その九十九 薩摩の撤退劇
「皆の者、目指すはあれに見える徳川本陣、続けーーーーー」
島津義弘は僅か三〇〇程の残存兵力で密集隊形を造り、関ヶ原の中央近くまで前進している徳川本陣を目指して駆け出した。
先頭の義久に続いて長槍隊、抜刀隊、騎馬隊が続き側面に鉄砲隊、弓隊が張り付くひし形の一点突破隊形である。
徳川本陣まで五、六百米といったところか。
まさか今頃になって西軍から組織的な反撃が行われるとは誰も予測していなかった。
本陣警護の旗本衆は家康の指示で西軍掃討にすでに大半が繰り出されていた。
本陣は丸裸同然である。
島津の突進に一番最初に気付いたのは宇喜多を討ち破った福島正則であった。
「待て正之、手を出すな」
島津と徳川の間に割って入ろうとする若年の養子を正則は制した。
「負けと決まったのに、あのような捨て身の突撃を仕掛けるなど尋常では無い。
よほど腹に据えかねる事があるのだろう。武士の情けである、一太刀浴びせさせてやれ」
・・・・ 窮鼠猫を噛む、もし島津が内府と刺し違えるようなこととなれば、豊臣にとって最も良い結末になる ・・・・
正則は島津に一縷の望みを託した。
かなり遅れてばらばらと井伊の赤備えの一団が林間部から現われた。
「隊列などどうでも良いからさっさと追撃しろー」
騎乗した直政が必死の形相で兵に檄を飛ばしながら追撃に移ろうとしていた。
相当な慌て振りである。
これで正則は自分の読みが当たっていたと確信した。
・・・・ どさくさに紛れて不戦の密約を反故にして義久を消そうとしたな ・・・・
・・・・ 内府とはなんと汚い奴だ ・・・・
・・・・ 俺はあんな奴に手を貸して宇喜多や三成を ・・・・
「むむっ、何だ今頃 ・・・・ 」
すでに下馬して次々と入る戦勝の報を聞いていた家康の耳にも島津の軍勢が駆け寄る蹄の音がとどいた。
見上げた先に一塊になって一直線に突っ込んでくる、黒地に白抜きで十の旗が見えた。
「島津かっ ・・・・ 」
本陣は騒然とした。
家康は恐怖のあまり脱糞を堪えるのが精一杯で一歩も動けなかった。
「義弘がまだ生きておった」
このままの勢いでは本陣に乗り込まれる。
一直線に徳川本陣を目指していたかに見えた島津勢は右に急転して左翼から鉄砲の斉射を本陣に浴びせてそのまま南の方角へ駆け去っていった。
家康の周りを鉄砲玉が空気を切り裂いて通過する音が飛び交った。
生きた心地がしなかったが無傷であった。
義弘の目的は家康と刺し違えることでは無かった。
たとえ家康と刺し違えたとしても全滅は免れないし、薩摩も滅亡する。
この撤退劇で家康が何らかの理由で義久を激怒させた事は諸侯に知れ渡り、無下に島津を滅ぼすことは出来無くなった。
義弘の目的は達せられた。
あとは少しでも多くの兵を薩摩まで連れ帰ることである。
本陣に手を付けずに駆け去る島津勢を必死の形相の井伊直政が追った。
その様子を逐一目撃した正則は舌打ちした。
「ちっ、義弘め、端から内府と刺し違える気は無かったな。
あのまま突っ込んでおれば内府を討ち果たせたかもしれなかったのに。
しかし島津を取り逃がすようなこととなれば内府にはさぞかし痛手であろう。
密約を反故にしてまで義久を亡き者としようとしたことが明るみになれば、この先誰も内府を信用しなくなる。
この戦も豊臣の為などと云うのは欺瞞で、己が野心の戦であったと云う事にもなろう」
正則の心は関ヶ原の混乱の中で、すでに家康から離れていた。