第十七話:惑乱
家の中は、しん、と静まり返っていた。
「今朝まで……」
志穂は、呆然と呟く。
今朝まで、いつも通りの我が家だったのに……
今では、あちこちのガラスが割れ、壁に飾られていたジグソーパズルは床に落ち、戸棚の中の物や本棚の物は全て床にぶちまけられている。
「……みんな……」
志穂は、消え入りそうな声でもう一度、家の中に呼びかける。
だけど……
何処からも、返事は聞こえない。
「……みんな、何処?」
志穂は、もう一度呼びかける。
今度は、さっきよりも少し大きな声で。
だけど、やはり相変わらず、家の中から沈黙しか返ってこない。こんなにも静まり返った家の中は初めてだ、いつもは必ず、妹の声か両親の声がしていたのに……
そして……
自分の呼びかけに、誰も答えてくれない。
そんな事も、ずっとこの家で暮らして来て初めての事だった、自分の声がすれば、必ず父か母がそれに応えてくれる、そもそも、自分が帰って来たのを見れば、すぐに妹が、家の中の何処にいてもその事に気がついて、飛び出して出迎えてくれるのだ、だけど……
だけど……それが……
それが今日は……無い。
嫌な予感が、志穂の胸を過る。まさか……
まさか、みんな……?
「……っ」
志穂は、激しく頭を左右に振りながら、廊下を歩いて、二階への階段に向かう。
階段の上にも、ガラスが散乱している、階段の上、二階廊下部分にある窓が割れているらしい、一体誰が、どうやって割ったのだろう?
解らない。
だけど今は、そんな事を考えている時じゃない。
志穂は、ふらふらと二階に上がった。
二階には、部屋は三部屋。
志穂の部屋と、妹の部屋、そして両親の寝室がある。
「……」
志穂は、自分の部屋を見る、ドアが半開きになっていた。
そっ、と、中を覘き込む。
酷い散らかりようだった、泥棒が入った、というようなレベルでは無い、本棚の本は全て床に落ち、ガラスは全部割れている、カーテンはボロ布になって床に落ち、ベッドすらひっくり返っていた……もしかしたら……
もしかしたら、あの『ゾンビ』達が、部屋に押しかけてきたのかも知れない。
志穂は、そんな事を思った。
そして……
そして両親と、妹を……
「……」
目を閉じる。
そして。
志穂は、ゆっくりと目を開けた。
ここにいても仕方が無い。家族を探そう。
そのままくるりと踵を返して部屋を出る。
隣にある妹の部屋の中を覘き込む。昨日の夜、妹に借りたCDを返しに行った、妹の部屋を訪れた時の記憶はその時のまま……だけど……
「……」
志穂は、目を閉じ、天井を仰いだ。
がさつな自分とは違い、キチンと部屋の整理整頓を心かげている妹の部屋は、いつもいつも綺麗だった。
だけど今……
今、その面影は全く無かった。
自分の部屋と同じに、ガラスが割れた窓。
ひっくり返った机や椅子、床の上に散らばった本やCD、ベッドの上には、昔自分が妹にプレゼントしたクマのぬいぐるみが、いつもいつも大事そうに置かれていたはずだ……
けれど今、それは床の上に落ち、腹から綿をはみ出させた無残な姿になってしまっている。
「果穂……」
志穂は、小さく妹の名前を呼んだ。
もちろん、それには誰も応えてくれない。
「……」
志穂は、ふらふらと……
ふらふらと、妹の部屋を出る。
すぐ隣にある両親の寝室。そこも覘き込んで見る。
妹の、そして志穂自身の部屋と、全く同じ様な惨状が、そこにも広がっていた。
両親が眠っていたダブルベッドは床に倒れ、毛布が丸まって床に落ちていた。
クローゼットの中身が床に散らばり、スタンドが倒れ、窓ガラスは割られている、これだけ家の中を荒らしておきながら、一滴の血の跡も、そして両親や妹の遺体も見つからないのは……一体……
一体、何故なのだろう?
考えられる可能性は……
「……っ」
志穂は、拳を握りしめる。
とにかく、もう……
もう、結論は出た。
「……みんな……」
この家には、誰もいない。
父も、母も……
そして、妹も……
誰も……いないのだ。
もしかしたら……
もしかしたらもう……
みんな……
みんな……
あの、島田のおばあちゃんの様に……
志穂は、その場に……
その場に、へなへなとへたり込んでいた……
目頭が、熱くなる……
涙が、零れそうになる。
嗚咽が、口から漏れそうになる。
否。
志穂は、顔を上げ、そのまま……
そのまま、声を上げて……
泣き、かけて……
だけど……
「ダメですよ」
声が、響く。
背後から……
甲高い、女子の声が。
響く。
そのまま……
ふわり、と。
背後から、両肩を抱きすくめられる。
「っ!?」
志穂は、思わずびくっ、と身体を震わせていた。出かかっていた泣き声が、一瞬にして引っ込む。
「大きな声で泣いたら、外にいる『奴ら』に聞こえるかも知れません」
「美咲、ちゃん……?」
志穂は、目だけを動かして言う。
右肩に顎を乗せて、にっこりと……
本当に、楽しそうに微笑む美咲の顔が、そこにあった。
「ご家族の皆さん、いないみたいですね?」
美咲が言う。
「……っ」
志穂は、何も言わない。
確かに、家の中は無人だ。
だけど……
「まだ、探していないところがあるわよ……」
そうだ。
それは嘘じゃ無い。
少なくとも、まだ……
まだ、一カ所だけ。
だけど……
「そこに、ご家族がいるっていう保証、ありますか?」
「……っ」
その言葉に、志穂は……
志穂は、息を呑む。
「それに……」
美咲が、くすくすと笑って言う。
「いたとしても、ご無事、なんですかね?」
「……そ それは……」
志穂は、呻く。
確かに……
家族が、いるという保証は無い。
いたとしても……
いたとしても……
みんな……
「……みんな……」
志穂は、ぎゅっ、と目を閉じる。
「ここに来る途中……私が銃で撃った、あのおばあさんは、お知り合いですか?」
美咲が言う。
「……」
志穂は、言葉を失う。
「随分と、大切な方だったみたいですねえ?」
美咲は、またしても……
またしても、くすくすと笑う。
「私が撃たなかったら……貴方、あの時、あのおばあさんに『噛まれて』ましたよ?」
「……それは……」
志穂は呻く。
「解りますよぉ? 大切な方、だったんでしょう? そんな人があんな姿になってるんです、怖い、悲しい、辛い、かわいそう、何とかしてあげたい……そんな事を考えて、動けなくなっちゃった、そんなところでしょう?」
「……」
その通りだった。
だけど志穂は、それを言葉にしたく無かった。
この女に……
この女に、心の中を完全に見透かされている。
それを……
それを、知られたくなくて……
「『他人』でも、そんな風になっちゃってるんです、もしも……」
美咲の言葉が、耳の中に滑り込む様に入って来る、この女を、すぐに振りほどきたい、そう思った。だけど……
「もしも、『家族』のあんな姿を見たら……どうですか?」
「……っ」
志穂は、息を呑む。
「どうですか?」
美咲が、もう一度。
もう一度、問いかける。
ぎゅっ、と。
更に強い力で、両肩を抱きしめながら。
自分と同じ、高校二年生のくせに妙に大きな胸の膨らみを、これでもか、とばかりに押しつけながら。
耳に……口を寄せながら。
「どうですか?」
甘い囁き。
耳を唇でついばまれる感触。
「想像、してみて下さい」
美咲が、言う。
「ご両親や、妹さんが……あんな『ゾンビ』になってしまったところを……」
「……う……」
志穂は、呻いた。
それは……
それは……
「嫌、ですよね?」
美咲が言う。
「見たくない、ですよね?」
「……見たくない……」
志穂は、呟く。
「だったら……」
するり、と。
両肩に、絡みつくように抱きついていた美咲の手が離れ、そのまま……
そのまま美咲が、正面に回り込んでくる。
「だったら、見ない方が良い、ですよね?」
「……」
確かに、そうだ。
両親が……
妹が……
あんな……
あんなおぞましい、『ゾンビ』になってしまった姿なんて、見たくない。
でもそれは……
それは、どうすれば見なくて済むのだろう?
そんな方法が、果たしてあるのだろうか?
「だったら」
美咲が、にこにこしながら、すっ、と右手を差し出して来る。
「見なければ、良いんです」
「……それって……」
志穂は言い縋る。
だけど美咲は、それ以上言わせずに、先を続けた。
「見なければ良いんですよ、早い話が……」
美咲は、にっこりと笑う。
「逃げちゃえば、良いんです」
「……逃げる……」
志穂は、呟く。
「そうです」
美咲は、頷いた。
「怖い事、辛い事、悲しい事、何も……見なければ良いんです、私は、そうした方が良いと思います、あの……」
美咲はそこで言葉を切り、目を閉じて、何かを思い出す様な仕草をしてみせる。
「あの、『確認』の時とか、最初に出会った時にも言いましたけど……私は……」
美咲は、志穂の顔を見る。
「何処へ逃げれば安全なのかを、知っています」
「……」
志穂は、言葉を失う。
「でも……」
志穂の脳裏に浮かぶのは、二人の友人の顔。
その中でも……
その中でも、ずっと……
ずっと、想ってきた『彼』は……
『彼』だけは……
「あんな人達と一緒にいても、貴方は……幸せになれませんよ? むしろあの人達は、貴方を……これから……」
「……」
志穂は、何も言わない。
「これから、『残酷』な『現実』に向き合わせようとしているんです」
「それって、どういう意味?」
志穂は問いかける。
だが美咲は、首を横に振る。
「そんなの、もう貴方が気にする必要はありません」
ぴしゃり、と。
今までの、甘く、囁くような口調はなりを潜めた、固く、鋭い口調で美咲が言う。
「貴方が考えるべき事は……そして……答えるべき事は、一つだけです」
「……」
志穂は、言葉を失う。
「私と一緒に、『安全な場所』で生き残るか、それとも……」
ちらり、と。
美咲が視線を、割れたガラス窓の向こうに向けた。
その先には裏庭がある、もしかして……
もしかして、『彼ら』はそこに……?
「それとも、『彼ら』と一緒に、『辛い道』を進むか」
美咲が、艶然と笑いかける。
「どちらにしますか?」
「……あ アタシ、は……」
志穂は、呻く様に言う。
自分は……
自分は……どうしたいのだろう?
もう……家族は……
家族は、何処にも……
何処にも、いない。
きっと……
きっと何処かで、『ゾンビ』と化しているのだろう。そして……
そして、誰かを……
誰かを……
志穂は、ぎゅっ、と目を閉じた。
それらを、見ないで済む。
考えないで済む。
『救わなくて』済む。
そんな……
そんな方法が……
そんな……『道』が……
もし……
もしも……あるのならば……
島田のおばあちゃんを、見た時みたいに……
悲しくて……
辛くて……
怖くて……
そして……
可哀想で……
あんな……
あんな思いを……
しなくて……良いのなら……
美咲が、すっ、と。
右手を、差し出してくる。
「さあ」
美咲が言う。
はっきりとした口調で、言う。
「私と、一緒に逃げましょう」
「……っ」
篤志の顔を、思い浮かべる。
だけど……
その顔が……
どんどん……
どんどん……
真っ黒な色に、塗りつぶされていく……
「……うう……」
志穂は、ぶるぶると……
震える手を、伸ばす。
あの手を、握ったら……
自分は……
自分は、もう……
『彼』と……
篤志と、一緒にはいられなくなってしまう。
それは、嫌だ。
そう思いながらも……それでも……
それでも、父と母、そして妹が、島田の様になってしまった姿を見なくても良い。
その事が……抗いがたい魅力となって、志穂の心に滑り込んでくる。
解らない……
どうすれば良いのか、解らない。
だけど……
だけど今……
今、目の前には……
目の前には、『彼女』がいて……
『彼女』の手は、優しくて、温かそうで……あの……
あの、『ゾンビ』達とは違っていて……
そして……
篤志と、そして……
美雅の手よりも、温かそうで……
その手に、僅かに……
僅かに、指先が触れる。
まさに、その瞬間だった。
ごん……!!
「っ!?」
いきなり響いた大きな音に、志穂は……
志穂は、びくっ、と身体を震わせて立ち上がった。
今のは……?
ふらふらと……
視線を、音がした方に……部屋の窓の外に向ける。
裏庭が、見える。
表の庭の、半分くらいの広さの庭、今では大して大きいとも感じ無いけど、小さい頃はよく、遊びに来た篤志や、美雅、それに妹も交えて、四人で走り回っていた。
そして……
その庭の端の方には、物置が置かれている。
「っ!!」
志穂は、息を呑む。
その物置の前に、数人の人影が見えた。
影のうちの二つ、物置の前に立っているのは、二人の少年……
篤志と美雅だ。
そして……
その二人の間……
物置の扉の前に……
背中を預けるようにして、座っている影……
それは……
それは……
「……果穂……!?」
志穂は、小さく呟いた。
そのまま……
そのまま、弾かれた様に、志穂は走り出した。
美咲に背を向け、バタバタと部屋を飛び出し、階段を駆け下りていく。
「……あーあ……」
それを見ながら……
美咲は、軽くため息をついた。
「もうちょっとだったのに……」
ぶつぶつとぼやきながらも、美咲は、ゆっくりと……
ゆっくりと、階段を下りていった。




