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その五十二 間諜本多政重

慶長二年(1597年) 


「其の方は次男に生まれたが長男の正純(まさずみ)よりもわしの特徴をより強く受継いでおる」


本多正信はまだ十七になったばかりの次男、政重(まさしげ)に己が培ってきた調略、謀略の真髄を授けようとしていた。


「よいか政重、調略しようとする相手に二者択一を迫るときには、必ずどちらに転んでも相手に損とならないように仕向けなければならぬ。

我が殿が桶狭間のときに織田から受けた調略は見事なのもであった。

徳川は織田方のふたつの砦を攻撃する名目で今川の本隊を留守にする大義を得た。

その隙に織田殿は桶狭間山で今川義元を討たれた。

徳川は当主を失った今川家の混乱に乗じて、労せずして三河一国を取り戻すことが出来おおせた。

たとえ織田が失敗して滅んでも今川からは褒美が出たであろう。

この話に徳川が乗らぬ道理が無かろう。調略とはこのように仕掛けなければならぬ」


政重は黙って頷いた。


「そしてこれが最も大事なことである。相手を調略するときには、(だま)したり、嘘をついたり、後で裏切ろうとしてもけっして上手くいかぬ。

相手も騙されまいと必死に嘘を見抜こうとする。少しでも嘘に(ほころ)びが見つかればその調略は失敗に終わり、かえって窮地に陥ることとなる」


政重はまた黙って頷いた。


「相手に自分を信じさせる為には事実だけを淡々と述べることである、事実だけが持つ説得力が相手の心を動かすのだ」


正信は雄弁に語る者がけっして調略に向かぬことも説いた。


「調略などというと陰湿で薄汚い印象を持つかもしれぬが、わしは調略と厚き友情は紙一重のものであると思うておる。

金品や言葉を尽くして相手に無理やり信じさせるより、先ず自分のことを好きにさせること。

さらに申さば自分も相手に惚れ抜くことこそ調略を成功させる王道である。

信あれば義生まれ、義あれば行動を生む。一人が動かば幾多の者の賛同を集め時流となる。

何人たりとももこの時流を覆すことは不可能となる」


このまだ十七年しか生きていない政重少年は父の言葉をよく理解した。


「そなたが徳川の舵を握る本多正信の子であり、徳川を逐電(ちくでん)せねばならぬ宿命を背負ったことは豊臣諸侯の歓心を得るに充分であろう。

誰もが徳川の野心が如何程のものか知りたく、また徳川に付き従うべきか迷うておるのだ。

そしてそなたの年若さこそが何よりの武器となる。

まさかその年で歴戦の軍師をも凌ぐ調略の薫陶(くんとう)を受けておると疑う者はおるまい」


政重が権力者本多正信を父としながらも徳川を追放される大義名分は、二代将軍秀忠の乳母の子、岡部荘八を(いさか)いの上で殺したことに由来する。


「いかに調略の捨石とはいえ、見知った岡部を無残に切ったは後ろめたく感じまする」


正信は優しく諌めた。


「敵を(あざむ)くには先ず味方から欺けというのが鉄則である。この先そなたが行う調略では何千、何万という命が揺れ動くのだぞ」


政重は改めて己の背負いし任務の重さを噛み締めた。


「父上、この政重、たとえ父上とはこれが今生の別れとなろうとも、父上のお心はけっして忘れは致しませぬ」


政重はこの後、徳川の極秘情報を携えて、大谷刑部を皮切りに豊臣諸侯の客分として転々と赴いて行くのであった。

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