その七十一 京極高次の決意
「越前敦賀から美濃に向かうはずの京極高次が大津城に舞い戻り、武器食料を運び入れ籠城の支度を始めた。東軍への寝返りである」
この知らせを大坂城にもたらしたのは、伊勢に向かう途上の立花宗虎からの使いであった。
大和南部まで進軍していた立花軍が、なぜ琵琶湖の情勢に気付いたのか疑うような切れ者はすでに大坂城に不在であった。
石田三成はお飾りの西軍総大将である毛利輝元を大坂城の留守居役に残し、すでに大垣城まで進軍していた。
東軍との決戦がいつ始まるかも知れないときに、背後の大津に兵力を差し向けるわけにはいかなかった。
自然、大津城には大坂から後発隊として三成に合流するはずだった、後詰めの毛利元康、小早川秀包ら毛利一門が赴くこととなった。
迎え撃つ京極方にも万事抜かりは無かった。
はじめから勝利など見込めない持久戦である。
高次は普段らしからぬ大音声で、「見渡す限り焼き尽くせ、刈り尽くせ」と命じた。
敵の大軍に城郭ごと包囲されるのは致し方無いにしても、敵方が雨露をしのげないように付近の建物はことごとく焼き払らわれ、井戸には汚物が投げ入れられた。
収穫間近の田の稲も全て刈田してしまった。
領民達の不満はこれ以上無いほど高まったが、高次は一向に気にならなかった。
「もはや大津は我が領国に在らず」
街道の街としてにぎわった大津の城下は一面の焼け野原となっていた。
京極高次の覚悟の程がうかがい知れる有様であった。
九月七日に一番手に到着した毛利元康はその光景を見ていやな予感がした。
・・・・ 此れはたかが宿場町の平城と侮れぬやも知れぬ ・・・・
毛利元就の八男にして輝元の叔父の元康は、毛利の為にはそれもまた善しと思うのであった。
・・・・ 此処で時を空費しておれば大垣に行かずとも済むということか ・・・・
行き掛かり上西軍に属してはいても、本気で徳川と戦う気概を持つ者は実はそれほど多くは無かった。




