その八 家康の置き土産
慶長五年(1600年)関ヶ原の年の正月 京都三本木にあるおねねの隠居屋敷
数羽の烏の群れが五度ほど鳴きながら北山の方角に飛び去って行くのが見えた。
「はてさて、家康殿の申されていったことは、まことでありましょうか」
正月の挨拶に訪れた家康を見送った後、おねねはさっきまで家康と腰掛けていた庭を見渡す縁台に腰掛けて、
大坂城で北の政所として過ごし日々を思い返していた。
その噂は夭逝した秀頼の兄の鶴松が生まれた頃より、奥の女中たちの間で囁かれていた。
西の丸の主のおねねの耳にも、届いておらぬはずがなかった。
・・・・ お茶々様のお産みになられたお子は、太閤様のお種では無いのでは ・・・・
・・・・ 御正室の北政所様をはじめ十何人もの側室を持ちながら、あのお年までお子が授からない太閤殿下には子種がござらぬ ・・・・
それが奥の女中どもはじめ伽衆の暗黙の了解事であった。
ところお茶々が側室におさまったとたん、たて続けに二人も身篭るとは。
真冬の弱い日差しが庭先に点々と残る柿の実をより一層赤々と照らしていた。
家康はわざとらしく困り果てた顔をして耳元で北政所に言い含めた。
「このままでは秀頼様を押し立てて治部少輔めが兵を挙げ、この家康と天下を二分して争うこととなりましょう。それはそれは大きな戦となりまする」
黙り続けるおねねに、家康は腹の底から響く声でこうも囁いた。
「豊臣は太閤殿下と北政所様のお二人がここまでに築き上げられたもの。このまま三成と淀の方にくれてやってもよろしいのか」
「ふーっ」、とため息をついて、故郷と同じ低い山々に囲まれた京の空を見上げたおねねは、藤吉郎と出会った頃の尾張時代に想いを馳せてみるのだった。