その五十八 間諜片桐且元
慶長五年(1600年)七月 大坂城
「委細承知し申した治部殿。内府との決戦には必ず秀頼君の馬印を掲げ、初陣にして総大将の名誉を戦勝で飾りましょうぞ」
守役の片桐且元は意外にも秀頼を総大将に担ぎ出すことに諸手を挙げて賛同した。
三成は賤ヶ岳の先駆衆と七本槍として同列にいた且元が、太閤殿下より守役などという閑職に任ぜられたことを不満に思い、
華やかな奉行職の三成に対して反感を持っていたのではないかと案じていたが、それが杞憂であったことに安堵した。
「ところで治部殿、秀頼君を総大将に担ぐには淀の方を説得せねばなるまい。
淀の方がまだ幼い秀頼君を勝算も無い戦に差し出すとは思えぬ。
治部殿には淀の方も納得できるような、内府に勝てる秘策でもおありなのか」
且元は淀の方の説得にかこつけて三成の手の内を聞き出そうとした。
まさか徳川の調略の手が豊臣の最深部まで及んでいるとは夢にも思わぬ三成は己の秘策を且元に明かした。
「太閤殿下と御懇意であらせられた後陽成天皇より徳川討伐の勅命を発していただく手筈に御座います」
・・・・ 何とこの男には朝廷をも自在に操る力があるのか ・・・・
且元は今更ながら三成の豪腕ぶりに驚いた。
「太閤殿下が御健在の頃、後陽成天皇が聚楽第に行幸あそばされた折、内府は天皇の御前で豊臣家に対して永遠の忠誠を誓いておりまする。
太閤殿下亡き後の内府の専横は、その誓いを反故にしたものと申せましょう。
豊臣と朝廷とのこれまでの良好な関係をもってすれば徳川討伐の勅命を頂くなど雑作の無いことで御座いまする」
もし治部少輔の目論見通り朝廷から徳川討伐の勅命が発され、秀頼を総大将に担ぐ徳川討伐軍が結成されようものなら、
いかに権勢を誇る内府とて絶体絶命の窮地に追い込まれよう。
窮地に追い込まれた内府は形振り構わず、秘すると約束した秀頼君の父親が太閤殿下ではないことを公してしまうであろう。
・・・・ それでは豊臣が立ち行かなくなる ・・・・
且元は三成との会見が終わるとすぐに内府に密書をしたためた。
三成の企てる徳川討伐の勅命を阻止しうる極秘情報を且元は握っていた。
秀吉に仕える前、片桐家は近江浅井家の重臣であった。
浅井家中で決して表立って語ってはならぬ秘密を且元は知っていた。
秀頼の生母の淀の方は実は浅井長政の子ではなく、かつて朝廷から御敵と呪われていた織田信長の子であることを。
この極秘情報を内府に漏らせば豊臣の名を汚さずに三成の企てを阻止できよう。
勅命が得られずば秀頼君を総大将に担ぐことも困難となろう。
内府様の御温情にすがり豊臣家を存続させるためには内府様に逆らう危険分子の治部少輔を排除せねばならない。
さすれば己が豊臣の家老として、徳川の後ろ盾により豊臣の舵取りを掌握することになろう。
守役などという閑職に我慢してきたが、最後につきが回ってきたかのようである。
・・・・ 何よりそれが豊臣家と秀頼君のためである ・・・・
且元が己の取り返しのつかない誤りに気付かされるのは関ヶ原から数年の後、不義密通を疑った大野治長がようやく豊臣家へ帰参を許されたときであった。