その八十四 関ヶ原会議
慶長五年(1600年)九月十五日 関ヶ原
今まさに関ヶ原では諸国の主だった大名達が集い今後の豊臣政権の指導者を誰に決めるかの会議が開かれようとしていた。
全国の知事や市町村長が一同に会して総理大臣を選ぶようなものである。
ただし議場を飛び交うのは意見や主義主張ではなく弓矢や鉛玉であり飛び散る火花は剣戟の火花である。
正に実弾が飛び交い命の遣り取りで意見を通す迫真の議場である。
事前の根回し有り、多数派工作有り、議論の行方によっては多数派が割れたり、途中棄権する者が現れたり、主義を翻す者が出たりするのは会議の在るべき姿そのものである。
薄に覆われた荒野の議場はすでに埋め尽くされていた ・・・・
双方の布陣は日の出前にほぼ終わっていた。
日が昇るにつれて消え失せるであろう霧の海原を眺めながら、家康はようやくここまで辿り着いたという感慨に浸る余裕があった。
霧の海に呑み込まれず、山上で旗を朝日にはためかせている輩は日和見連中である。
家康は、たとえこの合戦に敗れたとしても痛くも痒くもなかった。
譜代の武将は、まだ二十才にもならぬ四男の忠吉とその舅の井伊直政、そして本多忠勝だけである。
徳川直参の兵は全部合わせても一万いるかいないかであった。
虎の子の徳川本隊と後継者はわざと遅参させて温存してある。
戦で消耗するのは皆、豊臣の大名達である。
奴等は朝鮮での消耗からすら立ち直っているとは云えない。
だからたとえここで負けても伊達と組んで幾らでも再戦出来る。
伊達も徳川も半島への渡海を免れ消耗していなかった、 ・・・・ 太閤の意図に反して。
この決戦に際しての家康の危惧は事前に全て解決済みであった。
越中前田利久が越前で大谷吉継に足止めを食らったのは確かに痛かった。
おそらく吉継の巧みな調略によって懐柔されたのであろう。
その強かな大谷吉継さえ潰す手立ては講じてある。
立花宗虎の無敵を誇る鉄砲隊も決戦の場から遠ざけてある。
秀頼が千成瓢箪の馬印を掲げて総大将に担ぎ出される心配も消え失せた。
家康にとって、これから始まる合戦は天下分け目でも何でも無く、ところてんの様に天下が自分の目の前に押し出されて来るのを見守るだけのものであった。
・・・・ 命がけで戦に臨むなどもうこりごりだ ・・・・
思い起こせば、家康が本当に命を賭けた記憶は、信玄に挑戦した三方ヶ原と浅井長政の裏切りから窮地に陥った信長を逃がす為に、
秀吉と共に殿軍を務めた朝倉攻めのときの二回だけだった。
その武田の赤備は井伊直政の配下として眼前にあり、双璧を成した上杉は兼続が反対方面に連れ出している。
・・・・ 戦とは勝つことが判ってから勝ちを拾いに来るものである ・・・・
家康は随分前から自分自身にそう課していた。




