その四十九 市と信長
永禄十年(1567年) 名護屋城
「よいか市、長政の身も心もそなたの虜とすべく、一人、天下布武の尖兵となるのだぞ」
「そのような大任、家中にわたくしの他に任せられる者はおりますまい、兄上」
信長と市は一つの寝床で互いの身体を寄り添いながら今生の別れかも知れぬ一夜をすごしていた。
「市は兄上にひとつお聞きしたきことがございます」
市は信長の方に向いて聞いた。
「一人敵地に赴くそなたに秘することは何も無い。申してみよ」
「兄上は何故、あの木下藤吉朗なる素性不明の者を重用なさるのでございますか」
少し黙ってから、信長は天井を向いたまま答えた。
「約束した故、そなただけには話そう。夫や子や他の兄弟にすら秘密に致すのだぞ、・・・・ 」
信長は己だけが知る藤吉朗の出生の秘密を最愛の妹、市に明かした。
正親町天皇が皇子の頃の妹皇女との御落胤であること。
それを利用して、桶狭間で義元を騙し討ちにしたこと。
褒美、市を好いている藤吉朗に面影の似た城下の娘、おねねを嫁に世話したことも。
「どうだ、さすがの市も驚いたであろう」
得意そうに信長が市の方を見て言うと。
「少しも驚きませぬ、兄上とわたくしも同じでございます故」
信長は少し不満そうに問い返した。
「同じとな、しかし我らに子まではおらぬぞ」
市は上を向いて楽しそうに返した。
「さて、それはどうでありましょうか ・・・・ 」
信長は寝床から飛び起きた。
「市、まっことか!」
市はゆっくり身をおこし襟元を直すと、「初めてのことゆえ分かりませぬがおそらく ・・・・ 」、とうつむいた。
さすがの信長も天を仰ぎ、どかっとしりもちをついて座り込んだ。
だがすぐに落ち着きを取り戻し不敵に笑った。
「長政め、妹だけではなく子までくれてやることになろうとは」
市は不安そうに信長を見ていた。
「お市、安心せい。長政は心底良い男ぞ、そなたを疑ごうたりするはずも無い。
だからこそ惜しげものうそなたをやれるのよ。
しかし、浅井の家中に余計な詮索をされるのもうるさかろう。
藤吉朗にそなたの輿入れを急がせることに越したことは無かろう」
市の輿入れで織田と浅井の同盟は磐石なものとなった。
市が浅井に嫁いで最初に産んだ子は女であった。
長政は"茶々"と可愛らしい名を付けて愛した。
長政と市は仲睦ましい夫婦となってさらに女を二人と男の子を一人もうけた。
お茶々の次に産まれた次女に長政は"初"と命名した ・・・・