第三十四話:教室
静まり返った校内を、犬鳴志穂は、ゆっくりとした足取りで歩いていた。
あの後……校舎内に飛び込んだ志穂は、そのまま素早く二階へと駆け上がった、幸いにして、一体の『ゾンビ』にも出会わなかったけれど、校内でも油断は出来ない。
「……美咲ちゃん」
小さく呟く。
彼女は……
彼女は、今何処に……?
「……」
そもそも、何処を探せば良い? 校内の全部を探している時間は無い。
それに……
あの美咲のことだ、絶対に……
絶対に、自分がいる場所のヒントを、あの時……
あの別れた時に、言っているはずだ。
「……」
志穂は、目を閉じる。
思い出せ……
思い出すんだ、きっと……
きっと彼女は、何かを残している。
特に……
「大好きな、アタシには、ね」
志穂は、呟いて軽く笑う。
そうだ。
彼女はだからこそ、自分が傷つかないようにしてくれたのだ。
結果として、傷ついてでも篤志達と一緒に行く、という道を選んだのは志穂だけれど、それでも彼女は、それしきで諦めはしないだろう。
きっと、自分を待っている。
この学校に、自分が来るのを……
志穂は思いながら、ゆっくりと……
ゆっくりと、二階の廊下を歩いて……
「あああ……あああ……」
「っ!?」
唐突に響いた呻き声に、志穂はびくっ、と身体を震わせる。
そこにいたのは……
「『ゾンビ』……!?」
志穂は、呟く。
一体の『ゾンビ』が、廊下の奥の方から、ゆっくりと……
ゆっくりと、こちらに歩いて来ていた。
「……っ」
志穂は、銃を構える。
もう、包丁は一本も無い。
武器は、この銃一つしか無いのだ、やるしか無い。
弾は……あと二発。
これで、どうにかしないと……
「あああああ……」
薄汚れた服を着た、この学校の女子生徒……
首の辺りが食いちぎられた様になっている、どうやら、その傷が原因で『ゾンビ』と化してしまったらしい。可哀想に。
志穂は思った。
だけど……
「アタシには……会わなきゃいけない人がいるの、それに……」
こんな自分を、待っていてくれる人も、いる。
だから……
「……アンタに、『喰われる』訳にはいかないのよ」
そのまま、志穂は銃を構える。
相手の顔を見る。
こちらにゆっくりと歩いて来る『ゾンビ』、よく見れば、口の周りが真っ赤に染まっている、血だ、それもついさっき、そこについた、というような感じの血……
誰かを、何処かで『噛んだ』という事だろう、志穂はぎりっ、と歯ぎしりした、誰を『噛んだ』のか知らないけど……その人も、今頃は妹の様に……
志穂は、引き金に指をかけた。
落ち着け。
弾は二発しか無い。
仕損じるわけにはいかない。
確実に……
確実に、頭を撃ち抜くんだ。
それには……
もっと……
もっと、こっちへ……
「……こっちに、来なさい」
志穂は呟く。
「……ああ……ああああ……」
『ゾンビ』が呻く。
距離が、どんどん縮まって来る。
ついに、後三メートルほどにまで来た。
二メートル、もう少し……もう少しだ。
一メートル。
その『ゾンビ』が伸ばして来た手が、志穂の肩に届きそうになる。
その瞬間。
「っ!!」
志穂は、声にならない声をあげながらも、引き金を引いた。
乾いた銃声が、廊下に轟く。
放たれた弾丸は、目の前の『ゾンビ』の頭を、正確に……
正確に、撃ち抜いていた。
血をぶちまけながら、その『ゾンビ』が倒れる。
志穂はそれでも、銃を構えていた、まだそいつが動いて、襲って来る様な気がしていた。
一分……
二分……
三分……
どうやら、大丈夫らしい。
志穂は、ゆっくりと息を吐いて、銃を下ろす。
辺りを見回してみるけれど、他の『ゾンビ』が現れる気配は無い、どうやら、こいつしかここにはいないらしい。
だけど……
「こんなのがうろついてるんじゃ、校内だって油断出来ないわね」
志穂は、小さく呟いて歩き出す。
美咲は……何処にいるんだろう?
自分の教室があるから、この二階に来てしまったけれど……もしかしたら、この階に彼女はいないかも知れない。
「……」
志穂は、ゆっくりと息を吐く。
落ち着け。
焦るな。
今は、冷静になれ……
自分に言い聞かせながら、志穂は、ぴたり、と二年A組の教室の前で足を止める。
「……ここで……」
志穂は、小さく呟く。
そうだ。
今朝、ほんの十数時間前、自分はここで……
ここで、あの美雅と一緒に補習を受けていたのだ、早く問題を終わらせて、篤志の家に行って、いつもみたいに遊ぼうと思いながら……
そっ、と。
教室の中を覘き込んで見る。
「……」
今朝と、何も変わっていなかった。
黒板には、美雅が書きながら解説してくれた数学の方程式が、まだ消されずに書かれていたし、教卓の前にある志穂の席の上には、数学の教科書とノート、それに筆記用具が、まだそのまま置かれていた、今すぐにでも、ここで今朝の補習の続きが出来そうだ、そうなったら、今度は美咲にも、それに篤志にも見て貰えたらな……
「……っ」
そこまで考えて、志穂は、はっ、と息を呑んだ。
「……教室……?」
そうだ。
別れたあの時、みんなで……
みんなで……
「アタシの、補習の話をしてた……?」
そうだ。
そして……
美咲の言葉を、思い出す。
『皆さんが、『登校』するのを待っています』
そうだ。
確かに、彼女はそう言った。
そう、言ったのだ。
「『登校』……」
そうだ。
『学校』へ『登校』する。
そして……
『登校』した時に、『生徒』が、一番最初に向かう場所は……
何処だ?
それは……
それは……
「……教室」
志穂は、呟いた。
そして……
彼女は……
彼女のクラスは……
あの体育館で自己紹介した時の言葉を、思い出せ。
『乾美咲です、二年生でB組です』
「B組」
そうだ。
彼女は、B組の生徒。
そして……
『学校』に『登校』した時、一番最初に行く場所。
それは……
「教室……」
志穂は呟いて、くるりと踵を返して廊下を歩いた。
教室の出入り口の上。
そこには、何年何組の教室なのかを示すプレートがかけられている。
志穂は無言で、それを見る。
自分達が在籍する、二年A組の教室のすぐ隣。
二年B組の教室。
扉は、開けられていた、今まで入った事は無くとも、構造は多分、自分達の教室とそれほど変わらないだろう、等間隔に並べられた机、何も書かれていない黒板だけが、志穂達が在籍するクラスの教室とは違っている。
そして……
その教室に並べられた机の、ちょうど真ん中……
そこに、一人の女子生徒が、こちらに背を向けながら、机に突っ伏して蹲るようにして座っていた、傍目には、そのまま机で眠ってしまっているようにも見える。
顔は見えない。
だけど……
だけどそれは、間違い無く……
「美咲ちゃん……!!」
志穂は、その背中に向かって呼びかけた。
その言葉に……
机に突っ伏していた少女の肩が、ぴくんっ、と震えた。
「美咲ちゃん、待たせたわね」
志穂は、ゆっくりと……
ゆっくりと、教室の中に向かって歩いて行く。
「まだ、全部は終わって無いけど、約束通り、アタシも、それにあいつらも、ちゃんと『登校』したわ」
志穂は、言う。
だけど……
美咲からは、返事が無い。
「……?」
志穂は、違和感を覚えた。
こんなにはっきり喋っているのに、まさか、聞こえていない、という事は無いだろう。
だけど……
美咲からは、何の……
何の返事も無い。
「美咲ちゃん?」
志穂は、呼びかけた。
「……あ……」
その声に、ようやく。
ようやく、小さい声がする。
少し……
ほんの少しだけ、掠れた声……
「……っ」
その声に、志穂は……
志穂は……
いやと言うほど……
覚えが、あった。
まさか……?
「み 美咲ちゃん?」
志穂は、問いかける。
まさか。
そんなはずは無い。
そんな事は、あり得ない。
だけど……
だけど……
「……」
思い出す。
ついさっき、廊下で倒したあの『ゾンビ』。
奴の口の周りが、つい今さっきついたような真っ赤な血で、濡れていた事。
まさか……?
「美咲ちゃん、美咲ちゃんってば!!」
志穂は、そのまま美咲に駆け寄り、その両肩を掴んで揺さぶる。
「美咲ちゃん、起きて、冗談は止めて!!」
志穂は、叫ぶ様に呼びかけた。
それに、応えるかのように……
美咲が、机に手をついて、ゆっくりと……
ゆっくりと、上半身を起こす。
そして……
「ああ……あああああ……」
「っ!!」
その口から漏れたのは……
もう、耳慣れてしまった……
呻き声。
そして。
立ち上がった美咲が、ゆっくりと……
ゆっくりと、志穂の方を振り向いた。
妹と……
両親と、全く同じ……
死体そのものの、顔で……




