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その四十二 どさくさ

天正十年(1582年)六月二日午後 堺港


「梅雪殿はやはり船はお嫌いなようだ」


家康は海路に誘えば梅雪は必ず陸路を別行動で行くだろうと読んでいた。


海道に位置する三河者であれば船の移動にも慣れていようが、山里の甲斐者には紀伊沖の荒波に揉まれるなど到底我耐えられるものではあるまい。


家康はすぐに追っ手を差し向けた。


追っ手の首領は服部正成(半蔵)がつとめた。


狙うは梅雪の命と一行が携えし多額の″金子(きんす)″であった。


今風に言えば、強盗殺人である。


穴山梅雪の持つ甲斐の金山は天下を狙う者にとっては、咽から手が出るほど魅力的であった。


政治に金が掛かるというのは、戦国の世も現代も全く同じである。


信長公が身罷った今、当面の身の危険は去った。


密かに集めた家康の警護は精鋭の四百名。


これはもう立派な行軍である。


明智軍が今繰り出せる僅かばかりの追っ手など、返り討ちにすることも出来る充実した陣容である。


後年、僅か十数名で命からがら生き延びたとされる″神君伊賀越え″の正体はこれである。


途中の土豪にばら撒いたと云われる金子は茶屋四郎次郎が用立てたものではなく、梅雪から強奪したものである。


後に″神君超え″などと美化させたのは、その実際があまりに極悪非道であったことの裏返しである。


勝者が書き残す歴史とは古今東西そういうものである。


実際の家康の一行は結構な人数であったはずである。


それはそうである。


信長は家康を堺で殺そうとしていたのである。


それに気付いた家康が丸腰でのこのこ堺に現れるわけが無い。


しかも異変の雷雲に誘い水を撒いていたのは他なれぬ家康自身であった。


「こうも上手く其の方の思い描いた通りに事が運ぶとは思わなかった」


家康は、この頃から相談役として取り立てていた、傍らの本多正信に謝辞を述べた。


「全ては殿の律儀で無欲な日頃のお振る舞いの賜物でございます、それ故に誰も策略などとは思わずこちらの意図した通りに動いてくれまする」


この初老の男は勇猛果敢な三河者の中にあっては珍しく、戦働(いくさばたら)きでより人の心を読んでの調略、謀略の技に優れた男であった。


その余りの陰々滅々とした性格から、同じ本多の一族からもつまはじきとされていたが、そんな正信を家康は重用していくのであった。


数少ない友としても。

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