第三十九話:銃声
犬山篤志は、ふらふらと走った。
ほんの僅か、身体を動かすだけで、全身が千切れそうな痛みが走る。
喉の奥から、熱い塊がこみ上げる。
それでも……篤志は懸命に走った。
はあ……
はあ……
はあ……と。
喉の奥から息が漏れる。
それでも、篤志は足を止めなかった。このまま……
このまま、ここで足を止めたら……きっと……
きっと、もう一度立ち上がる事は出来なくなる。
篤志は、そう思った。
玉神は、何処だ?
何処にいる?
篤志は、自問しながら目を閉じる。
思い出せ。
奴は……何処へ行こうとしている?
「……」
篤志は、目を開けた。
そうだ。
奴は、あの『研究所』に戻るつもりだと言っていた。
そしてあの『研究所』は街の外れにある。移動するならば車に乗るはずだ。つまり……
「……」
篤志は息を吐く。
そうだ。
奴は……車に乗るに違い無い。ならば、行く場所は一カ所しか無い。
駐車場。
そうだ。
駐車場だ。この校内の奥の方、つまりは校舎の裏手だった。
ならば……きっと……
きっと、奴はそこにいるに違い無い。
篤志は荒い息をつきながら、じっと校舎の裏の方を見る。
裏手に行くルートは、校舎の中を通り、一度裏口から出なければいけない。だけど……
篤志は、にやりと笑う。
この学校に、ずっと通っていて、校内を走り回っていた篤志は、教師も知らない様な近道をいくつも知っている。
篤志はよろめきながら、それでもしっかりとした足取りで校舎の裏手へと走った。
校舎裏手の駐車場。
そこに、一台の車が停まっている。数年ほど前に購入した高級車だが、そろそろあちこちが汚れ始めている、この騒ぎが落ち着いて、あの『水』を上手く金に換えられたら、真っ先に車を新しくしよう、『死の商人』になるつもりは無い、という言葉は事実だけれど、多少の贅沢はしても罰は当たるまい。
そんな風に思いながら、玉神弘光は車に乗り込もうと運転席の前に立つ。
「……」
そこで玉神は、不快そうに眉を潜めた。
車の運転席のドアの前。
そこに、学生服姿の少年が一人、ぐったりと項垂れて座り込んでいた。
学生服のあちこちが破れ、血に塗れている男子生徒、おまけに胸元からは白い肋骨が露出していた、まるで何処か……
何処か、高い場所から飛び降りたみたいだった。
「……」
否。
玉神は思った。
きっと彼は、本当に何処からか飛び降りたのだろう。教室の中、あるいは校舎内の、何処かで『ゾンビ』達に襲われ、逃げられなくなって窓から身を躍らせた、そして下のアスファルトにでも叩きつけられた、というところだろう。
その後は、誰かに救いを求め、そして見つけた車の中に誰かがいないか、と思って近づいて、運転席を覗き込んだ。だがそこはもぬけの殻だった。
そして……とうとうここで力尽きた、そんなところが。
バカな奴だ。
玉神は、胸の中でせせら笑った。
これから先の世の中。つまりはこの『ゾンビ』達が、本当に世界を席巻するようになれば、物を言うのは『力』だ。
それはもちろん、単純な腕力や武器の『力』だけでは無く、知恵や財力、あるいは『力』ある者に従い、その下でどんな働きが出来るか、そういう事も必要となるだろう。
だが……
この少年には、それは無かった。飛び降りたところで逃げられはしない。ならば……
ならば、あの『ゾンビ』達と戦う。
あるいは、知恵を絞って逃げ出す。
そういう事も出来ずに、安易に窓から飛べば逃げられる。
そんな風に考えて、こんな怪我をして、誰にも見つけて貰えずに一人、こんな場所で死んだ。
その姿は、実に……
「滑稽だな」
玉神は、小さく呟いた。
そして。
玉神は、その少年の襟首に向かって手を伸ばす。
申し訳無いが、こんなバカに関わっている暇は無い。
この『ゾンビ』達と、それを生み出す『水』。それらを研究し、『兵器』として利用する。この国が、世界でもトップクラスの『軍事力』を持つ国として生まれ変わる。
そして自分は、それを成し遂げた英雄として、歴史に名を残す。
その光景を想像しながら、玉神は項垂れている男子生徒の襟首を掴もうとして――
その次の瞬間。
がっ、と。
「っ!?」
血に塗れた。
けれど……
まだ、生きている人間の温もりを残した手が……
しっかりと、玉神の手首を掴んだ。
そして。
項垂れていた男子生徒が、ゆっくりと……
ゆっくりと、顔を上げた。
「……捕まえたぜ?」
その男子生徒が……
血塗れの顔に、笑みを浮かべながら言う。
「……お お前は……」
玉神は呟いた。
「……校長先生」
その男子生徒。
犬山篤志の血走った目が、真っ直ぐに玉神を見ていた。
駐車場の裏手に来た篤志は、すぐに玉神の車を捜し当てた。
校長がどんな車に乗っているかなんて知らなかったけれど、車は一台しか停まっていなかった、そのおかげで間違いようも無かったのは、ありがたい事だった。
そして。
運転席の前にしゃがみ込んだ篤志は、そのまま俯いて玉神が来るのを待った。この付近にはまだ『ゾンビ』達はいなかった、多分、校内にいる奴らの大半は、あの校長室の真下や、グラウンド近辺を徘徊しているのだろう。おかげでここに来るまでにも、ほとんど『ゾンビ』達には出くわさなかった。
そして。
俯いて腰を下ろしてから数分後。
誰かが、すぐ側に立つ気配がした。顔を上げるわけにはいかなかった、この重傷を負った身体で奴を確実に仕留める為には、出来るだけ油断させ、隙を突かねばならない。
だから篤志は、可能な限り死体に見える様に振るまい、そして……
奴が、手を伸ばした瞬間に、その手首をしっかりと握りしめた。
そのまま顔をあげる。
「……捕まえたぜ?」
篤志はにやりと笑う。玉神の驚いた顔が目に映り、愉快な気分にさせた。
「……校長先生」
篤志は、言い放った。
「こ このっ!!」
玉神が声を上げ、篤志の手を振りほどこうとした。
だけど……篤志は渾身の力を込めて握りしめ、その手を絶対に離しはしなかった。
そのまま空いた方の手に持つ銃を、ごり、と玉神の心臓の部分に押し当てる。
「は 離せっ!!」
玉神が言いながら、ぶんっ、と拳を振り下ろし、篤志の右肩に叩きつけた。
骨が露出した肩に拳が叩きつけられ、腕が千切れそうな激痛が走る。
「っがあああああああああああああああーっ!!」
篤志は、悲鳴をあげる。
「っ!?」
玉神は、ぎょっとした。
その苦鳴は、もちろん痛みによるものだ。だけど……
「……はあ……はあ……はあ……」
篤志は叫び声を止めて、軽く笑う。
「……今ので……」
篤志は言う。
「校内にいる、何匹がこっちに来るかな? さあ、どうする?」
篤志は不敵に笑った。
「そ そんな事……お前を殺せば……」
玉神は言い、篤志の額に銃を押し当てる。
「良いのかい?」
篤志はにやついて言う。
「こんなところで銃を撃ったら……銃声に反応して、さらにもっと大勢が『来る』ぞ?」
「……く……」
玉神は呻く。
そうだ。
この駐車場は、表通りへ出る為の門の近くだった。
もしもそこに、銃声を聞きつけた『ゾンビ』達が集まって来たら?
この車は所詮、大型トラックでも無ければバスでも無いのだ、大勢の『ゾンビ』達を轢き潰して進む事なんて出来ない、いずれ車体の下に巻き込まれた『ゾンビ』達のせいで走れなくなり、そして……
「……篤志君」
ならば……
玉神は、言う。
「……どうやら、私の負けのようだ」
玉神は、篤志の目を見た。
「解ったよ、この『水』は決して悪用しないと約束する」
「……」
篤志からは返事が無い。
「だから、ここを脱出しよう」
玉神は、篤志に告げた。
「ここにいるのは危険なんだ、『ゾンビ』達だけじゃ無い――」
玉神は告げた。
篤志は、じっと玉神の顔を見ていた。
「さっき私は、『ゾンビ』達は街の外に出てはいない、と言ったけれど、それはあくまでも、今、この瞬間は、という意味でしか無い」
篤志は、何も言わない。
「奴らは今はまだ、この街のあちこちを彷徨っている、生きている者達が出す、僅かな音に反応してな、だがそれもいつまでも続かない、いずれは必ずこの街の、今は生きている僅かな者達も『ゾンビ』と化すだろう、そしてそうなったとき……奴らはきっと街の外へ向かう」
「……」
それは、篤志も思っていた事だった。いくら自衛隊でも、この街の全住民とほとんど同数の『ゾンビ』達が一斉に押し寄せたら……?
「だから……そうなる前に、この街は放棄される事が決定したんだ」
「……放棄?」
篤志は問いかける。
「そうだ、この街の『ゾンビ』達の映像を、私の知人の防衛省の官僚に送ってある」
「……」
篤志は何も言わない。
「『研究』に必要なのは、『水』と資料だけだからな、危険な『ゾンビ』達は必要無い、そういうメッセージも添えたよ」
玉神は言う。
「そして……その官僚は自分の上司、つまりは防衛大臣にその事を伝えた、すぐにその話は、それよりももっと上に伝わった、そして……」
玉神は、篤志の目を見た。
「国は、この街を放棄する事を決定した」
玉神は告げる。
「三十分後、自衛隊による空爆が開始される」
「……三十分後……」
篤志は呟く。
腕時計を見る。午後五時半、つまり六時には、この街は破壊される、という事か?
「そうだ」
篤志の心を読んだように、玉神が言う。
「……だから、すぐに逃げなければいけないんだ」
「……」
篤志は、黙っていた。
「解ったのならば車に乗りたまえ、お友達二人は無理だが、君と私だけならばまだ逃げられる、その怪我も早く医者に診せれば――」
がち……
玉神の言葉は……
銃の撃鉄を起こす音で、遮られた。
「……!?」
玉神は、息を呑む。
篤志は、口元に笑みを浮かべながら、銃の引き金に指をかけていた。
「安心したぜ」
篤志は言う。
「……つまりあんたさえ始末すれば、『水』も、『研究所』も、そこにある『資料』も、それに……」
篤志は、視線をちらり、と、右の方に走らせる。
さっきの篤志の苦鳴を聞きつけたのだろう、数体の『ゾンビ』達が、こちらに向けて歩いて来ていた。
「あの『ゾンビ』達も、後は自衛隊が勝手にみんな潰してくれるって訳だ」
篤志は、にやついて言う。
「き 貴様……」
玉神は狼狽えるが、篤志はにやついた笑みを崩さず、未だに掴んだままだった玉神の手首を、さらに力一杯握りしめた。
「……俺は、逃げない」
篤志は告げる。
「この『ゾンビ』騒動も、全部この街の中だけでの出来事として、終わらせる」
そうだ。
両親の顔を。
志穂の顔を。
美雅の顔を。
美咲の顔を。
そして……
『ゾンビ』になってしまった志穂の家族。
『ゾンビ』達を止めようとした美雅の家族。
みんなの顔を思い浮かべる。
それら全てが……この男の狂った野心の為にもたらされたものなのだ。
許さない。
許すわけにはいかない。
「くっ……このっ!!」
玉神は、篤志の手を振りほどこうとする。
だけど……
それよりも早く。
篤志は、握りしめた銃の引き金に指をかけ。
そして。
その指に、ぐっ、と力を込めた。
ぱあんっ!!
校内に、同時に三発の銃声が響いた。
何処で撃たれた物なのかは解らない。
だけど……
きっと皆、それぞれの使命を果たしたのだろう。
三人は、この場にいない二人の友の事を思い浮かべて……
同時に、そう感じた。




