その九十一 狼煙
「小早川に向けて狼煙を上げよ」
三成が待ちに待った反転攻勢の機会が訪れているのが笹尾山の本陣から見て取れた。
眼下では島左近と小西行長らが一時半近くも細川忠興や黒田長政、加藤嘉明ら東軍主力の波状攻撃を何度も退けていた。
宇喜多勢も福島正則を当初の位置より後退させている。
大谷吉継の精鋭部隊も藤堂高虎と五分以上に渡り合っている。
東軍は攻勢の頂点を過ぎ、じり貧の状態に陥りつつあった。
西軍の温存部隊で総掛かりの反転攻勢を仕掛けるのは、今この時をおいてほかに無い。
その温存させた小早川の大軍が陣取る松尾山からも、西軍の優勢が手に取るように窺えるはずである。
しかし狼煙を何度立ち昇らせても小早川の幾重にも重なる陣旗に動きは見られない。
三成の背に冷たい汗が流れた。
・・・・ まさか ・・・・
「今一度総攻撃の狼煙を上げよ、戦況の検分に夢中になって見逃しておるやも知れぬ」
次いで三成は、優勢を維持するために麓の西側で井伊の赤備えと睨み合いを続けている島津勢にも平野部へ進軍するように伝令を出した。
・・・・ 機を逃せば先に東軍に後詰めが入って来よう ・・・・
その読み通り家康は本陣に次々届く前線部隊の苦戦の報に速やかに援軍を送る指示を出していた。
「後方の有馬、山内の二隊へも前線への進軍を命じよ」
本来後方側面の南宮山に布陣する西軍の吉川、毛利、安国寺らの大軍を牽制させておくべき軍勢である。
「後方の守りは浅野幸長と池田輝政だけで事足りよう」
・・・・ 吉川広家は約束を違えず毛利を抑え込んでおる ・・・・
「援軍は平地に突出している宇喜多に集中させよ、主力の前線を持ちこたえさせるのだ」
長篠の戦いのとき、囮として平野部で武田の猛攻を凌いだのは徳川の軍勢であった。
・・・・ あそこが一番しんどいのは我が身が一番知るところである ・・・・
前半戦に於ける家康の狙いは敵味方の戦力の均衡を図り戦線を膠着させて戦いを長引かせ、双方を消耗させることにあった。
狙い通り各前線は西軍の優勢で膠着していた。
そろそろ敵の反転攻勢潰しに取り掛かる頃合である。
「敵の本陣から狼煙が上がった様である。頃合である、我が本陣も平野部に前進せよ」
後詰めの援軍に続いて家康の本陣も平野部に進軍した。
何しろ四、五千ばかりの旗本だけの粗末な本陣なので移動も容易い。
・・・・ おかしい ・・・・
宇喜多勢との激戦が続く福島正則はこのときになって家康の布陣と攻撃の在り方に疑問を持ち始めていた。
・・・・ どこも敵味方の戦力が予め推し量ったかのように一致しすぎている ・・・・
何故戦力を一点に集中して個別撃破で戦局を有利に持っていかぬのだ。
・・・・ これではまるで豊臣同士の潰し合いのための戦では無いか ・・・・
家康は前日に大垣城と対峙する赤坂の岡山に入るとすぐさま関ヶ原に進軍を命じた。
嫡男の秀忠率いる徳川本隊を待とうともせずに。
・・・・ 内府と東海道を来た徳川軍はいったい何人だ ・・・・
本多と井伊や忠吉を合わせても一万居るか居ないかなのではないのか。
・・・・ さては内府め端から徳川は手を下さず漁夫の利を目論見おったか ・・・・
正則は先頭を切って家康の御先棒を担いだことを後悔しはじめていた。
しかし時すでに遅し ・・・・
一方、関ヶ原の命運を握る松尾山の小早川秀秋には三成の狼煙はもとより、家康との間で攻撃開始の合図とした本陣の前進も見て取れた。
このとき秀秋はそれまでの態度を一変させ、誰もが予想しない命令を下すのであった。