「………なるほど。お前が何を言いたいのかわかった」
そう言いながら、僕は机の上に置いていた本に手を伸ばし、読書を始めた。
彼女が勧めてくれた、外国の小説。悲劇だが、読み始めると面白くて続きが気になってしまう。
「本当にわかってるのかよ!」
ガシッ!と僕の両肩を掴む蓮香。
わかっている。つまり、あの依頼主に関われば、僕がそいつらに狙われるかもしれない。だから、もう依頼を受けるな。そういうことだ。
だけど、僕には関係ない話だ。
「僕の生活はあいつからの依頼が必要なんだよ。他の奴が、あいつみたいな依頼を受けてくれると思うか?」
いや、違うな。僕があの男からの依頼を受けるのは、自分が誇れるものが欲しいからだ。
探偵みたいな真似事は、今の僕にとっては誇れるもの。もし依頼をやめれば僕に誇れるものなんてなくなる。だって、それを評価してくれる相手はあいつしかいないんだから。
「うちで雇う!探偵の真似事じゃなくても、使用人でもなんでも」
「悪いが、その誘いは受けれない」
僕にとって蓮香は、あくまで友人だ。雇い主という立場にはなりたくない。
それに、その恨みを持ってる奴らが、家を出入りしている僕を知らないわけがない。つまりもう手遅れだ。だったら、壊れるまで、僕はいつも通りの生活を送る。
それに、あの家を訪れるのは仕事だけが理由じゃない。
あそこには彼女がいる。
仕事は大事。だけど今はそれが二の次になっていて、ただ彼女に会いたいがために、僕はあいつから仕事を受けている。
あの家でしか、彼女には会えないんだから。
「……あいつには、話すのか?」
「それは僕の依頼内容に含まれてない。放っておけば大変なことにはなるだろうけど、僕には関係ないよ」
ゆっくりと僕の肩から蓮香の両手が離れていく。
僕は気にせず読書を始める。
あの男もバカじゃない。自分が狙われていることぐらいわかってるだろう。
そのうち襲われるかも知れない。
でも……じゃあ彼女はどうなる。部屋に閉じ込められている彼女は一体どうなるのか……まさか殺される?それとも、そいつらに連れていかれる?
あの男の子とはどうでもいい。だけど、あいつがいなくなるということは彼女にはもう会えなくなる……。
彼女が、僕の届かないところに……離れていくってこと?
もう彼女の姿も、声も、表情も……全部全部全部全部全部……なくなるってことか?
「誠太郎?」
嫌だ……それは嫌だ……彼女が遠くに行くなんて、もう視線を交わすことも、会話をすることも、彼女に触れることもできないなんて……
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ
「おい!誠太郎」
蓮香の声を無視して、アパートの扉を勢いよく開いて無我夢中で走り出す。
不安が、恐怖が、僕の体を支配していく。
墨のような、ドロドロしたものが僕の体を満たしていくような感覚。
不快で、不安で……今にでも自分の体を切り裂きたい気分になる。
遠く、煙が立ち込めているのがみえた。
よく足を運ぶ道のり。
その煙の先は、僕の目的地だった……
燃え上がる炎は、屋敷全てを包み込む。
ここに向かう途中、数人の男とすれ違った。
すれ違いざま、男たちはニヤリと笑みを浮かべていた。恐らく、放火の犯人だろう。
美しい庭も、炎で燃やされていく。きっと、あの花も今頃は……
「行かないと……」
僕は迷わず炎に飛び込んで、彼女を探した。
もう火の手は随分と回っている。数名の使用人が膝をついて咳き込んでいたり、中にはすでに倒れている人もいた。だけど僕は彼らに目もくれず、彼女の部屋に飛びこんだ。
「……あら、こんばんは」
こんな地獄みたいな状況なのに、彼女は窓辺の椅子に腰掛けて、炎でボロボロになっている僕に笑顔を向ける。
こんな時でも、君はどうしてそんなに美しいのか……
込み上がる感情を必死に抑えながら、僕は彼女に近づいて手を差し出した。
————— 逃げよう。ここから
簡単に、そう口にできたらどれだけ楽だろうか。
だけど、僕はそれが言えない。ただ手を差し出して、彼女がその手を取ってくれることを望むだけ。
この手の意味を、彼女に伝えることはできなかった。
「あの人は、死んだのですか?」
「……死体は見ていない。だけど、きっともう……」
「そうですか……ではきっと、新しい方がここに向かっているでしょう」
その発言を、彼女は僕が事情を知っている前提で話しているのか、ただ意味深に口にしているのかはわからない。
本当にわからない。彼女の考えていることが、彼女の求めていることが、僕にはわからない。
「貴方とは、きっとここでお別れでしょう」
それが嫌だから、僕はここにきた。そして、こうやって彼女に手を差し伸べている。
僕の気持ちは……彼女に対する想いは、口には出してはいないけど、しっかりと行動で示している。
このまま彼女に逃げるように言えば、もう二度と会うことはないだろう。だけど僕はそれを望んでない。それはきっと、彼女もわかってくれていると思う。
知りたい……口に出さなくてもいいから、彼女の気持ちを。
「貴女は、どうしたいんですか?」
隔離されることを受け入れ続けているけど、貴女は本当にそれを望んでいるのか。
貴女が誰でもいい……どんな存在でも構わない。周りが何と言ようとも、僕は貴女と一緒にいたい。
別に死を望むのでればそれでも構わない。でももし許してくれるというのであれば、一緒に死なせてほしい。
「貴女の望みを教えてください……」
彼女はしばし俯いた。僕はいつまでも待つつもりだけど、周りはそれを許してはくれない。
どんどん屋敷は崩落していき、数十センチ先の床に、天井が落ちてきたりと悲惨だ。
悲惨だけど、何だろう……言葉では言い表せないけど、この瞬間がとても美しいものに感じる。
彼女の手が伸びてくる。それはとてもゆっくりに感じて、ひどく胸がドキドキする。あと数センチ……あと数センチ……
彼女の指先が僕の指に触れた。その瞬間に、高ぶった感情は限界を迎え、彼女の手首を掴んでそのまま自分に引き寄せた。
初めて感じる彼女という存在。あぁ、思っていたよりも体は細いんだな。指先からも感じていたけど、彼女自身もとても冷たい。なんて弱々しいんだ……。
「さぁ、一緒に行こう」
ずっと、誇れる何かが欲しかった。何もない自分がちゃんとした自分になるために……でももうどうでもいい……
何もない僕。そんな僕に何ができるかって言われたら、はっきり言って何もできないって答える。それでも、彼女に何かしてあげたい。
ねぇ、君のことを教えて……そう、全部だよ。
君の過去も、君が望むことも全部。
何もない僕にできることなんて限られてるけど、君のためなら何だってするよ。
迷惑?そんなわけないでしょ。
僕はただ君とずっと一緒にいたいだけ。こうやって連れ出すのだって、僕の我儘だ。でも、君はその我儘を受け入れてくれた。すごく嬉しいよ。
さて、これからどうしよう。どこか遠くの街で、二人でのんびりす暮らすっていうのもいいね。
そうだ、商売とかしてみるかい?
どんなことがしたい?僕はね、君に似合うものだけを売るお店がいいなぁ。
彼女の手首を掴み、楽しそうに未来の話をする僕。
そんな僕の様子を見上げながら彼女は笑みを浮かべる。だけどその笑みはそこか悲しげな表情をしていた。
「清太郎様」
「ん、なんだい?」
「私を、愛していますか?」
「……何を言ってるんだい。会いたり前じゃないか」
きっと僕は、今幸せそうな笑みを浮かべているだろう。
愛している?当然だろう。僕は君を一目見た時から恋に落ちていたのだから。
蓮香、心配しないでくれ。僕は大丈夫だよ。これから僕は、彼女と二人で幸せになるから。
アァ……マタヒトリ、ハナニミイラレタカ……
遠くも、近くもない距離で、誰かがそう口にした気がする。
*
「こうして彼は、遠くの街で彼女と幸せに暮らしましたとさ」
めでたしめでたし。そんな言葉で締めくくり、ユキさんは俺に笑みを浮かべる。
普通ならただの、先祖の昔話を聞いたってだけ。だけど、それを語っているのが、その時代に生きていた老人でもなく、記された書籍でもない。
目の前にいる、若い女性……話の中に出てきた女性と同じ名前の、同じ容姿の彼女……
「いかがでしたか、彼の物語は」
「……町を出る前に、いい話が聞けてよかったです」
「それはよかったです」
無邪気な笑み。あぁ、曾祖父が心奪われたのも良くわかる。その笑顔は、あまりにも相手を魅了する魔力が含まれすぎている。
「じゃあユキさんは、俺の曾祖母って事ですか?」
「その質問は、わかった上で聞かれているのですか?それとも?」
俺を試すように、さっきの笑顔とは打って変わって、ニヤニヤとこちらを伺うような笑みを浮かべている。
からかわれているなんて一目でわかる。僅かに溜息を零しながら、俺は曽祖父の墓に目を向けた。
「俺の曽祖母の名前は”アカネ”でした。ユキという名前ではありません」
そう。俺の曽祖母は彼女じゃない。曽祖母の姿は古い写真で見たことがある。彼女とは反対で単発の髪の毛。昔だから色は付いていないが、僅かに色が白に近かったため、もしかしたら茶色だったのかもしれない。目の形も、彼女のように丸めではなく、少しだけ垂れていた。
「えぇ……私は貴方の曽祖母ではありません」
桜舞う墓地。ユキさんはどこか切なげに夜空に浮かぶ月を眺め、そのまま俺の曾祖父、誠太郎の名が刻まれている石碑に目線を向けた。
「結婚、しなかったんですか?好きだったんですよね?」
「彼は、そうですね……」
「え……好きだったから曾祖父の手をとったんですよね?」
どういう意味かわからない俺は、その理由を彼女に尋ねた。
彼女は苦笑いを浮かべながら話してくれた。
曾祖父は、ユキさんの知識を借りて商売を成功させた。
お金も入り、多くの人の目に誠太郎は止まるようになり、同時に彼女にも視線が向けられた。
美しい容姿の彼女は男たちの視線を浴びる。
そんな状態に、彼女のことが大好きな曾祖父はいい気分じゃなかった。
《愛情》は《束縛》へと変わり、今までユキさんを隔離した男たちと同じように、曽祖父もまた、ユキさんを部屋に閉じ込めた。
そもそも彼女は年を取らない。きっと何十年も経てば、普通の人はその違和感に気づく。それも踏まえて、曽祖父はユキさんを“外に出すべきではない”とそう思ったのだ。きっとこれは、今までの華族も同じ気持ちだったのかもしれない。
「私は途中で家を抜け出して、彼のもとを去りました。それからは新しいお嫁さん……貴方の曽祖母と結婚して、家を繁栄させたんです」
その話は、俺が出て行った家の成り立ち。
だけど、俺はそんなことはどうでもいいのだ。いや、答えなんて初めから出ていたのだ。
彼女は、最初から曽祖父のことを愛してなんていない。そうだ、話の中でも彼女が彼に”好き”や”愛してる”なんて言葉を口にしてなんていない。
つまりは、曾祖父の激しい恋慕による一方的な恋心。いや、そんな素敵なものじゃない。
酷くドロドロとした、愛という皮を被った”独占欲”だ。
彼女は自ら曾祖父の元を離れ、だけどここにいるということはずっと彼のことを見守り続けてはいたんだろう。きっとその理由は、彼をそんな風にしてしまったことへの罪悪感。
「藤森の家を出なかったのは、彼が清太郎様のようにはならなかったことが大きいですね。色々と趣味が合わないおかげで、彼が私に惹かれることもありませんでしたし」
彼女は優しく曾祖父の墓石を撫でる。
愛していなかった。本当にそうだろうか。そう疑問を抱きたくなるほど彼女は曾祖父に執着しているようにも見える。
「……この町を、出られるのですよね」
「え、あぁ……そのつもり」
突然話が切り替わり、そう尋ねられて少しばかり動揺してしまった。
「でしたら……」
一歩、俺に近づいた彼女は、微笑みを浮かべながらそっと、手を差し出してきた。
「私も、連れて行ってはくれませんか?」
「え……」
その姿はなんとも絵になるというか……何時間も見ていたくなるような美しさと儚さがある。
あぁこういう感じか、曾祖父が彼女に惹かれる感覚は。
「もうあの家には未練はないのでしょう?戻る気はない、んですよね」
「そ、そうだけど……」
「でしたら、私を外に連れ出してください。もう何百年と生きてきましたが、ずっと外に憧れるばかり。いざ出ても、何も知らない私はどうするべきかわからない」
あぁ彼女の言いたことがなんとなくわかる。そして、彼女はどこか俺に似ている。
——— 楽になりたい
「もちろん、貴方に想い人ができれば私は貴方の元を去ります」
「それまでは?」
「貴方のいく先々に、私を連れ回してください」
にっこりと、ずっと同じように笑顔を浮かべている。
だけど、伸ばしている手は少しだけ震えていた。
ずっと伸ばしているから単純に限界を迎えてるだけなのか、それとも……
「どう、されますか?」
伸ばされた手。俺はそれをじっと見つめ、ゆっくりと自分の手を出す。
残り数センチ……俺はその骨のように白く、細い手に触れて……
【完】