その四十 人質
天正十年(1582年)六月二日 早朝
「 ・・・・ 利三、もう良い。御屋形様がもうこの世に無いことは、わしも合点いたした ・・・・ 」
光秀はようやく信長の遺体探索の打ち切りを命じた。
今日中に始末しなければならないことは、まだいくつもある。
ここで利三は動向を監視させていた信忠が、予想外の行動に出たことを光秀に伝えた。
「妙覚寺の信忠様が二条御所に立て籠もったようでございます」
すぐ近くの妙覚寺には織田家跡目の信忠が千五百の兵とともにあった。
すでに本能寺の騒動を察知して安土へ逃げ帰っているはずであった。
光秀は呆れた。
「全く、御屋形様のご子息とは信じられぬどんくささよ」
これが御屋形様であれば単騎、安土城まで逃げ帰って今頃は天主閣で敦盛の一差でも舞っていよう。
信長の逃げ足の速さはいつでも戦国一であった。
それは、光秀もよく知るところとであった。
だからこそ、御遺骸を自分の目で確かめるまでは生きた心地がしないのだ。
光秀と利三は信長のいた本能寺と信忠のいた妙覚寺を同時には攻撃しなかった。
妙覚寺は天子様の御所と誠仁親王の二条御所に近すぎた。
しかし、本当の狙いは千五百の信忠軍を安土まで敗走させることにより、途中で脱落と離反を促し自然壊滅させるつもりであった。
たとえ取るに足らない相手であっても無用の戦闘は避けたかった。
さらに寝返る者があれば少しでも自軍に取り込みたかった理由もある。
来たるべく筑前との決戦に備えて ・・・・
光秀は信長を討っても織田の家中で正面から光秀に反抗するものは現れないと踏んでいた。
それほど皆、信長について行くのが耐え難いところまできていたのだった。
敵対する者があるとすればそれは天下布武の片棒を担ぐ筑前だけであろう。
織田家跡目の信忠は、天下布武の象徴たる安土城を枕に自刃させ、城ごと焼き尽くせばよいだけであった。
安土の城は戦闘や籠城の類には全く向かない造りであった。
ただただ天下に天下布武を成し遂げた織田信長此処にあり、と知らしめるだけの城であった。
天下を治める行政府として、交通や通商の要として特化した商業都市、所謂城下町であった。
攻めるには、これ以上無いほど容易な城であったのだ。
「信忠様は誠仁親王を人質に取ったと見るべきであろう」
のろまだが頭はいくらか回るようである。
|度の騒乱を差配したは朝廷との正鵠を得たか、ただ単に勝手知ったる二条御所を決戦の場に選びしか。
光秀は出だしから朝廷を巻き込んでしまったことが気懸かりであった。
このたびの騒動は表向き、織田家家中の内輪もめ、あるいは下克上としておきたかった。
自分が天子様の御意向に従って御屋形様を御敵成敗したことは、事が全て成就した後、朝廷を奉る幕府体制を打ち立てるまでは秘しておかなくてはならない。
計画に僅かでも綻びが見て取れれば、常に無辜であらねばなれぬ天子様は手のひらを返したように明智を見捨てるだろう。
天皇家の綿々と続く歴史を知る光秀にとっては、当たり前の認識であった。