その六十一 小山評定前夜
慶長五年(1600年)七月 小山
「まこと秀頼君はそなたの子ではないと申すのだな」
家康は正則の面前で大野治長を詰問した。
「福島殿、其の方とて秀頼君がまこと太閤殿下の御子であるかと疑問を持たれておったはずだ」
福島正則は無言であった。
「あれだけの側室が在りながら、あの御年まで子に恵まれなかったということは、
太閤殿下には子種が御座らぬというのが伽衆の暗黙の了解事であったというではないか。
それが淀の方が側室に入るや立て続けに二人も身篭るとはどう考えても不自然」
家康は急に穏やかな口調になって話を続けた。
「太閤殿下から直々に秀頼君の後見を託されたわしである。
たとえ秀頼君が太閤殿下の御嫡子で有ろうと無かろうと、豊臣家の為に無くてはならぬお世継ぎである。
目を瞑るべきは目を瞑る覚悟である。
わしなりに秀頼君の本当の父親は淀の方と同じ近江の出の大野治長か片桐且元あたりであろうと推察いたしておった。
しかし且元を秀頼君の守役に任じたのは太閤殿下御本人である。
不忠の不義密通者を守役にはいたすまい。
治長本人もこうして否定した今、疑わしきは秀頼君を担いで豊臣を私物化せんと欲する三成しかおるまい。
そういえば福島殿は、三成とは太閤殿下の小姓の頃より共に過ごした同士で在ろう。
何か心当たりは御座らぬのか」
彼ら羽柴家の小姓たちが初めて武将として名を上げたのは、本能寺以降秀吉と敵対していた柴田勝家と雌雄を決っした賤ヶ岳戦のときであった。
三成、吉継ら先駆衆と正則、清正、且元ら七本槍は、成り上がり者ゆえ譜代の家来衆など持たなかった羽柴家に於いて存在を示した。
越前北庄城から、お市様の三人姉妹達が救出されてきたとき、当時十三歳のお茶々姫の美しさに当時若武者だった彼らは皆目を奪われた。
年下の美しいお茶々姫は城も持たぬ彼らには手の届かぬ憧れの存在であった。
間もなく年頃ともなればどこぞの大身の大名に嫁いでいくものと諦めていた。
しかし佐吉だけは諦めていなかったのを正則は知っていた。
一刻も早く出世を果たし、近江の姫に見合う男になってやるのだと。
佐吉のそんな健気な野心を皆で冷やかし、励ましていた懐かしい頃が彼らにもあった。
それがいつの頃からか袂を分かち、仇のようにいがみあうようになってしまっていた。
如何に三成がお茶々様に憧れの気持ちを抱き続けていたとしても大恩ある太閤殿下の女房を寝取るなど在り得ぬこと。
もし淀の方と密通した者があるとすれば、目の前の治長しかおるまい。
しかしここで某が賛同すれば内府殿は三成相手の戦がやり易くなるであろう。
明日にも小山で三成挙兵に対しての評定が行われるのである。
憎っくき三成を抹殺する為には内府殿のお力をお借りするのが得策。
三成さえ豊臣家から排除してしまえば、義理堅く人情に厚い内府殿は豊臣家と秀頼様を悪いようにはいたすまい。
ここは内府殿の御温情におすがりすることが何より秀頼君の御為である。
正則は意を決して意見した。
「某も秀頼様は三成めの子と存じます」
居合わせた治長が正則の言に驚いた表情を見せた。
正則は、このとき一時の感情に捉われ、豊臣家と秀頼を滅亡に導いてしまったことを生涯悔やみ続けることとなる。