第十五話:脱出
「それじゃあ……」
しばらくして……
美咲が、ゆっくりと立ち上がる。
「私、ちょっとお手洗いに行って来ますね?」
「……一人で大丈夫なのか?」
篤志は問いかける。
「お手洗いなんか、体育館内にありますから平気ですよ、それに……」
美咲はそこで、ちょっと頬を赤らめて俯いた。その仕草は愛らしいけれど、何か……
何か、含みのような物を感じるのは、気のせいなのだろうか?
「それに、ちょっと時間がかかりそうなので……」
「……?」
篤志は首を傾げ、その言葉の意味を問いかけようとした、だけど……
ばしっ、と、横にいる志穂に脇腹を叩かれる。
「バカ!! アンタはちょっとデリカシーってものを考えなさい!!」
「……」
篤志は呻いた。どういう意味なのかは解らないけれど、とにかく、今、彼女にこれ以上余計な事は聞かない方が良い、という事だ。
篤志は押し黙る。
志穂は黙って、美咲に向き直る。
「ごめんね、コイツって本当に、女の子の気持ちとか全然解らない奴だから……」
なんだか志穂の言葉にも、ややトゲがある感じがした。
だけど、篤志はもうそれ以上は何も言わず、黙っていた。
そんな二人を見ながら、美咲はくすっ、と小さく笑い、そのままくるりと三人に背を向けて歩き出す。
ややあって……
「……俺も……」
美雅が、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと用事がある」
「……何処へ行くんだよ?」
篤志が問いかけた。
だが……
美雅は、軽く首を横に振った。
「……野暮用だよ、すぐに戻るから心配するな、お前らは……」
ちらり、と。
美雅の視線が、志穂に向けられる。
「少しのんびりとしてろよ」
「アンタ……」
志穂が小さい声で呟くけれど、美雅はそれ以上何も言わず、ゆっくりとした足取りで二人に背を向けて歩き出した。
「……」
志穂は、ちらりと篤志の顔を見ていた。
篤志は何も言うこと無く、黙って俯いて体育館の床を見て、何かを思案しているみたいだった。その脳裏に浮かぶのがどんな光景なのか、そして……
どんな光景なのか……志穂には解らない。
「……大丈夫?」
志穂は、おずおずと口を開いた。
「……」
それにも、篤志は何も言わない。
何かを……
何かを、考えているみたいに……
その姿は……
今にも……
今にも、壊れてしまいそうで……
「……篤志」
志穂は、小声で呼びかける。
だけど……
篤志が、顔を上げる事は無い。
「……」
篤志は、黙ったままで、じっと視線を一点に向けていた。
そこにあるのが体育館の、何でも無い床だ、という事は解る。
だけど……篤志の目に映っていたのは、そんな光景じゃ無かった。
篤志の目に映っているのは……
篤志の頭の中に浮かんでいるのは……
燃えさかる自宅。
血に塗れた寝室。
そこで、あの二体の『ゾンビ』達に貪られていた両親。
篤志は、気がつけば拳を握りしめていた。
一体、何故あんな『ゾンビ』が突如として現れたのか。
この状況は、いつまで続くのか。
そして……
あの『ゾンビ』達を、どうすれば根絶やしに出来るのか。
解らない。
今の篤志には、まだ何も解らない。
だけど……
このままにしておくつもりは無い。
必ず……
必ず、自分は……
この謎を……
「……」
篤志は、目を閉じる。
黙って、目を閉じる。
志穂が見ている事には……最後まで……
最後まで、気がつかなかった。
「ただいま帰りましたー」
朗らかな声がかかる。
美咲だ。
ニコニコと、相変わらずの愛想の良い笑顔で、すとんっ、と志穂と篤志の間に割って入るように腰を下ろす。
「志穂さん、大丈夫でした?」
「……何がよ?」
志穂は、やや無愛想に問いかける。その問いに、美咲はまたしてもクスッ、と笑う。
結局、それ以上美咲は何も言わず、その場にごろり、と横になる。
「とりあえず、一時間経つまで、少し休みましょうか?」
「……」
篤志は何も言わない。とても眠る気になんかならなかったからだ。
だけど……
「お二人も、少し休んだ方が良いですよ? ずっと……」
美咲が、優しく言う。
「ずっと、気を張り詰めてきたんでしょう?」
「……それは……」
篤志は小さい声で言う。
確かに……その通りだ。両親が死に、学校に来て、この美咲という少女を助けて、ようやく今、身体を落ち着ける事が出来た……そして……
そしてこの先、こんな風に休める時は、もう……
もう、来ないかも知れないのだ。
だけど……まだ、ここから脱出するという問題が残っている……
それを、疎かにして……
「大丈夫ですよ」
美咲が言う。
「とりあえず、準備は全て整えましたから……」
「準備?」
篤志は問いかける。
だけど……美咲はそれ以上何も言わない。
「まあ、とりあえず一眠りしたらどうです? 今は……大人しくしていた方が良いですよ」
「……」
その言葉に、篤志は……
篤志は、体育館の中をぐるりと見回す。
相変わらず、まだ……
まだ、生徒会の生徒達がうろついている。
彼らに目を付けられたら終わりだ……ここから脱出するという計画は破綻してしまう。
今は……
今は確かに、大人しくしているべきなのだろう。
篤志は、渋々、という様子で、その場にごろりと横になった。
その途端に……
「う……」
篤志は、呻く。
思ったほど、疲れてはいないつもりだった。
だけど……
横になった瞬間に……猛烈なまでの眠気が襲ってくる。
「……」
そのまま、何だかもう目を開ける事すらも億劫になって来る中……
篤志は、ゆっくりと……
ゆっくりと……眠りに落ちていった。
どれくらいの間、眠っていたのだろう?
篤志は、ゆっくりと……
ゆっくりと、目を開けた。
「よう」
美雅が、篤志の横に座り、じっとこちらを見下ろしていた。
「お目覚めか?」
「……ああ……」
篤志は頷いて、そのままゆっくりと身体を起こす、身体のあちこちが、ミシミシと音をたてた、あまり寝心地が良いとは言えない床の上で寝ていたせいだろう。
見回せば、志穂も、それにあの美咲も横になって眠っていた。
篤志は、じっと美雅の顔を見る。
「……お前は、大丈夫なのか?」
「ああ」
美雅は頷く。
「あまり疲れてはいないし、それに……」
じっ、と。
美雅が、壁に掛けられた時計を見る。
篤志もそれに吊られるようにして顔を上げて時計を見た。
「……そろそろ十二時だ」
美雅が呟く。
「……」
寝起きの、少しぼんやりとしていた意識が覚醒する。
つまりは一時間が経過した、という事だ。そろそろここを脱出しなければいけない。だけど……
だけど一体……どうやって?
篤志は、眠ったままの美咲を起こして事情を問いかけようとした。
だけど……
それよりも早く……
――いやああ……!!
「……っ」
声が、響く。
体育館の中、ちょうど……
ちょうど、中央辺りからだ。
一体……
一体、何が?
篤志はそちらを見た。
体育館のど真ん中。そこに、折りたたみ式の簡易ベッドが置かれていた。
その上に、両手を縄のような物でぐるぐるに縛られて横たわっている女……
その女に、篤志は見覚えがあった……それは……
それは……
「あの人……あの時の……」
あの叫び声で、さすがに目覚めたのだろう、志穂が小さい声で言う。
そうだ。
それは……
この体育館に入る前……生徒会の役員達に、『噛まれた』赤ん坊を取り上げられてしまい、この中に強引に引っ張り込まれた、あの年若い主婦だった。
『鎮静剤を打って寝かせてやれ』と言った、あの生徒会の役員が、銃を手にバタバタと駆け寄って行く、他の役員達も同様だ。
「……」
篤志は周りを見る。たちまちのうちに、篤志達の周囲には、生徒会の役員は誰もいなくなっていた。
ややあって……
女が、口を開く。
「……何処、なの?」
女が小さい声で言う。
何人かの役員が、銃を構えるが、別な役員がそれを窘める。
「バカ、止せ、彼女は『噛まれて』はいないんだ、無駄弾を使うな!!」
その言葉に、銃を構えていた役員達が、おずおずと銃を下ろす。
「何処、なの?」
女の口から、またしても言葉が漏れる。
「私の……私の子供は……何処?」
「落ち着いて下さい」
一人が前に進み出る。
その手には、今は銃は握られていない。
「貴方の子供は、『噛まれて』いたんです、もう……そうなったらどうすることも出来ません、貴方には辛い事かも知れませんけど……もうあの子は……」
「嘘よっ!!」
女がヒステリックに叫ぶ。
そのまま……
両手を縛っている縄を、ぐいっ、と横に広げて引っ張る。
「あの子は『噛まれて』なんかいない……あの子は大丈夫なの、大丈夫なのよおっ!!」
その言葉に、その役員は頷く。
「そう思いたい気持ちはわかります、ですが……」
「黙りなさいっ!!」
女が叫ぶ。
そのまま……
そのまま、更に強い力で、ぐいっ、とロープを左右に引っ張る。
ぶち……と。
微かな音が、響いた。
「……っ」
ロープが、切れようとしている?
バカな……
あんなか細い主婦に、一体……
一体、何でそんな力が……?
「……?」
篤志は、そこで気づいた。
違う。
ロープに、切り込みが入れてあるのだ、ナイフか何かで、予め切り込みを入れておいたのだろう、あんな細い女性の力でも、簡単に引きちぎれるほどの切り込みを……
「おい……!!」
生徒会の役員の一人が怒鳴る様に言う。
「誰だ!? ロープに切り込みなんか入れたのは……!?」
「返して……」
女の声が、その怒声に被る。
そして……
ぶち……
ぶち……
ぶち……と。
ロープが千切れる音が響く。
「誰か鎮静剤を!!」
「……もう良い、殺せ!!」
「騒ぐな、外に聞こえる!!」
生徒会の役員達の声が、いくつも聞こえる。
そうしている間に、ついに……
ぶぢぃっ!! と。
一際大きな音が響く。
そして……
女の手首を縛り付けていたロープが、完全に……
完全に、引き千切られた。
そして。
「私の息子を……返してよぉっ!!」
叫びながら、女が近くにいる生徒会の役員に飛びかかる。
「うわぁっ!!」
飛びかかられた生徒会の役員が声をあげる。
すぐに、他の役員達がバタバタとそちらに向かって行く。
「……」
その光景を呆然と見ていた篤志は、横からぐいっ、と手を引っ張られる感覚に、我に返った。
美咲だ。ニコニコと愛想良く笑いながら、そのまま篤志の手を引っ張って体育館の裏口に向かおうとする。
「さあ」
美咲が言う。
笑顔のままで。
「今のうちに、裏口から出ましょう」
「……」
篤志は何も言わない。
そのまま、更に強く手を引っ張られる。
ちらりと中央を見る。
まだ、体育館の真ん中では女がヒステリックに騒いでいる、生徒会の役員達も、更に騒いでいたけれど、誰も……
誰も、篤志達の方を見ていない。
確かに……
確かに、今ならば脱出出来る。
篤志は美咲の顔を見、そして……
そして、頷いた。
そのまま立ち上がって、素早く裏口まで向かう。近くにいる何人かの人間が、それに気づいて声を上げたけれど、誰もそんなものに反応しない。
そのまますぐ裏口にたどり着く。
裏口近くには、一人の女子生徒が立っていた、『生徒会』の腕章を付けている。ここからは見えないけれど、体育館の中の喧噪は聞こえているのだろう、ややその表情が不安そうだ。
「あ あの……」
女子生徒が、不安げに言う。
美咲が、ばっ、と素早くその前に立ちはだかる。
「体育館で、女の人が暴れてるの」
「……え?」
女子生徒は、びくっ、と身体を震わせる。
「みんなで取り押さえようとしているわ、貴方も行った方が良いわよ?」
「で でも……私はここを見張っていないと……」
女子生徒がちらりと扉を見る。
「それなら大丈夫よ」
美咲が、少女にすっ、と顔を近づける。
「ここは、私が見ててあげる、貴方は、体育館のみんなを手伝ってあげて」
「……で でも……」
女子生徒が頬を赤らめる。
美咲は、にっこりと笑いかける。
「もし、貴方が生徒会のみんなと一緒にあの人を取り押さえるところを見たら、私……」
すっ、と、美咲がその女子の耳元に口を寄せる。
小さい声で、何事かを囁く。
「……」
篤志は、耳を澄ませた。
『貴方を、好きになるかも知れないわよ』
そんな囁きが、聞こえた。
「……」
その言葉に……
その女子生徒は、耳まで真っ赤になりながら……
ふらふらと……
体育館の方へと、歩いて行く。
「……」
美咲は……
その後ろ姿を、艶然と微笑みながら見送っていた。
「……アンタ……一体……」
志穂が、じっと美咲を見る。
「はい?」
美咲は、そんな志穂をにっこりと微笑んで見た後……篤志と美雅を見る。
「私は、ただ、皆さんの脱出を手助けしただけですよ?」
そのまま美咲は何の躊躇いも無く、体育館裏口の鍵を開ける。
そして……
きぃい……と。
裏口の扉を開けた。
びゅうう……と。
生暖かい風が吹き付ける。
いつもならば、生徒達の喧噪が響く校内は、今ではしん、と不気味な静寂に包まれている。
そのまま四人は、その静まり返った校内を進み、グラウンドを横切って校門の方まで向かう。ついさっきまでグラウンドに溢れていた『ゾンビ』達は、いつの間にか影も形も無くなっていた、恐らく、辺りが静かなせいでこの付近には『獲物』はいないと判断して移動して行ったのだろう。
そのまま校門から外に出る。
この滝山高校は、住宅街の一角にある、日曜は周りにある家にも人がいる、中にはまだ小さい子供がいる家だってあるから、休日となれば賑やかになるはずだ……
だけど……
だけど今……
校門の外の住宅街は、しん、と静まり返っていた。
何処の家も、ぴったりと扉を閉ざし、中からは物音一つ聞こえない、あの中に、家の住人達は隠れているのだろうか? それとも……
それとも……もう既に……
「……」
篤志の脳裏に、変わり果てた両親の姿が浮かぶ。
すぐ隣にある家を見る、確かこの家には老夫婦が住んでいたはずだ、いつもいつも、妻である老婆が道を掃いていて、通りかかる学生達ににこやかに『おはよう』と声をかけてくれていた、篤志も何回か、挨拶を返したことがある。逆に夫の方はあまり出てこないけれど、たまに出てくると、やはり愛想良く笑いかけてくれた。
だけど……
今、家の中からは何も聞こえず、正面の扉も閉ざされたままだ、庭に面した窓ガラスは、大きな穴が開いてしまっている、もしかしてあそこから……『ゾンビ』達が侵入して……
篤志は、軽く頭を横に振った。
今は……考えていても仕方が無い。
それに、自分達にはするべき事がある。
篤志は、ゆっくりと顔を上げた。
「……それで」
口を開いたのは美咲だ。
「まずは、何処へ向かうんですか?」
「ここから近いのは、志穂の家だ、まずはそっちへ先に向かおう」
美雅が、淡々と言う。
「……アンタ、良いの?」
志穂が問いかけるけれど、美雅は頷いた。
「構わないさ、さっきも言ったけど、うちの親は今日は職場にいる、あそこは街の外れだから、まだ、奴らも来てないかも知れない」
そう言いつつも、美雅の口調は、そんな事は無い、と感じているみたいだった。
「どちらにしても、近いところから行くべきだろう?」
「……」
篤志が、何かを言うよりも早く、美雅はそうはっきりと告げた。それ以上、この事に関しては言わない、という雰囲気で……
「解った、それじゃあまずは志穂の家に行こう」
篤志は頷いた。
そこでふと、篤志は隣を見る。
「……君は、家は大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ、どうせうちの親は、今日も何処かに遊びに行ってますし」
篤志の言葉に、美咲はニコニコしながら言う。
「……」
それが嘘だ、という事は、何となく篤志にも想像がついた。
だけど……
「大丈夫ですってば、今重要なのは、お二人のご両親でしょう?」
美咲は、それだけを告げ、そのまますっ、と篤志の横を離れ、まるで寄り添うように志穂の隣に立った、それ以上の言及は、しないで欲しい、美雅と同じに、その背中からは、そういう雰囲気が感じられる。
篤志も、もうそれ以上は何も言わなかった。
「でも……」
志穂が、小さい声で言う。
「ウチにつくまでに、もし……あいつらに会ったら……?」
その言葉に、篤志は俯く。
確かに、今の自分達は丸腰だ……
そんな時に、あの『ゾンビ』達に出くわしたら……?
「それなら大丈夫ですよ?」
志穂の横に、寄り添うように立っている美咲が、朗らかに言う。
「……どうして?」
志穂が問いかける。
美咲は、またしてもニコニコと笑い、スカートの左右のポケットに手を入れる。
そこから、カチャ、と取り出したのは、一挺の銃だった。
「……っ」
志穂が息を呑む。
美咲はにこにこしながら、その志穂の手に、やや強引に右手の銃を握らせる。
そのままブレザーの胸元のポケットにも手を突っ込んで、やはり銃を取り出し、篤志と美雅に向けて差し出した。
「……お前……」
美雅が呆然と言う。
「いつの間に……?」
「あの女の人のロープを切る前に、ちょっとだけ、体育館を探し回って、ね?」
美咲は、可愛らしくウィンクして見せた。
「……」
それで篤志も納得した、あのロープが簡単に切れたのは、やはり誰かが切り込みを入れていたのだ、しかもそれをやったのが、この目の前にいる少女だったなんて……
銃を受け取りながら、篤志はもう一度、美咲を見る。
「君は、一体、なんで俺達にそこまでしてくれるんだ?」
その問いに、美咲は……
美咲は、軽く笑う。
「大した理由は、ありませんよ」
美咲は、小さい声で言う。
だけど……
そのまま何も言わず、美咲はくるり、と二人に背を向け、またしても志穂の横に寄りそうように立った。
「……ああ、因みに」
そこで美咲は、ちらりと二人を振り返る。
「残念ですけど、予備の弾、とかまでは手に入らなかったので……」
「……」
篤志は、じっと手元の銃を見る。
つまり、全弾打ち尽くしたらその時点でもう撃てない、という事か。
「使いどころは、よく考えろ、という事だな?」
美雅が言う。
「そういう事です」
美咲は、頷いた。
「それじゃあ、行きましょう」
そして……
美咲を先頭に、一同は……
ゆっくりと、歩き出した。




