その六十八 囮の砦
大津は琵琶湖の一番南にあって京にも近いことから湖上物流の中継点として平安の頃より栄えていた。
湖岸に隣接するように普請された大津城は港湾設備を守る為の城塞である。
成り立ちが商業目的の平城のため特に堅固な造りとは云えなかったが、湖面を背にした立地ゆえ、
いざ籠城となれば攻め手にとっては厄介な砦になり得ると家康は見抜いていた。
「いよいよ大津城の出番である」
上杉征伐に向かう途上、大津城に縁戚の京極高次を訪ね一晩の宿としたとき、家康はそう心に留め置いた。
京極家は浅井が台頭するまでの北近江の支配者で、元々は浅井は京極家の配下にあった。
浅井は信長に滅ぼされ。京極は秀吉に敗れたが、高次は絶世の美女との誉れ高い妹の竜子を秀吉に差し出し大名として生き延びた経緯がある。
秀吉も高次の正室に淀の妹の"お初"を授け縁戚関係を強めた。
高次は妻の姉が大坂城の主の淀の方で、妹のお江が家康三男の秀忠正室という微妙な立場に立たされていた。
ところで家康には、大坂方との決戦に及ぶに至って、敵には回したくない武将がいくつかあった。
石田家中の島左近は致し方ないにしても、会津遠征に加わるはずだった大谷吉継が大坂方に寝返ったのは大きな痛手だった。
そしてもう一人、最も気掛かりなのが筑後柳川城主の立花宗虎(後の宗茂)である。
九州の強国、島津をも打ち破ったことがある戦上手の立花宗虎は動員力も一万以上が見込まれ、対決は何としても避けたかった。
今度の戦は表向き徳川が天下を狙って仕掛けた私戦と見られてはならない事情があった。
あくまで豊臣家を私物化しようとする奸臣、石田三成を排除する豊臣大名同士の内紛が名目でなくてはならない。
万が一にも秀頼を担がれないために。
だからこそ徳川本体の七万をわざと遅参させ、戦闘は豊臣大名達に任せ家康は見守り役に徹しようとしているのだ。
狙うは、石田治部少輔三成の首ひとつ。
三成さえ排除してしまえば豊臣家の実権はすでに家康の手中にある。
豊臣政権の中枢に座して如何様にも天下を仕切れる。
此度の戦では戦力の均衡が何より大切である。
立花家の一万はその強さから、他家の三万と見込まなければならない。
宗虎に参戦されては、秀忠率いる徳川本体の七万も加えた総力戦で望まなくてはならなくなる。
徳川の圧倒的な陣容に三成が怯み、講和に動いてしまっては元も子もない。
如何に三成を欺き、己が有利と思い込ませ、美濃近江境まで引きずり出すか。
三成を大垣城までおびき出せればしめたもの、居城の佐和山城を背負えばおいそれと退く事もままなるまい。
如何に切れ者の三成でも己の居城を落とされるは許容できるものではあるまい。
「ここは大津城を囮の砦に仕立てられるかが天下分け目である」