その五十五 政重の調略
「治部少輔様に先を越されては、勝利の果実が小さくなってしまいますぞ」
政重はそう言って宇喜多秀家に決起を促した。
急かされるまでもなく単独で二万の兵力を擁し、勇猛果敢で名を馳せた秀家は、家康と一戦交えるのに何の躊躇も無かった。
しかしこのとき二十七歳の秀家には狡猾な徳川に対しての戦略がまだ見えていなかった。
「此度の上杉征伐に名を借りた、徳川の挑発行動は、けっして磐石の策とは言えませぬ。
如何に六万の動員力を持つ徳川とて、いざ豊臣を相手とすれば十余万の軍勢を集めなければなりますまい。
今は、上杉征伐が名目ゆえ家康様と行動を共にしている大名諸侯とて大半は太閤殿下のご恩で大名になり上がった者達ばかりにございます。
徳川の権勢に靡く彼の者達とて、いざ豊臣対徳川の決戦となり秀頼君が総大将に担がれてしまえばそれまで。誰が秀頼君に弓引けましょうか」
それは事実であった。
このとき二十歳となっていた本多政重は、豊臣大名の筆頭格である宇喜多家に潜入していた。
その若さに不釣合いな策謀の知恵と徳川の極秘情報を用いて、まだ若い秀家にとっては、無くてはならぬ参謀役として家老格にまで出世していた。
「徳川が磐石の布陣では無いにも関わらず豊臣を挑発してきたのは、内府様にあせりがあるからでございます」
政重はさすがは家康の右腕、本多正信を父とするだけのもって生まれた軍師の才覚を主君秀家のために惜しげもなく発揮した。
「政重、内府があせる理由とは何か」
秀家の問いに政重は、
「ひとつは内府様ご自身の年齢にございます。
太閤殿下に続いて前田利家様と、共に戦国を生き抜いてきた方々のご他界を目の当たりとすれば、
御自分の余命やいくばくかと心配になるのも無理からぬことでありましょう。
さらにいまひとつ、内府様にはご懸念がございます。
徳川には家康様の後を継げるだけの器量を持った後継者が見当たりませぬ」
それも事実であった。
「内府様は自身が存命のうちに天下取りのみならず、徳川政権を磐石にしようとなさっているのです。
だからこそ、病床の身とはいえ太閤殿下がご存命のうちから無節操に、諸大名との政略結婚を急いだのでありましょう」
政重は事実だけを淡々と述べた。
秀家は時の権勢を誇る内府が後継者問題を抱えていることまでは思いが至らなかった。
「次男の結城秀康殿は相当な人物とお見受けいたすが如何に」
秀家の指摘に政重は、
「確かに秀康様は人物、知見、武勇共に徳川を継いでゆくに充分かと思われます。
しかし、秀康様は太閤殿下の御養子からさらに結城家に養子と出されたお方。
徳川の頭領として出戻るには些か無理がございます。
今思えば太閤殿下の徳川の跡目潰しだったのでございましょう。見事でございます」
「なるほど」、と秀家も太閤の事前の策に唸った。
死して尚、豊臣を守り続けるとはさすが義父上である。
「三男の秀忠殿なら都合が悪いことは何もあるまい」
秀家はいつの間にか敵である徳川の跡目の心配をしている自分が滑稽であった。
「秀忠様は、・・・・ 盆暗でございます」
これも事実であった。
「それにもうひとつ、太閤殿下の御遺言に従うならば、祖父の内府様にとっても父の秀忠様にとっても目の中に入れても痛くない千姫様を、
いずれは秀頼様のもとに嫁がせなくてはなりませぬ。
そうなってからでは、豊臣と事を構えるのはさらに困難なこととなりましょう。
さらに秀頼様と千姫様との間に御世継でも授かろうものなら、もはや徳川は豊臣と抜き差しならぬ縁戚となり共存する道しかありませぬ。
もし内府様が突然身罷ってしまえば、成長を遂げる秀頼様と宇喜多様、石田様はじめ豊臣家の厚い人材の前に徳川はじり貧となっていくでありましょう。
これも太閤殿下の勝ちにございます。まことに太閤殿下の明晰さには某も遠く及びませぬ」
秀家は自分がいつも目の前だけのことに心を病んでいたことを恥じた。
太閤は自分の死後のことをかくも手を打っていたとは。
・・・・ やはり太閤殿下の分身ともいえる治部少輔殿を引き込まねば腹黒い家康と互しては渡り合えぬな ・・・・
宇喜多秀家は佐和山城に蟄居してこのかた、梃子でも動かぬ石田治部少輔三成を風雲の中に引き戻さなければならぬと堅く決意した。
それこそ、間諜本多政重の任務であった。
「殿、ここは徳川の策略に乗ったに見せて、電光石火で秀頼様を総大将にさえ戴けば、天下の形勢此れ一気に豊臣方に傾きまする。
明智日向守討伐の折りの太閤殿下の機敏さが、後々の豊臣政権成立の原動力となっていったのは、殿もご存知でありましょう」
政重はさらに決定的な一言で秀家の背中を押した。
「かつて織田信長公が桶狭間に今川義元を討ち果たしたのは、殿と同じ二十七のときにございます」
その言葉が宇喜多秀家の心にくすぶる野心に火をつけた。
己が一番に反徳川の狼煙を上げ、今や徳川の属国にまで落ちぶれた妻の実家の前田家を従えて豊臣政権の執権として君臨できようと。
・・・・ それが若年の自分を大老にまで引き立ててくれた太閤殿下への何よりの御恩返しでもある ・・・・