その九十 吉継の勝算
大谷吉継については後世 "負けると分かっていながらも三成との友情に殉じた男" という見方が大勢である。
西軍の大名の中で只一人戦闘中に自刃して果てた壮絶な最後も、後の世の人々に潔い人物と映ったのであろう。
しかしながら当時、戦に負けるということは当主の命のみならず一族郎党の生命財産が根こそぎ失われかねない大災厄である。
だからこそ関ヶ原を前にした大名達はどちらに付くかで逡巡し、まともな神経の持ち主は皆徳川に加担したのである。
関ヶ原に参陣した大谷軍の兵士は総勢六千人である。
士卒の妻子や親兄妹まで数えたら何万人もの人々の行く末が戦の勝敗に左右される一大事である。
当主の友情云々だけで軽々に負け戦に加担できる訳が無い。
吉継は本当に負けると思っていたのだろうか。
否。
吉継には確固たる勝算があったはずである。
徳川との決戦を前にした吉継は徹底的に家康本人になりきり、家康がどう動くであろうかに思いを巡らせたはずである。
いかに二百五十万石を誇る徳川とて天下を二分する大戦に於いて、激しく消耗する訳にはいかない事情を抱えていた。
東北の覇者伊達の存在である。
大坂方との決戦が長引いたり、徳川が消耗著しいと見るや、伊達正宗は上杉や最上と結んででも電光石火関東へ攻め込んでくる可能性が大いにあった。
家康は今度の騒乱を己の天下取りではなく、あくまで豊臣家中の主導権争いとしておきたいはずだった。
三成を豊臣家に巣食う獅子身中の虫と吹き込み豊臣大名同士を戦わせて共倒れにさせ、徳川を無傷のまま温存し漁夫の利を得ようと画策したのである。
家康が上杉征伐に同行する豊臣大名達に三成が挙兵したことを知らせ、妻子が残る大坂方に付くのか、行動を共にする徳川に付くのか、二者択一を迫るであろうは徳川の支配地の江戸を過ぎてからと予測した。
老獪な家康は大名達が徳川領を避けては西に帰れぬところまで連れ出してから進退を迫るであろうからだ。
そこで真田の出番である。
吉継は来たるべく徳川との決戦を予想して真田を自陣営へ取り込んでいた。
吉継の娘、於利世を真田の次男信繁(後世幸村)に嫁がせていたのだ。
信繁は吉継をして男と見込んだ人物であった。
吉継の意を受けた真田が徳川に反旗を翻すと、はたして吉継の読み通り家康はこれ幸いと徳川本隊の大半を中仙道に振り向けた。
しかしながら真田は長男の信之が徳川方に、弟の信繁と父昌幸が豊臣方へと袂を分かって、親兄弟で敵味方となる苦渋の道を選ぶ事となったのである。
徳川の大軍に包囲されようかという上田城の於利世から、吉継へ向けた最後の知らせによると中仙道を来る徳川の本隊はなんと七万。
これでは東海道を家康に従軍する徳川の軍勢は僅か一万あるか無いかということになる。
真田に手こずるを大儀名分に徳川本隊をわざと遠回りさせ、豊臣の大名同士を争わせて双方を消耗させる魂胆が丸見えであった。
激戦ともなればたとえ勝ったにしてもその消耗は激しく、多少の加増ぐらいではとても短期間で回復はできない。
その間に徳川の天下を ・・・・ という腹だ。
徳川はかつて上田城で真田に大敗を喫しており、ほぼ全軍ともいえる軍勢を差し向けても誰もそれを疑うことはなかった。
吉継の狙い通りに事は進み、これで関ヶ原で相対するのは家康に尻尾を振る寄せ集めの豊臣大名達ということになった。
吉継の頭脳は全速力で回転し、家康の裏を斯く戦略を構築した。
敵の主力は徳川ではなく、三成憎しと怒り狂う細川忠興や福島正則ら戦意の高い連中が前面に出てくるはずである。
頭に血が昇って前のめりになる敵におあつらえ向きの策があった。
当時十六歳の吉継が羽柴秀吉に仕官を求めるきっかけともなった、織田信長が武田勝頼を打ち破った長篠の戦いである。
これこそ天才信長が編み出した後手必勝の待ち受け戦である。
あたかも偶発戦を装って戦意の高い敵を密かに構築した野戦陣地に誘い込み、何度攻め込んでも一向に埒があかない状態に陥らせる。
次第に敵の戦闘力を殺いでいき、ここぞというときに新手の反転攻勢部隊をなだれ込ませ一気に敵を殲滅する戦術である。
無敵を誇るような強力な敵に対しても、頭数さえ揃えれば自動的に勝ちが転がり込んで来る作戦である。
これは自分たちが戦闘力で勝っていると慢心している敵ほど深く嵌まり込む恐ろしい罠である。
無敵を誇る武田騎馬軍団もこの策に嵌り込み、傭兵の寄せ集めに過ぎない織田軍に大敗を喫し、やがて武田は滅亡したのである。
後世、武田は信長が編み出した木柵と鉄砲三段撃ちに敗れたとされるが、それは野戦陣地の一部の特徴だけが強調されて後の世に伝わったものである。
あくまで偶発戦を装うことがこの作戦の肝であり、初めからそこに柵やら土塁やら陣地が構築されていると悟られてしまえば、横に回り込まれてはいそれまでである。
現に第二次世界大戦では、フランス陸軍が誇るマジノ線はドイツ機甲師団に迂回されてしまい、あっという間にパリは陥落した。
さらに吉継は反転攻勢を仕掛ける大部隊の配置に驚くべき細工を施そうとした。
それは家康に味方と思い込ませた大部隊を要所に配し、土壇場で家康方に突入させるという恐るべきものであった。
徳川本隊を出し惜しみしたい家康は各地の大名達に自軍に味方するように書状を出しまくっていた。
それを逆手に取り、徳川に内通したかに見せた大部隊をおおっぴらに要所に配置しようと考えたのである。
吉継が白羽の矢を立てたのはかつての豊臣の後継者、小早川秀秋であった ・・・・