その七十三 北政所動く
「孝蔵主、佐吉が助けを必要としておる、急がねばならぬ」
おねねは大谷吉継の知らせにより京極高次の寝返りを知ると、大坂方の足並みに乱れが生じ徳川との決戦を直前に控えた三成が戦力不足に陥ることを危惧した。
徳川に靡いている豊臣ゆかりの大名達の妻女を大阪城に呼び寄せ、夫達を豊臣家に帰参させようという三成の策は、細川忠興正室明智珠の死の抗議の末に破綻していた。
大名家の妻女たちに圧倒的な人気と人望がある北政所が、不仲と噂される淀の方と仲睦まじく秀頼君を愛でる姿を妻女たちに目の当たりとさせ、
豊臣のお世継ぎにも北政所のご機嫌にも何ら問題の無いことを妻君達の筆で知らせ、暴走する夫達の目を覚まさせるはずであった。
「明智珠さまの御自害は、明智を討って天下を取った豊臣への死の抗議であったのでありましょう、織田や明智の無念の上に成り上がった豊臣にとっては因果応報であります」
豊臣の暗部を知った北政所はこのまま豊臣が衰退したとて致し方ないとも思えた。
「珠さまの抗議は豊臣だけに向けられたものとも云えますまい。義父である明智様に味方するのを拒んで、秀吉様に靡いた細川忠興様の日和見の姿勢が今も何も変わっていないことへの絶縁であるとも思えまする」
連れ合いを持たない孝蔵主が珠に共感するのは、共にこの時代に女として生まれるにはあまりにも才能に満ち溢れた者同士であるゆえだろうとおねねは思った。
おねねは大阪城で珠に会えたなら、父親の明智光秀がなぜ御屋形様を本能寺で討たねばならなかったかを話してやろうと思っていた。
理由も知らされず、父を奪われた珠の悔しさを思うと、それぐらいのことは許されようと思った。
真相を知った珠が、今更父親の名誉を回復を図るとも思えなかった。
ただただ、尊敬する父親が重大事に及ばざるを得なかった、止むに止まれぬ事情を知りたかったであろうと。
何も知らされずに命果てた明智珠が哀れでならなかった。
おねねが今もっとも気掛かりなのは甥の小早川秀秋の動向だった。
緒戦の伏見城攻めにおける小早川軍のやる気の無さは西軍中でも評判が悪く、秀秋が心情的には東軍に属しているのは公然のことであった。
かつて跡目のいない秀吉が豊臣家の跡取りとして、おねねの兄の子を養子にしたのが秀秋であった。
後に側室に入ったお茶々が鶴松を産むと、用済みになった秀秋は秀吉の忠臣で子の無かった小早川隆景の養子に預けられ、知る者もない九州で寂しい少年時代を過ごした。
太閤の数少ない縁戚である秀秋は小早川家で大切に扱われ、秀秋にとっての安住の地はもはや木下でも豊臣でもなく小早川であった。
後に北政所よりも、豊臣よりも、自分を大事にしてくれた小早川の家臣達に報いたいと思うようになるのは自然なことであった。
北政所は幼い頃の秀秋をあまり可愛がらなかったことを後悔しいていた。
自分に子が授からない故に貰い子をしなければならない己の境遇が許せなかったこともあった。
武家の、しかも頭領の政所として、もっと秀吉の跡目作りに理解を示せばよかったのかとも悔いた。
秀吉の臨終の際に既に成人した跡目があったなら、皆、何の苦労も無かったものを。
やはりあの頃に佐吉をわが子としておればよかった ・・・・
おねねは少年の頃の佐吉を養子にと何度も秀吉にせがんでいた。
成り上がり者ゆえ譜代の家臣など皆無に等しい秀吉は、跡目よりともかく有能な部下を必要としていた。
佐吉は有能に過ぎた。
しかも清正や正則も同じような境遇で手元にあった中、佐吉だけを特別扱いするわけにもいかなかった。
・・・・ 嗚呼、何もかも秀吉と同じ、いやそれ以上の才能を持つ三成に豊臣の後継者の地位があったなら、人に好かれぬ堅苦しい欠点も全て君主の徳として崇められたものを ・・・・
おねねは三成が豊臣の後継者の座に据わり、若侍の頃からひそかに思いを寄せていたはずのお茶々を妻に迎えてやっておれば、
何と素晴らしき未来が豊臣家に開けていたことかと心の底から悔やむのであった。
北政所は懇願するかように孝蔵主に命じた。
「そなたの力で豊臣の息子を助けてくだされ。大坂城などに立ち寄っても埒が明かぬ、すぐに大津へ向かい京極高次を説き伏せて和睦に導くのです。
高次の正室の初には油断めさるな。徳川と通じておるのは初の方やも知れぬゆえ。
高次が何を言っても言うことを聞かぬようなら当家の客を出汁に使って脅しを掛けるが良い。
"田楽刺し"と聞けば高次も悪い夢からも覚めるであろう」
北政所の屋敷には戦火を避けるため洛中に非難していた京極高次の妹、竜子が客として逗留していた。