その六十二 且元の調略
慶長五年(1600年)七月 大坂城
「淀の方様、弟君の万福丸様の最後をお忘れで御座いますか」
且元のこの一言が淀に秀頼の出陣を思い留まらせた。
淀がまだ近江の小谷城で母のお市と四人の兄弟姉妹達と幸せに暮らした頃、父浅井長政が同盟を解消した信長の軍勢に城を攻められた。
落城の前夜、お市と三姉妹は市の実家の織田方に逃れることとなった。
お茶々は織田方の使者として母娘の救出に訪れた藤吉朗の小さな背に背負われて小谷城から逃れた。
父長政は炎上する城を枕に自刃して果てた。
側室が産んだ異母弟の万福丸は助命を許されず串刺しの刑に処され幼い命で果てた。
串刺しの刑とは、生きながら尻から槍を突き刺し槍の穂先が口から出るまで身体を貫き、死に至らしめる残酷な処刑方法である。
幼い万福丸は恐怖と想像を絶する苦痛の中で悶え死んだであろう。
・・・・ 織田を裏切るとこうなる ・・・・
串刺しにされた万福丸の遺骸は見せしめに戦場に晒された。
近江衆のみならず織田の将兵も信長の冷酷さに震え上がった。
この処刑を任されたのが、お市の浅井家への輿入れを仕切った木下藤吉朗であった。
処刑は兄弟二人共と命じられていたが、お市が産んだ弟の福寿丸は仏門入りの条件で助命が許された。
藤吉朗が市の為にできたのはそれが精一杯であった。
藤吉朗は殺戮を好まぬ珍しい武将であった。
しかし、藤吉朗の思いは通じず、母市と共に茶々は父と弟の仇と恨み続けた。
実はどちらも茶々とは血のつながりの無い者達である。
戦に負けるということは、たとえ幼い身にさえ、如何に過酷な運命を強いるものか、お茶々は幼心に刻み付けた。
・・・・ 秀頼を弟万福丸と同じ様な目にはあわせられぬ ・・・・
「石田殿に伝えよ、徳川討伐の勅命が得られなかった以上、秀頼を総大将に差し出すことは出来ぬと」
苦渋の選択ではあったが淀はこれもまた善しと思った。
勅命や秀頼の御威光などに頼る必要など御座らぬ。
内府などに一度でも靡いた裏切り者など豊臣にはいらぬ。
この際すべて膿を出し切り膿んだ患部諸共取り除き六条河原にずらりと首を晒してくれよう。
淀は己の身体の中にかくも冷酷な血が流れていることをはじめて知った。
いつも自分を見守り、助けてくれた、石田治部少輔三成であるなら、己が代わりにそれを成せると淀は信じた。