その七十 無敵の鉄砲隊
「太閤殿下の恩義を忘れて徳川に味方するぐらいなら死んだほうがましである」
立花宗虎はそう公言して領国の筑後柳川からはるばる大坂に参陣していた。
すでに鳥居元忠が籠もる伏見城は宇喜多、小早川らによって落とされた後であった。
宗虎は新たな獲物を狙って徳川方に付いた伊勢の諸城を攻略すべく津城、松阪城を目指して大和の国を南下していた。
伊勢の小城の数々など数日で落とし反転北上し徳川軍を美濃界隈で近江方面と尾張方面の南北から挟撃する手筈であった。
徳川家謀臣の井伊直政の使者が接触してきたのは伊勢に向かって伊賀山南部を山越えしようかという直前であった
「内府殿には何十万石積まれても御味方出来ぬと返答済みであろう」
宗虎は取り付く島もない口調で使者に申し渡した。
使者の口上は果たして予想外なものであった。
「此度、徳川内大臣様の御言い付けでまかり越しましたは御味方へのお誘いでは御座り申さん。
立花宗虎様は裏切りを企てるであろう京極高次殿を大津城にて御討ち下さいませ」
「何! ・・・・」
宗虎は使者の目配せ具合でその申し出の真意を即座に読み取った。
その場で使者を切り捨てようと思えば切り捨てられた。
「熟考するゆえしばし待たれよ」
宗虎は使者を接見の場に残し、一人静かな本陣の裏手に座して思案した。
頑なに信義を重んじる理想主義者の宗虎は、後の世に太閤の恩義を忘れ豊臣を見限った裏切り者と呼ばれることを何より嫌った。
それに宗虎には相手がどんな大軍であろうと必ず撃破出来る無敵の鉄砲隊があった。
勇猛で知られる島津軍だろうと、五万の明軍だろうと宗虎の敵では無かった。
宗虎の父、立花雪道は必勝の鉄砲速射術を編み出していた。
一射分の火薬と弾丸を油紙に分封した包みを入れた竹筒を、帯状に鉄砲隊の肩から袈裟架けさせ、
他家ではまねの出来ない速射を浴びせかけ敵陣深く突撃することが出来た。
云わば紙製の薬莢である。
立花家の鉄砲隊には指揮官の"撃て"の合図など存在しなかった。
射手は各々玉込めが済み次第、次々と連射し発砲音が途絶えることなど無かった。
相手方にすれば隙間無く打ち込まれる弾丸に次々打ち倒され制圧される状況にたちまち総崩れとさせられてしまう。
宗虎は当時唯一人、鉄砲を突撃銃として活用した武将であった。
通常、野戦における鉄砲の使い方は緒戦に於いて押し寄せる敵の騎馬や槍隊の威力を減じるのが目的で使われ、双方入り乱れての混戦となるに至っては無用の長物であった。
鉄砲隊は遠距離から一射か二射して混戦になる前に後方に退き、また射撃の機会を窺うという使い方であった。
高価な鉄砲を敵に奪われないように突出させないのが常道であった。
鉄砲隊を主戦力として突撃に使いこなしたのは宗虎の軍勢だけであった。
家康は何よりそれを恐れた。
立花の二千丁の鉄砲は他家の壱万丁の鉄砲にも値すると恐れたのだ。
このことを家康は朝鮮出兵で宗虎と共同して戦ってきた清正から聞いて知っていた。
武断派と険悪な三成に、このことを知らせる者があったのかは疑問である。
宗虎は柳川の立花山城に留守居とした家老の薦野増時の言葉を思い起こした。
「立花家に御幼少の殿を養子にいただくことを決めたのは、御先代の道雪様と某しでございます。
殿は我らの期待に違わず御立派に成長され、今やこの日の本随一の武将になられたと確信しております。
しかしながその殿をして今だ欠けておるものが一つございます。
"親の心"にございます。
跡目のおられぬ殿にとっては、己が武人としての名誉が全てでございましょうが、臣従する家臣達には皆それぞれ妻や子がおりまする。
"筋を曲げてでも妻子は守る"ということもこの世の中では正道なのでございます。
殿が鍛えし立花勢が如何に強かろうとも津波のように押し寄せる軍勢には飲み込まれてしまいましょう。
此れ時の勢い、時流にございます。
如何に太閤殿下に御恩義あれど、今は徳川様の時流にございます。
皆、そう心得ておれば面従腹背で従ごうておるので御座います。
殿と共に明軍と戦った、あの勇猛苛烈な加藤清正殿とて。
今は耐え難たきを耐え偲び難きを偲び、立花一万参千の精鋭を温存し、秀頼様の御成長を待たれるのが太閤殿下への忠義と一族郎党の為で御座います」
直政の使者がもたらした条件は宗虎の自尊心と立花家の安泰を両立する絶妙なものであった。
「秀頼様さえ御健在なら家康の失せた徳川など某がいつでも討ち果たしてくれる」
宗虎は使者を帰すと、隊列を元来た方向に転進させるて南近江の大津城に向かわせたのだった。
ここに家康に理想的な勝利をもたらす関ヶ原最大の調略は成就した。