その六十五 殉教
「私は"ぐれいしあ"とも呼ばれるのです」
珠は殊更平静に家老の小笠原秀清に言った。
珠は密かにぐれごりお神父の手により洗礼を受け"ぐれいしあ"という洗礼名を授かっていた。
すでに細川屋敷は三成の遣した五〇〇の軍勢で取り囲まれていた。
「奥方様と御同道できるのでしたら、黄泉への旅路もまんざら捨てたものでは御座りませぬ」
珠は自分の為に命を捧げる者が、こんなに身近にいてくれたことに、今まで気付かずいたことをすまなく思った。
「某もすぐにお供仕ります」
きっと珠の父、光秀の周りにも最後まで父を見捨てずに運命を共にした家臣が大勢いてくれたのであろう。
「某のように多ぜい人を殺めてきた者には奥方様の行かれる天国とやらまではとても辿り着けませぬが、
地獄の鬼共が奥方様に悪さをせぬよう閻魔大王の前まではしっかりお護りいたしまする」
珠は信教の異なる小笠原が精一杯自分を慰めてくれる言い様が悲しくもおかしくうれしかった。
「ぐれいしあ様、御心配には及びませぬ、怖い思いも、苦しい思いも一切感じぬようにお見送り致しまする」
小笠原は珠の小さな祭壇を壁の際からぐっと前に引き出して、障子との間にやっと一人座せるぐらいのまで移動した。
珠は促されるまま障子を背に祭壇に向かって座し、祈り始めた。
小笠原は障子の向こうの闇の間で片膝を付いて控え、腰の長刀を音がしないようにそおっと抜いて身構えた。
祭壇のろうそくの明かりで障子に珠の等身大の影が投影されていた。
珠の祈りが佳境に入ったと察した小笠原は、意を決して障子越に珠の背後から心の臓を目掛け一突きにした。
切っ先は何の抵抗も無く珠の柔らかな身体を深く貫き心の臓に達した。
すぐに刀身に珠の体重がのしかかってきたが、小笠原は珠の身体の崩れるに任せて刀身を抜いた。
傷口は極少で心の臓を貫いたのにも関わらずほとんど出血は見られなかった。
見事な介錯である。
小笠原は珠の僅かに乱れた裾を直して遺骸を祭壇の前に横たわらせた。
抜き身を鞘に収めると小笠原はいつも珠がしていたのを真似て不器用に指を組んで祭壇に短く祈りを捧げた。
全ての罪人を許すという奥方様の信じる天主の神よ、もし奥方様に僅かでも罪が在るのなら全て己が引き受ける故、
哀れな明智珠を極楽浄土へ誘い、出来ることなら何のしがらみも無い来世に甦らせたまえと。