その四十四 凶報
天正十年(1582年)六月十一日
「そうか、覚悟を決めねばなるまいな」
光秀は摂津衆の多数派工作がなかば失敗に終わったことに落胆の色を隠せなかった。
池田恒輿、高山右近、そして娘婿の細川忠興までもが筑前方に組み込まれたと知らされたからである。
信長の乳兄弟で摂津を任されていた恒輿はともかく、"お墨付き"さえ頂けておれば、キリシタンの右近と婿の忠興は間違いなく味方と出来ていたであろうことが悔やまれた。
決戦は山崎の関あたりとなろう。
明智軍一万六千に対して羽柴軍は四万にまで膨らんでいた。
数の上での有利、不利もあるが自軍が織田信長に対する謀反人、反逆軍との汚名に塗れて決戦に臨まなくてはならない事は兵達の士気に与える影響を考えると憂鬱となる。
鬱屈している光秀に追い討ちをかけるような凶報がもたらされたのは、決戦となる日の前日であった。
出家を言い訳に雲隠れをして埒の明かぬ近衛前平を探すのを諦めた光秀は、固い結束の同盟者である里村紹把に、朝廷とのとりなしを頼んでいた。
その返事を携えた紹把が僅かな供回りと共に光秀の陣を訪れた。
光秀は藁にもすがる気持ちで紹把の知らせを待っていた。
「日向殿、早速であるが御人払いを願えぬか」紹把は固い表情で光秀を促した。
光秀は利三をはじめ重臣も全て陣幕の外へ退席させた。
陣幕の中央のかがり火の下ですら、紹把は慎重に辺りを覗った。
光秀が期待した"お墨付き"の類の書状は持参していない様子であった。
紹把のもたらした情報は常に沈着な光秀をも驚愕させる内容であった。
「日向殿、本能寺の日に私に命を助けられし借りがあると、誠仁親王が明かしてくれた秘密がございます」
紹把は少し躊躇いながら続けた。
「実は、羽柴筑前殿は親王様の兄であるとの仰せでございました」
かつて、正親町天皇とその妹皇女様との間に授かりし禁じられし皇子があった。
驚きと失意の中で、光秀は心中で凝り固まっていた氷塊がさらりと溶けてゆく感じがしたのであった ・・・・




