第三十八話:解放
「ぐ……」
美雅は、呻いて膝をつく。
「が……はっ……」
喉の奥から、何かがこみ上げて来る。
飲み込もうとする暇すらも無く、それが口から溢れ出す。
びしゃり、と、床の上にぶちまけられたのは、赤黒い血だった。
美雅は、そのままどう、とうつ伏せに倒れる。
「……は……あ……」
立ち上がろうとするけれど、身体が全く動かない。
「……っ」
美雅は、声にならない声で呻いた。
身体が、ぶるぶると震える。
寒い。
猛烈な寒さが、全身を襲う。
美雅は、それでも立ち上がろうとした。
だけど……
「……あ……」
口から小さい呻き声が漏れる。
まともに立ち上がる事も出来ないまま、美雅はその場にうつ伏せに倒れたまま、ガタガタと身体を震わせていた。
「……」
咄嗟に、目だけを動かして目の前の『ゾンビ』。
否。
父、犬川浩三を見る。
父は、倒れた美雅になど、もう目もくれずに歩き出そうとしていた。既に噛まれた者は、同じ『ゾンビ』だと思っているのだろう。そのまま美雅の身体を踏みながら、校長室の外に出て行こうとしていた。
「だ めだ……」
美雅は、掠れ声で呻いた。
ダメだ。
このまま、父を……
父を、ここから出すわけには行かない。
ここから出れば、もう父を止める事は不可能になる。
ここから出れば、父はもう、ただ一匹の『ゾンビ』に成り果てるだろう。今、この街の中に、生き残っている人が何人いるのかは知らないけれど……
きっと父は、その人達を片っ端から襲うだろう。
そして……
「……」
美雅は目を閉じた。
父は、いずれは単なる一匹の『ゾンビ』として処理されることになるだろう。これまで美雅が、そして篤志や志穂が倒して来た、何体もの『ゾンビ』達と同じ様に、誰かによって頭を潰され、血をぶちまけながらその場に倒れるだろう。
そして……
それが自分の父である事。
玉神を止めようとしていた事。
どんなに……
どんなに、自分の事を……
息子である自分の事を、愛してくれていたのか。
そんな事は、勿論誰も知らないし、考えもしないだろう。
「……っ」
美雅は、ぎりり、と歯ぎしりする。
ダメだ。
それはダメだ。
父が……単なる一体の『ゾンビ』として殺される。
そんな事は、絶対に許さない。
「……っ」
美雅は、目をかっ、と見開いた。
ダメだ。
絶対に、それだけは。
それだけは絶対にダメだ。
父は……この状況をなんとかしようとしていた、あの玉神を止めようとしていた。
そんな父が。
こんな状況になっても、自分の事を愛してくれていた。
そんな父が。
「……そんな死に方を、するなんて」
それはダメだ。
美雅は、どすっ、と拳を床に叩きつける。
既に『ゾンビ』になりかけているのか、かなり力一杯叩きつけたはずのその拳には、全く痛みを感じなかった。
構うものか、むしろ何も感じないなら好都合だ。
美雅は、そのままガクガクと震える身体を、拳を叩きつけた手を支えにして、無理矢理立ち上がらせる。
動け。
美雅は、心の中で言う。
動け。
動け。
動くんだ。
命令する。
そのまま手を、そして足を、そろそろと動かして……両手を床について、上半身を起こした。
その途端、また再び喉の奥から何かがこみ上げてきた。
だが美雅は、それを無理に飲み込んだ。
すぐ側に、銃が落ちている。目が霞んで、すぐ側にあるハズの銃がはっきりと見えない。
それでも、ブルブル震える手を伸ばし、銃のグリップを掴んでしっかりと握りしめる。
「……はあ……はあ……はあ……」
美雅は、荒い息をつきながらも、それでも両脚を軸にして立ち上がる。
そして……
首を後ろに向けて振り返る。
父は……美雅に背を向け、開きっぱなしの校長室出入り口の扉から、廊下に出ようとしていた。
「待てよ……」
美雅は言いながら、そのまま身体を捻る様にして振り返ると、だっ、と走り出す。
距離にすれば、一メートルあるかないか、数歩歩けばすぐに追いつける距離だろう、だけど美雅は、何度も転びそうになって、ようやく父の背中に追いついた。
そのまま、後ろから首に左腕を回して抱き寄せるようにして、父を止める。
「……あれだけ、『他人の子だと思った事は無い』とか、『心から愛していた』とか言っといて、そんな息子を置き去りにして、一人で行こうとするなよ?」
美雅は、にやりと笑って言う。
「……うう……」
父が、微かに呻いた。その呻きが、何を意味するものなのかは解らない。
だけど……
美雅には、父が痛いところを突かれ、困った様な顔で唸っている様に思えた。
「……ちょっとだけ、痛いだろうけど……」
美雅は、苦笑いと共に言い、ごり、と父の右のこめかみに銃口を押し当てる。
「少しだけ、我慢してくれ……」
美雅はそのまま、銃の撃鉄を起こす。
「今、解放するからな……」
言いながら美雅は……
ゆっくりと……
銃の引き金に、指をかけた。
「父さん」
そして。
はっきりと。
父に向かって呼びかけて。
美雅は、引き金にかけた指に、力を込めた。




