その九十三 クーデター
・・・・ 治部殿、いま少し待たれよ。あとすこしで大きな魚が網にかかり申す ・・・・
秀秋に三成からの狼煙は見えていた。
ただもう少し辛抱すれば内府が関ヶ原の真ん中までやってくることも知っていた。
小早川への合図として。
同じ光景を違う目で眺める者がすぐ近くにあった。
・・・・ これはまさに長篠の合戦の再現ではないか ・・・・
家康から軍監として小早川に派遣されていた奥平貞治は松尾山の眼下に繰り広げられる光景に、かつて自分が織田・徳川連合軍として参加した長篠合戦の再現を見せられているかの様な錯覚を覚えた。
西軍の軍師、大谷吉継とはとんでもない男である。徳川殿が警戒されるのももっともである。
はるか二十五年前に当時最強を誇った武田の軍勢を、傭兵の寄り合い所帯で打ち負かした信長公の秘策を、当の徳川相手に仕掛けてこようとは ・・・・ 。
しかし、それにも増して驚くべきは敵の策を読み切った家康殿の慧眼である。
今時は長篠の合戦の名前だけは知っていたとしても、その恐ろしさまで知る者はまずおるまい。
あれは個別兵員の戦闘力が高い軍隊ほど深く嵌り込み、気が付いたときには敵の反転攻勢に壊滅的な損害を蒙る恐ろしい罠だ。
奥平はようやく己が小早川に派遣された訳を理解した。
「ここで万一小早川が西軍に寝返ろうものなら東軍はたちまち壊滅させられてしまう。
家康殿が軍監として某を遣わした理由はこのためだったのか。
誰よりもこの後手必勝の待ち受け戦の恐ろしさを知る貞治なら、よもや対応を誤ることは無いであろうと ・・・・ 」
その貞治の向こうでは小早川の若き当主が腕組みをしたまま東西両軍の熾烈な戦いを眺めていた。
その様子からは、秀秋が徳川を裏切る気配など微塵も感じられなかった。
ただただ家康からの総攻撃の合図を待ちわびているかに見えた。
そのとき東軍の後詰から山内と有馬の陣旗の群れが宇喜多に苦戦する福島隊の支援に入る動きが見えた。
さすれば小早川の出番もそろそろである。
すると遥か後方の桃配山の麓にあった徳川の本陣が家康の馬印と共に関ヶ原の平野部中央近くまで出張ってくるのが覗えた。
・・・・ 御味方ながらなんともちっぽけな本陣で御座る ・・・・
その数五千ほどか。
一方、秀秋の思いは別のところにあった。
・・・・ 内府め、やっと網に入ったか ・・・・
秀秋はこのときを待っていた。
家康と交わした総攻撃の合図、徳川本陣の前進を見極めるまでは出撃を堪えていたのだ。
秀秋は物見から小早川諸将が待ち受ける陣幕に戻った。
小早川の武将の多くは不承不承ながらも西軍への攻撃命令を待っていた。
秀秋は小早川の軍団長たちをぐるっと見回すと確固たる決意を込めた力強い声で命じた。
「これより小早川は大坂方に御味方致す。第一軍は大谷勢の支援に、第二、第三軍は宇喜多勢の支援に、以降全軍を以って笹尾山本陣を取り巻く徳川軍を蹴散らせ」
松尾山の本陣が「おおっ」とも「はぁぁ」ともつかぬどよめきに包まれた。
あまりの唐突さに呆然とする平岡、稲葉の両家老を差し置いて、徳川軍監の奥平貞治が目を吊り上げて進み出た。
「小早川殿、このような裏切り、お家の為になりま ・・・・ 」
背後から何者かが飛び出してきた。
「無礼者め」
奥平が全て言い終る前に第一軍の大将、松野重元が皆の目の前で奥平をたたっ切った。
不意を突かれた奥平は何の抵抗も出来ずに絶命した。
貞治の共の二人も刀を抜く前に松野の手の者に全て打ち倒された。
「殿の上意で御座る。異を唱える者は小早川の者とてこの場で上意討ちに致す」
松野重元が気迫でその場を制圧した。
同時に松野の配下が本陣を取り囲んだ。
これに及んで徳川に内通していた平岡頼勝と稲葉正成も秀秋に従わざるを得なくなった。
「平岡、稲葉、其の方たちの小早川のためを思う忠節ももっともなれど、我は最初から徳川と戦う覚悟である。
その方たちの返答如何によってはこの場で切腹申し付けるが如何に!」
このとき有無を言わさず二人とも始末しておけばその後四〇〇年の日本の歴史は全く別なものとなっていた。
「 ・・・・ 上意に従いまする ・・・・」
「 ・・・・ 仰せの通り ・・・・ 」
二人は大変な事になったと思いつつもこの場は秀秋に従った。
「殿、この二人はまだ信用なりませぬ、戦が終わるまで縛り上げておいた方がよろしいかと」
松野の提案を秀秋は抑えた「そこまではしなくても良い、両名とも小早川の為を思ってのことである。
東軍への攻撃が始まればもう後戻りは出来ぬ」
松野は秀秋の警護に五十名ほどを残して自分の第一軍一〇〇〇名の部隊を率いて松尾山裏手のの大手道を駆け下って行った。
それを見送った二人の家老達の動きは素早かった。
すぐさま自分の手の者に命じて秀秋と警護の五十名を逆に取り囲んだ。
「平岡、稲葉、何をしておる、我が命が聞けぬと申すか」
二人とも必死である。
「たとえここで徳川に一勝したとしても、徳川の本隊も世継ぎと共にそっくり残っておりまする」
「ここで徳川を裏切るようなことを致さば、いずれ小早川は皆殺しの目にあいまするぞ」
彼らには彼らの正義と野心があったのだ。
稲葉正成は主君の首筋に刃を突きつけた。
「殿、お許し下され。戦が終わるまでは御身柄を預からせていただきます」
たちまち立場が逆になった。
秀秋がいくら命じても兵達は家老達の命令しか聞き入れなかった。
秀秋を無力感がおそった。
秀秋の見張りには若い稲葉が残り、年長の平岡は騎馬の腹心を引き連れて先発した第一軍を追いかけた。
・・・・ なんとしても徳川への裏切りを止めねば小早川は消滅してしまう ・・・・




