広辞苑の忠心
この家には40匹ほどの猫がいる。
そうとしか思えないほどに物が散らばり、泥のようなホコリにまみれ、刺さっているべきものは抜け落ち、立っているべきものは倒れていた。
家主は下半身をコタツに突っ込んだまま、天板に本をいっぱいに広げて眠り、その周囲にも本が城壁のように積もっている。家主は白髪の老人であり、度の強い眼鏡をかけたまま、何かに打ちのめされたように眠っていた。
「もし、起きてくださいませ」
老人が顔を上げる、そこには広辞苑が立てられており、側面から枝のような紙縒りのようなものを伸ばし、それを手足にして立っている。
「何だお前は、私の辞書じゃないか、なぜ立って動いている」
「知りませんか、広辞苑は動けるんですよ、新明解には無理な芸当です」
「どうやら夢を見ているようだ、昨日は焼酎を一升空けたからな」
老人を破壊的な頭痛が襲う、頭の側面を手掌でどんどんと打ち付ける。
「飲み過ぎですよ」
「いらんお世話だ、それより急に起き上がって何の用だ」
「ええ、あなたの死期が近いようです」
「そうか」
白髪の老人は静かに答える。眼鏡を拭いてから掛け直すと、やはり広辞苑に手足が生えている。
「驚かないのですね」
「老人だからな、そのぐらいの覚悟は持っている。それに、書物の前でうろたえていては教授はやってられん」
「あなたは教授だったのですか」
「そうだ、東京大学の教授を長年務めた。思えばずっとこの部屋だったな。三浪して東大に入ったが、受験勉強に集中するために借りたこの安アパートが終の棲家になるとはな」
「ずっとここにお住まいだったのですか」
「うむ、東大に受かってから修士課程に進み、准教授、教授と順調に出世していく間も、このカビの生えたようなアパートに住み続けたよ。もう50年にもなる。家事もまったく身につかず、愛する者も持たず、学問以外は何もしてこなかった人生だった」
「ご立派なことだと思います」
「しかし、遂にお迎えなのだな、思えばこのアパート以外は何も思い出らしいものも残っておらん、情けない話だ」
老人は述懐のように長い吐息を漏らし、ふっと肩の力を抜く。
「しかし年は取ったが、これといって大病を持っていたわけではないのだが、わしの死因は何だ」
「ええ、正確にはあなたはまだ死と生の境目にいるのです。死因は急性アルコール中毒ですね」
「急性アルコール中毒か、焼酎を一升瓶丸ごと開けたからな、無茶をしたものだ、幻覚も見えるはずだな」
「そうです、死と生の境目では、不思議なものを見るものですよ」
はて、と老人は顎に手を当てて考える。
「しかし、わしは何故そんなに飲んだのだ」
「どうやら記憶が混乱しているようですね。死の淵ではよくあることです」
広辞苑は、伝統ある書物らしき威厳を見せ、噛んで含めるようにゆっくりと言う。
「よく思い出してください、死の淵では人間の意識や記憶というのは錯綜するのです」
「錯綜だと」
「そうです、自己が認識する自己、自己の到達したいと思う自己、あるいは時空の順列や因果を無視した自己、そんなものが混ざりあうのです」
広辞苑はその紙縒りのような腕で、老人を指し示す。
「よく考えるのです。東大教授を務めるような人間が、いかに自堕落とは言え安アパートに何十年も住み続けるものでしょうか。そしてこんな安アパートがそもそも50年も持つでしょうか。老人が焼酎を一晩で一升も開けるものでしょうか。なぜ貴方はこのアパート以外の記憶が無いのでしょうか」
老人ははたと思い至り、その瞬間、われ鐘のような頭痛が響き。
あまりの痛みに景色が歪み、白いヒゲが残らず抜け落ち、白髪は黒く染まり、老人だった体は20代の青年に変わると同時にコタツの天板に倒れ伏す。
そして将来東大教授になる可能性が無くもない三浪中の受験生は、とりあえず震える手で救急車を呼んだ。