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その四十六 天王山

天正十年(1582年)六月十三日 山崎の関


「いやいや、ひやひやものであった」


秀吉は明智軍壊走の報にようやく安堵のため息をついた。


城攻めは得意とする秀吉であったが、野戦はさっぱりであった。


人が大勢死なねば終わらぬ野戦は嫌いであった。


負け戦(・・・・)は桶狭間で嫌というほど味わっていた。


一方の光秀は野戦を得意としていた。


明智軍の陣の構え方、兵の動かし方は共に見事なものであった。


秀吉は光秀を相手に野戦で勝利を収めるのには三倍の兵力が必要と見込んでいた。


「こちらに恒輿(つねおき)殿がおらなければ危ういところであった。御屋形様は良い乳兄弟を持たれた」


秀吉が漏らした言葉の通り、池田恒輿と細川忠興(ただおき)が明智に付いていたら勝敗は逆転していたであろう。


桶狭間の頃より信長と死線を潜り抜けてきた池田恒輿は、両軍膠着状態の中、明智本陣を側面から突いた。


それを見て勇気づけられた細川軍は見事明智軍を押し返した。


それが明智軍総崩れへとつながった。


光秀は後詰の勝竜寺城へ撤退した。


だれの目にも明智軍の再起は到底不可能と映った。


信孝軍(・・・)の勝利であった。


光秀の追討もそこそこに、秀吉に見方した摂津衆の小名達が次々に戦勝の祝辞を述べにやって来た。


みな、総大将が信長の嫡男の信孝であったことなどすっかり忘れている素振りであった。


摂津衆は皆したたかである。


そうやって、南北朝の頃より時の勢いのある者を見極めて生き残ってきた。


彼らの目は確かであった。



一方、勝竜寺城に退いた光秀は一時も休む間は無かった。


敗走の途中で雑兵は逃げ出し、残るは僅かな譜代の家臣だけとなっていた。


追討軍の追っ手がかかる前にここも逃げ出して、何とか一族が待つ坂本城まで到達したかった。


生きるも死するも、一族と共にそこで決めたかった。



しかし、光秀のそのささやかな最後の願いさえ、天には聞き届けられないのであった。


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