第四話:告白
午前八時ジャスト。
校舎の裏手、雑草が生い茂り、日当たりも良くない。
――こんなところに、よく女の子を呼び出すものね。
草いきれに顔をしかめそうになりながら、乾美咲は、心の中で吐き捨てた。
視線を正面に向ける。無論、先ほどからずっと感じている不快感はおくびにも出さない。
一人の男子生徒が、そこに立っていた。
髪も染めておらず、アクセサリーの類いも身につけていない、そういうものに頼らずとも自分は十分に色男だ、という様子では無く、単純に、今までそういう事に興味が無かった、というだけだろう。校舎の裏手の、こんなところに呼び出すという時代錯誤なやり方が、『そういう事』に疎いという何よりの証拠だ。
美咲は、じっとその男子を見る。
緊張しているらしい、胸に手をあて、何度も何度も深呼吸を繰り返している――男子がこういう場面で、何を言うつもりなのか、だいたいの想像はつく。だけど……
――私は生憎、興味が無いのよ。
心の中で、美咲はもう一度吐き捨てた。
「あ あの……乾、さん――」
おずおずと、その男子生徒が口を開く。
――ほら来た。
美咲は、心の中で鼻を鳴らした。
「あの、俺……」
美咲は何も言わない。ややあって――
「俺、貴方の事が好きです――」
「……」
その言葉に、美咲は軽く心の中でため息をついた。突然の告白に驚いたり、ときめいたり、頬を赤らめたり、この男子生徒が期待するような反応は、何一つ出来なかった。
理由は、ただ一つ――
美咲は、男、という存在が嫌いだった。
あんな奴らは、皆同じだ――自分の様な少女を、下らない性的な欲望のはけ口としか思っていない――
美咲の父も、そうだった。しょっちゅう酒を飲んでは自分と母に暴力を振るい、最後には決まって、自分の見ている目の前で、嫌がる母を無理矢理犯す――その父の目が、ここ最近は自分にも向けられている事に、美咲は気づいていた、母が嫌がりながらも父に殴られ、蹴られ、犯されていたのは多分、もしも自分が父を拒絶すれば、父の欲望が、今度は自分に向けられると気づいていたからだろう。
だけど――母ももう、限界だった。
ある日の朝、母は姿を消した、涙でぐしゃぐしゃに濡れた、恐らくは美咲にあてて書いたと思われる手紙にはたったの一言、『ごめんなさい』の文字だけが書かれていた。
「……」
美咲は、ゆっくりと目を開ける。
そうして、母は自分の前から姿を消した。父は荒れに荒れ、自分に暴力を振るい、性の捌け口に利用しようとした――だけどもう美咲は、子供じゃ無かった。
父をはっきりと拒絶し、それでもしつこい時には、父と同じやり方で黙らせた――アル中で、ろくに身体を動かせない中年の男など、どうとでもなった。
そして、高校に入った。勿論勉強の為だ。早く就職して、あんな家を出たい――そう思っていたからだ。それから二年、父は相変わらずだったけれど、美咲には最近関わろうとしなくなっていた、暴力は無くなったけれど、家の中は火が消えた様に静かになっていた。
そんな家の中にいるのに退屈していたところ、クラスの男子に呼び出され、来てみれば『これ』だ。
美咲は、聞こえない様にため息をついた――
自分は、男になんか興味は無い。
自分が興味があるのは――
自分を捨てず、愛してくれる、明るくて強い『女性』だけだ。
そう――
自分を産んだ『だけ』のあの女とは違う。最後まで――自分の側にいてくれる。
そんな女性――それだけが、今の美咲が望むものだ。
そして……
目の前の男子生徒を見る。コイツは、そのいずれの条件も満たしていない、たったの一言の告白の為に何分もかかって、それだけでもう既に『無い』という事に気がつかないのだから、おめでたい奴だ。
美咲は口を開け、その男子に、はっきりとそう言ってやろうと思った――
だが――
それよりも早く――
「う あ……」
突如として――美咲のものでも、目の前の男子のものでも無い、地の底から響く様な不気味な呻き声が、辺りに響いた。
「……林、先生?」
男子生徒が、呆然とした様子で呟く。その視線は、美咲の後ろに向けられていた。
美咲も、黙ったまま背後を振り返る。
ジャージ姿の、中年の男が、グラウンドへと通じる道に立っていた、陽光が差し込まないせいで、その顔ははっきりと見えないが、間違い無くこの学園の――
そうだ――
美咲は思い出す。
ついさっき――ここに来る時に見かけた教師だ、グラウンドで活動していた運動部の顧問の教師――
そいつが、ゆっくりとした足取りで、こちらに歩み寄ってくる。
その足取りは、まるで酔っ払いの様におぼつかない――何処か具合でも悪いのだろうか?
「先生、何してるんですか?」
さすがに異様な雰囲気を感じ取ったのだろう、先の男子生徒が、美咲を庇う様に前に出て問いかける。
「うう……あ……」
その問いにも、その教師は答えない。呻きながら、ゆっくり、ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。
「……っ」
そこで美咲は、思わず息を呑みそうになった。
――臭い。
さっきから辺りに漂う草いきれよりも、さらに強烈な臭気――
まるで……
まるで、肉が腐ったような強烈な悪臭が、美咲の鼻をついた。
一体……
一体、これは――
何なんだ?
解らない――
だけど――
美咲は、じっと正面を見た。
間違い無い――
この耐えがたい悪臭は、あの教師の全身から漂って来ている。
「――っ」
理解した瞬間、美咲の行動は早かった。
素早く足下に視線を走らせる。
拳大の石が、すぐ近くに落ちている、美咲はそれをさっと拾い上げた。視線を右へと向ける、すぐ横には校舎内へと続く窓がある、今はぴったりと閉められ、鍵もかけられている、だが……
手にした石を握りしめる。
後は――
正面に視線を向ける。
この教師――
否。
教師『だったもの』とでも言えば良いのだろうか?
とにかく――コイツの気を逸らせれば……
その方法は――すぐに思いついた。
美咲は、石を握っていない方の手を、スカートの裾で軽く拭い、目の前の男子生徒の肩に、そっと触れる。
「っ!?」
そいつが、ちょっとびくっ、としながら振り返る。その頬が少しだけ赤らんでいた――
美咲はその顔に、にっこりと笑いかける。
――ほらほら。
心の中で言ってやる。
――せいぜい良く見て、目に焼き付けておくのね。何せ――
「……」
男子生徒が、何かを言いかける。だが美咲はそれを聞かずに、心の中で告げる。
――何せこれが、貴方の人生で最後に見る、女の子の笑顔なんだから、さ。
そして……
「私の事、守ってね?」
優しく言い放ち――
美咲はそのまま、その男子生徒の肩を押し、教師の方へと押し出す。
「えっ!? あっ……」
たたらを踏みながら、その教師のすぐ前まで進み出る男子生徒――
美咲はそのまま、くるりと窓の方を振り返り、手にした石を振り上げる。
窓ガラスに、思い切り石を叩きつける、ガシャン、と音がして、ガラスが割れ、腕一本分程度は通せそうな穴が開いた、そこから素早く手を差し込んで、窓の鍵を外から解錠し、がらりと窓を開ける。
「い 乾さ――う うわっ!?」
男子生徒の呼びかける声、だが美咲は振り返らず、そのまま窓枠に足をかけて上る。
「ま 待って、待ってくれよ!! うっ……!!」
男子生徒の呻き声、だが美咲は気にせずに校舎の中に入り、床の上にすたん、と飛び降りる。
「うっ、い 痛い、痛い、痛いよ先生!! や 止めてくれよ!!」
男子生徒の声――美咲はそこでようやく、開いたままの窓からそっと身を乗り出してその男子の方を見る。
あの教師が、抱きつくように男子生徒を羽交い締めにし、その首筋に噛みついていた。
「い 痛い!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いーっ!!」
男子生徒が叫ぶ。
だが教師は、そいつから離れようとしない、噛みつかれている男子も、さっきから藻掻いたり、そいつの腹を肘で殴りつけたり、足を踏んだりしているのに、その教師は、痛みを感じていないのか、ピクリとも動かず――そればかりか、ますます深く歯を突き立て……
そして……
ぶぢぃっ!!
と――
肉が千切れる嫌な音が、辺りに響く――
「うっ……が……!!」
その男子が呻きながら、その場に倒れる。
「い 痛てえ……痛てえよ……」
食いちぎられた首筋を手で押さえながら、その男子が小さい声で言う。
だけど……
「い 痛て……痛て……え……」
その声は、徐々に――
徐々に、小さくなっていき――
やがて……
ごぼり……
その男子の口から、赤い泡が吐き出され――そして……
その男子は、やがて、完全に――
完全に、動きを止めた――
「ひっ……」
美咲は、後ずさった。
あの男子が死んだ事なんか、ほとんど何も感じない――だが……
だが、あの教師は、まだそこに立っているのだ――校舎の中に入った美咲に気がついていない、という事はあるまい。
逃げなきゃ。
美咲は、心の中で呟く。
左右に視線を向ける。
校舎の廊下――確かここは、昇降口の近くだったはずだ――走ればすぐにグラウンドに出られる。とにかく校舎の中にいたら危険だ――
否。
あるいは――
学校の敷地内にすら、既に安全地帯は無いかも知れない。
とにかく、この場を離れよう――
自分に言い聞かせ、後ずさりした直後だった――
「う……っ」
「!?」
美咲の耳に届いたのは、聞き覚えのある声。
あの男子生徒だ。まさか――まだ生きているのか?
男子生徒の方を見る。
そして……見た。
美咲は、見た――
はっきりと――
首筋の肉を食いちぎられ、完全に事切れていたはずの男子生徒――
そいつが――
そいつが、ゆっくりと――
ゆっくりと、身を起こしていた。
美咲は黙ったまま、それを見ていた――
明らかに――その動きはおかしい――
あの教師と――その動きは、とてもよく似ていた。
「……まさか……」
美咲の胸の中に、不吉な予感が去来する。
まさか――
まさか――!?
ややあって――
その男子生徒が、ゆらり、と立ち上がり――
美咲の方を――振り向いた。
死体の様な土気色の肌。
眼球の無い、白目の部分だけの淀んだ目。
だらしなく開かれた口。
まるでホラー映画のゾンビのような姿になった男子が、じっと美咲を見ていた――
そして……
そいつが、ゆっくりと――
ゆっくりと、美咲に歩み寄ってくる。
ばっ、と――
美咲は窓も閉めず、踵を返して走り出した。
大して思い入れのある学校では無いけど、それでも二年間も通っていれば、校内の構造くらいは把握している、左右に伸びた廊下を右に走れば、すぐに昇降口に出られるはずだ。
その予想通り、すぐに昇降口に到着した、さっきはあの男子に対して、あんなところに呼び出しやがってと思っていたけれど、今は、呼び出されたのがあの場所で良かった、このままグラウンドを横切って外に出られれば……
だが――
グラウンドに出た瞬間、美咲はぴたり、と足を止めた。
「……あ……」
口から、小さい呻き声が出る。
違う……
美咲は、心の中で呟いた。
違う――
自分は、思い違いをしていた――
危険なのは――校舎の中じゃ無かった――むしろ、校舎の中の方がかえって安全だったのだ。
苦々しく思いながら、グラウンドを見る。
グラウンドには――既に、大勢の――
大勢の、『ゾンビ』達がいた――
先ほどの教師と同じく、運動部を指導していたと思われるジャージ姿の教師達。
トレーニングウェアを着た男子や女子。
校門の方から、グラウンドに入って来たのだろう、隣近所の住民とおぼしきエプロン姿の主婦や、ラフな服装の若い男や女もいる。
とにかく大勢の――
大勢の、『ゾンビ』達が、グラウンドを徘徊していた――
「……あ……う……」
美咲は呻いた。
校舎に、戻らないと――
だけど……
脳裏に、先ほどの教師と、男子生徒の姿が浮かぶ――あいつらは、もしかしたら、もう既に校内に入っているかも知れない。あるいはこれだけいるのだ、別な出入り口から、校内に入り込んでいるモノもいるかも知れない。
どうすれば……
どうすれば……
美咲は、もう一歩後ずさった――
かさ……
「っ!?」
小さい音に、美咲はぎょっとする。
後ずさった拍子に、靴の踵が足下のコンクリートを擦ったのだ。
その音は普段ならば、気にも止めないような小さい音だっただろう。
だけど……
だけど……生きている者がおらず――静まりかえったこのグラウンドでは――
その音は――とても大きく響いた。
そして――
近くにいる数匹が――
一斉に――美咲の方を振り向いた。
「ああ……うう……」
「ううう……ああ……」
「あああ……」
気味の悪い呻き声が、まるでコーラスの様に響く――
そして……
無数の土気色の顔が――美咲に向けられていた。
「……あ……」
美咲は、その場にぺたん、と尻餅をついた。
逃げ、ないと……
心の中で言う――
だが……
だが、身体が――動かない。
呻き声が、徐々に大きくなってくる――
あの校舎裏でも嗅いだ腐臭が、少しずつ近づいて来る――
あの男子生徒の姿が、脳裏に浮かぶ――肉を食いちぎられ、痛みに苦しみ、血を吐いて絶命した後――その後は――
「い いや……」
美咲は、小さく呟く。
『ゾンビ』の一体が、その呟きに反応したかのように手を伸ばして来る。
「いや、いや……いやあ……」
美咲は、いやいやをするように首を横に振りながら、身体をわずかに下げる。
助けて――
誰か――
助けて――
ついに――
『ゾンビ』の一体の手が、美咲の肩を掴んだ。
そのまま、ぐああ、と口を開け、その『ゾンビ』が迫ってくる――
「きゃああああ!!」
気がつけば――
美咲は、口を大きく開けて叫んでいた――