その七十二 攻防大津城
「大津は西軍を分裂させる為の内府の囮である」
大谷吉継は敦賀から後発して来るはずの京極高次が途中で離脱して水路、大津城に舞い戻った知らせを受けると、
高次が徳川の調略により囮になった事を即座に見抜いた。
このまま大津に突出した形で篭られては戦意の乏しい西国大名達の格好のありばい作りに利用され、西軍戦力が殺がれてしまう。
吉継の動きは速かった。
大垣城の三成に急変を知らせ、大坂城の毛利輝元はじめ大津城を取囲もうとする諸将には監視の人数だけを残してすぐに大垣城に合流するように催促する書状を発した。
遅れて大垣城の三成からも各将宛に大津に留まらずに即座に大垣城に集合する旨の書状が発せられたがこれらは故意に無視された。
伊勢経由で尾張、美濃と北上して合流するはずの立花宗虎まで大津に馳せ参じて僅か三千の城兵に二万以上の攻め手がたかる情景は如何にも不自然で不合理であった。
「目前の裏切り者を後方に残して先には進めぬ」、というのが立花勢はじめ諸将の言い分であった。
皆、徳川との直接対決の場に居合わせたくないという思惑が見え隠れしていた。
反面、包囲軍の大津城への攻撃は、ありばい作りの停滞と悟られない様に一見苛烈を極めた。
立花勢は当時まれに見る塹壕を堀り進んでの得意の鉄砲射撃を大津城に浴びせ掛けたが、突撃も無い射撃をいくら浴びせても城門一つ破壊できず時間は刻々と過ぎた。
毛利元康に至っては大筒まで持ち出してきて向かいの山上に引っ張り上げて城内に打ち込んだが、当時の大砲は命中率は絶望的で口径も小さく炸裂弾でもなかったのでたまたま城内に落ちても直接兵士に当たらなければ損害は皆無であった。
本気で城内を制圧したいのであれば、わざわざ手間をかけて重たい大砲を山上になどに引っ張り上げず、城門を正面から討ち抜けば良いのである。
ただし、大筒の派手な発射音は如何にも盛大に攻め込んでいるという演出には一役も二役も買っていた。
すべては本心を隠す為の本気のふりである。
こんな状況では大津城如きを鎮圧するのに幾日要するのか不明であった。
三成が手を下すまでだらだらと攻めあぐねた伏見城の二の舞になるのは明らかだった。
攻め手の心理を読んでいた吉継は同時にもうひとつ手を打っていた。
それは、吉継の母の東殿局を通じて北政所を動かし、一刻も早く和睦による開城を実現させることであった。
開城させてしまえば西軍諸将も進軍せざるを得なくなる。
かくして久方振りに北政所の政治手腕が発揮されることとなるのであった。