その八十三 攻防長谷堂城
慶長五年(1600年)九月十五日 出羽長谷堂城
「兼続殿、城兵千人足らずの支城如きに上杉二万五千の全軍で総掛かりになることは御座らぬではないか。
四、五千の軍勢を割いて見張っておれば事は足り申す。
それより敵の本拠地の山形城は目と鼻の先で御座る。
そちらとて四、五千足らずの城兵しかおらぬのに何故、城下に攻め込まぬのでありまするか」
上杉家新参与力の上泉主水は兼続の煮えきらぬ攻撃方法に業を煮やして食って掛かった。
「主水殿、其の方は新参ゆえ最上の強さを判っておらぬようだな」
兼続はいつもの人を食ったような物言いで主水に言い返した。
「最上は二十四万石の小国ながらその実は五十万石にも匹敵する軍備を備えておる。
鉄砲の数も我が上杉と互角の二〇〇〇丁は下らぬ、しかも堺で買い付けたばかりの命中率を上げた新型の鉄砲である。
米も豊富ゆえ兵糧も数年は持ちこたえるであろう。ほれ、其の方が今足で踏んずけておる稲穂だけで茶碗に一杯分は御座ろう。出羽の国力を侮ってはならぬ」
何がなんだか判らぬ屁理屈をこねて、兼続は一向に本気で攻め立てる気が無いようである。
主水は無理繰り兼続から五〇〇名の先方隊を借り出すと、先頭にたって城山目掛けて勇ましい突撃を仕掛けた。かに見えたが城山の周囲は畦道しかない田んぼである。
細い畦道を行くものは一列になったところを鉄砲で狙い撃ちされ、それではと田の中を行く者はぬかるんでまともに進めないところを狙い撃ちされてと、攻め処が全く無かった。
最上は長谷堂城に篭る千名の城兵に五〇〇丁もの新型鉄砲を用立てて武装していたのである。
一本あったはずの城山へ繋がる荷駄道はすでに破壊されてそこも泥濘 にされていた。
城代の志村光安はなかなかの軍略家で戦上手だった。
なにしろ最上には半年もの準備期間があったのだ。
長谷堂城は徹底的に要塞化されていた。
城兵は自在に山を昇り降りしているようだが攻め手からはどこに通路があるのか判らなかった。
鬱蒼と山を覆う山林には至る所に罠が仕掛けられて迂闊に近寄れず、城兵だけが移動出来るように塹壕が掘られていた。
城山の周囲の収穫間近まで実った稲穂には至る所に鈴が取り付けられていて、夜襲を掛けるのも厄介である。
・・・・ さすがは最上殿、なかなか堅固な砦に仕立てられておる。これなら手間取ってもいくらでも言い訳が付く ・・・・
その同日同時刻に関ヶ原に於いては、予想外の西軍の奮闘により膠着状態が続いていた。