第二話:死人
ベッドを見た篤志の目に飛び込んできたのは、赤い色一色だけ。
シーツも、枕も、毛布も、そしてその下の床さえも、とにかく赤い色一色に塗りつぶされていた……
ベッドの上を見る。
両親は――そこには……
そこには、いなかった――
少なくとも、篤志は、そう思った。
否。
そう、思いたかった――
今、ベッドの上にある『もの』――
それを、『両親』だと。
自分を産んでくれた母だ、と――
自分を育ててくれた父だ、と――
そんな風には、思えなかった。
思いたく、無かった――
赤黒く変色し、もう、元の色も解らなくなってしまったベッド、その上にある、二つの肉の塊にしか見えない『もの』――
かろうじ、パジャマを着た足だけが見える『それ』を――
篤志は、両親とは思いたくなかった――
そして……
その二つの肉塊の上にのしかかっている、小柄な老人の様な影――
まるで骸骨の様に細い体つき――
死体の様に――いいや、死体そのもの、と言ってもいい、色の無い肌――
そして……
肉が腐ったような、嫌な臭い――
「……」
篤志は、無言で『そいつ』を見ていた――
これは……
これは、一体……
一体、何なんだ?
「うう……あああ……」
微かに響く、掠れた呻き声。
その気味の悪い、地の底から響く様な声に、篤志はようやく我に返った――
「あ、う……」
小さい声で呻き、思わず一歩後ずさる。
その途端――
かさ――
「っ!!」
足の裏に床がこすれ、小さい音が響く。
「……うう……あああ……」
その音に、ベッドの上にいる『そいつ』が、ゆっくりと――
ゆっくりと、篤志の方を振り返った。
「――っ」
そこでようやく、篤志は『そいつ』の顔を見た。
はっきりと、見た――
落ちくぼんだ頬。
眼球が無く、白目の部分だけの、泥水のような濁った目。
半開きになった口。
そして……
その口の中からはみ出している――赤黒い肉片。
それが誰の物なのかは、考えるまでも無い。父か、あるいは母か――
「……っ」
篤志は、ぎりり、と歯ぎしりした――
しばしの沈黙が、室内におりる。
ややあって――
『そいつ』は、今の微かな音の正体を気のせいだとでも思ったのか、くるりと首を戻し、ぐああ、と口を開け、父の肉にかぶりついた。
「……」
篤志はそれを、無言で見ていた――
こいつは……
こいつが……
父と、母を――
『これ』が何なのか、篤志には解らない。
金目当ての強盗だとか、人を殺すのが大好きなサイコパスだとか、とにかくそういうのとは別次元の――そもそも人間ですらも無いのだ、という事は理解出来る。
だが……
『こいつ』は、父と母を殺した。
殺しただけで無く、その死体を貪り食っている。篤志がいるのも気にもせずに、だ。篤志に襲いかかってこないのは、興味が無いのか、腹が一杯なのか、それともうちの両親の死体はよほど美味くて、他の事なんか目に入らないのか?
――どっちだって良いさ。
篤志は、心の中で呟き、室内を見回す。
部屋の出入り口の、すぐ横――
そこに、一台の石油ストーブが置かれていた。母が寒がりなおかげで、この家では春先でもまだ時々点ける事があるから、石油は常に満タンだ。篤志は黙ったままで、そのストーブから石油缶を取り出し、蓋を外して床の上に石油をまき散らした――
火の元は、すぐ隣、父の書斎にあるはずた――父と母は仲がとても良かったけど、たった一つ、母が父を嫌う要素があった。
篤志は寝室を出、父の書斎に足音を忍ばせて入り、机の上に、煙草の箱と一緒に置かれていたライターを手に掴んで寝室に駆け戻り、そのまま床に零れた石油の中に、火を点けたライターを放り投げた――
ぼうっ、と――
一瞬にして、炎が燃え上がる――まだベッドの上にいた『そいつ』が、そこでようやくこちらを振り向いて、ベッドから下りたが、もう遅い。
篤志は、その炎を見ながら、くるりと踵を返して階段を下り、玄関へと向かう。
ごうごうと――激しい炎が燃えさかっている。
自宅が――篤志が産まれた時から、十七年の歳月を過ごしてきた自宅が、今、業火に包まれていた。
寝室から広まった火災は、瞬く間に家中に燃え広がり、今では、家全体が、まるで大きな火柱みたいだった――
その業火を、篤志は、門の外に立って、黙ったまま見ていた。
飛んできた火の粉が、前髪をチリチリと燃やす。頬にも火の粉が当たり、火ぶくれが出来たけど、篤志は瞬きもせずに炎に包まれた自宅を見ていた。
これだけの火災だというのに――隣近所の家からは、誰も出てこない。
そればかりか、消防車やら警察やらが来る気配も無い。
その理由は――多分、『あいつ』だろう。
この家は、この街の中でもかなり外れの方にある。そこに、あんな『もの』がいた、という事は、恐らく、そういう事だろう、むしろ篤志が、事態に気がつくのが遅かった、という事だ。
「……」
篤志は、軽く息を吐いて、燃えさかる自宅にゆっくりと背を向けた。
何かが、始まったんだ。
とてつもない、『何か』が――
そして両親は、それに巻き込まれた――
それが何なのか、篤志には解らない。
だけど――
確かめる。
何が起きたのか。
何が、起きようとしているのか。
その全てを、確かめる。
そして……
そしてもし……
自分に――『それ』を止められるのならば――
止めて、みせる。
篤志は、ゆっくりと歩き出した。
さしあたって、向かう先は――
篤志の脳裏に浮かんだのは、両親と同じくらいに大切な、二人の友人の顔だった。
確かあいつらは今日、学校にいるはずだ――
補習を受ける側の、成績最低の友人。
補習を担当する側の、成績トップの友人。
「……」
篤志は、無言で頷いた――