その八十一 助命嘆願
文禄四年(1595年)八月二日 伏見城
三条河原でもうすぐ駒姫が処刑される事態に及んで、最上義光は徳川家康に太閤への最後のとりなしを願い出た。
事態を重く見た家康は義光を伴って伏見城の秀吉に喫急の接見を求めた。
義光は一命を賭す覚悟で訴えた。
「太閤殿下、駒姫は秀次様に請われて遠路はるばる出羽から到着いたしたばかりで御座います。
秀次様に加担することも、秀次様の御子を宿すことすら有り得ぬことで御座います。
その駒姫が何故連座して処刑されねばならぬのでしょうか」
家康の口からも駒姫が奥州から聚楽第に到着したのが秀次が高野山に出家した後であること。
駒姫は秀次とは一面識も無いことなどを改めて述べ、駒姫まで連座して処刑する非を説いた。
駒姫のために太閤に助命嘆願をとりなしてくれる家康に最上義光は心の底から感謝した。
秀吉は終始無表情で取り付く島も無いといった風情であった。
駒姫の処刑の刻限は刻一刻と近づきつつあった。
ここに及んで義光は秀吉に最後の条件を提示するしかないと覚悟を決めた。
「太閤殿下、駒姫の命をお救い頂ければ、駒姫は生涯殿下のおそばに仕えさせまする」
義光は自分より十歳以上も年上の秀吉老人に、それで命が助かるのならと駒姫を差し出す覚悟を決めた。
それを聞いた秀吉は表情には出さずに内心ほくそ笑んだ。
・・・・ ようやく言いおった ・・・・
「義光殿、其の方がそこまで申されるのなら合い判り申した。駒姫は助命いたそう」
秀吉は傍に控える小姓に即刻駒姫の処刑中止を知らせる早馬を出すように命じた。
小姓は少しも慌てることなく、今や遅しと待ち構える馬回り役に取り次いだ。
義光は太閤の術中にはまったかのような無力感を感じたが、ともかく駒姫が助かることに安堵した。
緊張の解けた義光は両手を付いてへたり込んだ。
それを見届けた家康は義光を促して立たせた。
「よう御座った出羽守殿、さあ我らも駒姫様をお迎えに参りましょう」
そう言う家康の表情にはなぜか沈痛な面持ちがあった。
まるでこの直後に義光をおそう悲劇をすでに知り得ているかのように ・・・・