第三話:補習
日曜日。
午前八時。
大抵の人は休日だろう。そろそろ朝食も終わり、家にいる人間は、今日は家で何をしようか、何処かへ出かける人間は、どこへ行こうか、という事を考えているだろう。
一人で過ごす者もいれば、恋人や友達と過ごす人間もいる――そんな楽しく、嬉しい日、それが日曜日、という日だ。
そんな日に……
そう……
そんな、日曜日に――
「なぁんでアタシは補習なんか受けてんのよぉーっ!?」
滝原高校。
二年A組の教室。
そのど真ん中の席に座り、犬鳴志穂は声を張り上げた。
いつもならば五月蠅いくらいに生徒達の声が響く教室――
だが今は、休日という事もあって、教室はもちろん、校内にもほとんど人の気配は無いし、声も聞こえない。唯一聞こえる生徒の声は、グラウンドで練習している運動部員達のかけ声だけ――
そんな静かな校内に、その甲高い声は、わんわんと反響した。
「もうヤダ、もう無理――」
ぼやきながら、志穂は机に突っ伏する。
ひんやりとした机の感触が心地良い。志穂は、ぴったりと机に顔をくっつけて目を閉じた。
「篤志ぃー……篤志ー、なんとかしてよー……」
ぶつぶつと、小さい声で、この場にいない幼馴染みの少年の名前を呟く。無論、その声がその少年に届く事は無い。それは解っているけれど、それでも、口にせずにはいられないのだ。
「今日の補習だって……ホントはアイツが来てくれるって話だから受けたのにー……」
「仕方無いだろ?」
呆れた様な声が、正面から響く。
志穂は顔を上げ、そちらを恨めしげに見た。
「今日は日曜、あいつはそういう日には、家族と一緒に過ごしたいって思ってるんだ」
「……知ってるわよ」
ぶっきらぼうに、声をかけてきた奴の方を睨みながら言う。
一人の少年が、そこに立っていた。志穂の通う、この滝山高校の男子の制服を着た少年、手には参考書を持ち、教卓の前に、呆れた顔で立っている。
「だからさ、なんでアタシの補習が日曜なのよ? 平日だったらアイツだって……」
「平日は、授業があったりするから、教室は昼間は使えないんだ」
男子生徒が言う。
「だったら放課後とかだって良いじゃない……」
志穂はぼやく。
だが男子生徒は、ふん、と鼻を鳴らした。
「お前の成績じゃ、放課後――つまりは授業が終わってから校門が閉まるまでの短い時間では、とても終わらない、と、担任が判断したのさ、そして教師役も、成績トップの俺が担当した方が良い、という判断が下された」
男子生徒がすらすらと言う。志穂はその言葉に、また鼻を鳴らした。確かに、この少年の言う事は事実だ、成績最低の自分の補習には、長い時間が必要だろうし、教師役にも、学年トップの成績の彼の方が、授業も捗るだろう。ついでに言えば、この少年と志穂とは、小学生の頃からずっと一緒だった幼馴染み、という関係だから、気心が知れている、というのも理由なのだろう。
だけど……
だけども――
「はあ……」
志穂は、またため息をついた。
「補習なんか、単なる口実だっての……アタシは……会いたいのに」
志穂は、目を閉じる。
その様子を見て、教卓の前に立つ男子生徒が軽く笑う。
「いい加減、はっきりと『言った』らどうだ? そうしないとあいつの事だ、いつまで経っても気がつかないぞ?」
「解ってるわよ……」
志穂は、また机に顔を埋めた。
「……アタシにだって、色々あるの……」
小さい呟きは、多分、誰かに聞かせようと思ったものじゃ無いのだろう。
でもその声は、はっきりと聞こえた。
「……」
その声を聞きながら、男子生徒は少しだけ寂しげに微笑んだ――
犬鳴志穂。
そして、この場にいない、かけがえのない親友――犬山篤志。
二人と最初に出会ったのは、まだ小学校に入ったばかりの頃だった――
この二人がどれだけ仲が良くて、お互いをとても大切に思っているのかは、その時に既に十分過ぎるほど理解出来た。
そして……
成長するに連れて、志穂が篤志に抱く感情が、どうやら単なる友人に対しての『それ』では無いのだ、という事にも、すぐに気がついた。
篤志の方は、どうやらそれには気がついていない様だけれど、きっと彼も、志穂のその想いを受け入れるはずだ――
そうなったら……
そうなったら……自分は……
自分は――
気がつけば、少年は――
目を、閉じていた。
そうだ。
自分は――
「――っと……ちょっと!!」
どこか遠くから聞こえる、自分を呼ぶ声――
「美雅ってば!!」
キンキン声が、すぐ近くで響く――
「っ!?」
その声に――少年、犬川美雅は、ぎょっとして声の方を見た。
少女――犬鳴志穂が、いつの間にか立ち上がり、側まで来て、じっと顔を覗き込んでいた。
「さっきから呼んでるのに――」
「あ ああ……すまない、ちょっと……考え事をしてたんだ」
ぽつりと言う。
「ふーん……」
その言葉に、志穂は、じっ、と美雅の顔を覗き込んだ。
「何を、考えていたの?」
「……別に、何だっていいだろ?」
言いながら、美雅は志穂から顔を背ける。その言葉に、志穂はまたしても鼻を鳴らした。
「アタシとアイツが、もしも本当に付き合えば、それはすっごくお似合いのカップルだ、まさしくベストカップルと呼ぶのが相応しいだろう、そりゃあもう末永く一緒にいて、大爆発して、子供は男の子と女の子を一人ずつ産むのに違い無い、因みに上の子はアイツで、下の子はアタシにそれぞれ似ているのに違い無い――」
「……そこまで具体的には考えてない、というか、そこまで考えてたのかお前?」
美雅は、さすがにちょっと引きつった顔で言う。
「考えてるわよ、因みにアイツは地元で働いて、アタシは専業主婦になってアイツを支えるの、これでも手料理作らせたら上手いんだから――毎日仕事に行く前には、そ その……」
志穂は頬を赤らめ、俯く。
「……い 行ってらっしゃいの、き き キス、とか、するんだから……」
美雅は引きつった顔のまま、何も言わない。志穂はそこで、軽く咳払いをすると、美雅に向き直る。
「で――」
志穂が、じっと美雅の顔を見る。
「アンタの事だから、どうせ、その時にはもう自分は二人から離れよう、とか思ってるんでしょ?」
「――っ」
考えていた事を、あっさりと言い当てられ、美雅は絶句した。
だが――
美雅は、軽く志穂から顔を背ける。
「……ああ、そうだ」
小さい声で言う。
「俺は、最初からお前達と一緒にいた訳じゃ無い――お前達が、お互いを大切に思ってる事だって知っているし、俺がいたら、お前達は二人きりでは過ごせない、だから……」
美雅は、小さい声で告げた。
だが――
「ふざけんじゃ無いわよ――」
たんっ、と。
床を踏みならして、志穂が言う。
美雅はその声と音にも眉一つ動かさず、志穂を見る。
「……俺は所詮、後からお前達の間に入って来たんだ」
そう――
それは、事実だ。
犬川美雅。
犬山篤志、犬鳴志穂の幼馴染みで友人。
だが――産まれた時からずっと一緒にいた二人とは違い、自分は小学生になる頃に、この街に来た転校生だ。なんでも、何処かの製薬会社に勤務する両親が、何か新薬の研究を始める為、この街に自分達だけの研究施設を建設し、そこの所長として就任して引っ越して来たらしいが、あまりに小さかったせいで、よく覚えていない。
とにかく、そうしてこの街に来たばかりの頃――美雅は、ずっと……
ずっと、一人だった。
研究一筋だった両親は、自分に感心を持たなかったのだ。それに加え――
美雅の両親は、本当の親では無い。
美雅を産んだ本当の母親は、小さい頃に死去し、父は、自分を育てられる状態では無かった。だから、自分を孤児院に預けた――
その自分を引き取ったのが、今の両親だった――『犬川』という名字も、自分を引き取ってくれた両親の物だった。今の両親は、どうやら事故で本当の子供を亡くしてしまったらしい。
……自分は要するに、その本当の子供の『代わり』という事だ。
まだ子供だったけど、美雅は、そう思っていた。そしてどうやらそれは、間違いでは無かったらしい――ある程度自分の事が出来る様になれば、もう両親は、自分の事など無視し、研究に没頭する様になった、この街への引っ越しだって、美雅は最低限の事しか聞かされなかったのだ。
そして……
引っ越してから、美雅はずっと家の中で一人でいた――休日などは家政婦が来てくれたけれど、それ以外の日は、ずっと一人で家の中にいた。
小学校に通うようになっても、それは変わらなかった。親ともろくに会話した事が無い自分が、同級生の輪の中に入る事なんか出来るわけが無い――特に子供というものは、自分達とは異なる存在を、異常なまでに排除しようとするものだ――
美雅は、教室でもずっと一人だった。
寂しいとか、悲しいとか、そんな事を感じもしなかった――本当の親がいない、そして今の親の死んだ子供の『代わり』でしか無い自分……
つまり自分は……親も、そして『自分』というものも無い。まるで……
まるで、透明人間みたいな存在なんだ――そこにいるはずなのに、誰も気がついてくれない……
そう……
そう、思っていた――
そんな風に思って、もう、誰とも会話をしない時間を過ごしていた頃――
小学校の教室で、一人の男子生徒が、ひょこひょことこちらに近づいて来た――
そして……
ぼんやりとしている美雅の肩を、ばんっ、と乱暴に叩いたのだ。その痛みに顔をしかめる間もなく、無理矢理顔を掴んで振り向かせられた。そしてそいつは、美雅の目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと言ったのだ――
『ぼーっとしてないで、遊ぼうぜ――』
「……」
美雅は、いつの間にか閉じていた目を、もう一度ゆっくりと開けた。
あの後、美雅は無理矢理校庭に連れて行かれた。校庭には、もう一人、女子が待っていた。
そのまま、三人でずっと遊んでいた――休み時間終了を告げるベルが鳴っても、全く気がつかないで、揃って教師に叱られたのも、今となってはいい思い出だ。
そうして――篤志と志穂、そして美雅は友人となった。孤児だった事や、今の両親が本当の親じゃない、という事は、二人にはまだ伝えてはいない――どうせ言ったって意味が無い事だし……それに……
それに……出来れば……
この二人には……知られたくなかった。自分が――
自分が、単なる……『代わり』だという事を――
「何をぼーっと考え込んでるんだか知らないけど……」
志穂が言う。美雅は、無言のままでそちらを見る。
「アタシは、アイツの事が好き――さっきの妄想の通りの未来が訪れる、とはさすがに思って無いけど……でも、アイツと一緒にいたい」
「……」
それならばなおのこと、自分などいない方が良いでは無いか。
「でも――」
言いかけたが、それよりも早く、志穂が言う。
「アンタとだって、一緒にいたいって思ってる――きっとアイツだって、アンタがそんなバカな事言ったら怒るわよ? アタシ達は、何があったって三人一緒なの」
「……っ」
美雅は、小さく呻く。
……こんな言葉を言われたのは、もちろん……初めてだ。
「……」
美雅は、何も言わない。
志穂は、そんな美雅を見ながら、もう一度ふんっ、と鼻を鳴らし、元の机にもう一度座り直す。
「解ったら、バカな事考えてないで、この方程式教えてよ――」
志穂が指差したのは、数学の方程式だ。つい先ほど教えたばかりなのだが、どうやらもう忘れてしまったらしい――美雅の顔に、一瞬苦笑いが浮かぶ。
「――やっと笑った」
「……ん?」
志穂の言葉に、美雅はきょとん、とした顔になる。
「何だって?」
「やっと笑った、って言ってんの――アンタもさ、いっつもいっつもぼんやりしてないでさ、もっと笑ったら? 見た目はそれなのに良いんだし、もっと表情豊かにしたら、彼女の一人や二人、すぐ出来ると思うわよ?」
くすくすと笑って言う志穂に、今度は美雅が鼻を鳴らした。
「放っといてくれ――俺は恋愛になんか興味無いんだよ」
「モテない奴の言い訳の典型ね――」
からかう様に笑う志穂。
「う うるさい――良いから集中しろよ、そこはさっきも教えたところだぞ?」
「はーい、さっさと解いて、こうなったらこの後二人でアイツの家に押しかけてやるわ、この間の格ゲー、今度こそリベンジするんだから……」
言いながら、志穂はペンを掴み――問題を解こうとした。
その時――
――きゃああああ……!!
「――えっ!?」
「!?」
絹を裂くような、女子生徒と思われる叫び声に――二人は同時に顔を上げた。
そこでやっと――二人は気づいた。
さっきからずっと、グラウンドから聞こえてきていた運動部のかけ声――
それが……
それがいつの間にか、全く聞こえ無くなっていた事に――