その三十八 乱丸最後
天正十年(1582年)六月二日未明 本能寺
「もうよい、お乱、火を放て」
これが信長の最後の言葉であった。
傷を負った信長は、足を引きずりながら奥の納戸に入り戸を閉めた。
乱丸は言いつけどおり、あるだけの油を板戸や襖や障子にかけて火をつけた。
すぐに菜種油の燃える黒い煙がもうもうと立ち込めた。
敵方はもうすぐそこまで迫っている気配である。
他の小姓達は、よく持ちこたえてくれていると思った。
乱丸の心は不思議と平静そのものであった。
さっきまでの動転していた自分が嘘のようであった。
初陣である。
初陣で討ち死にである。
別に珍しきことではない。
自分は太く濃く生きた方だ。
ただ、
ただ、もう少し先の世を見てみたかった。
御屋形様が作り直した世を。
まやかしの神仏や呪い師など葬り去った理の通る世界。
筑前殿のように才覚一つで出世が叶う世界。
嗚呼、自分も筑前殿のように御屋形様と一蓮托生の道を駆け抜けたかった。
いつしか乱丸は笑っていた。
自分は筑前殿に追いついた。
あと僅かで滅ぶ身とはいえ、己は今、誰よりも御屋形様に近い。
小姓たちの防御線をかいくぐった三人が乱丸の守る納戸の前に現れた。
面識こそ無いが皆、歴戦の明智軍の手練であった。
もう少し、あともう少し時をかせがねばならぬ。
あたりは息を吸い込むことも出来ない煙と熱気に包まれていた。
三人がほぼ同時に切り込んできた。
乱丸には三人の動きが随分ゆっくりに見えた。
乱丸は腰を落として低く身構えた。
腰から下は煙が薄かった。
一呼吸して真ん中の一人の前足を一文字に切りつけると手応えも無く簡単に片足が吹っ飛んだ。
敵は二人になり、体が入れ替わった。
我慢しきれずに煙を吸い込んだ一人が正体も無く咽込んだ。
怯んだ一人は乱丸がまた足を払いにくると思い屈み込んだ。
下がった切っ先のすぐ上を上背のある乱丸の横一文字が滑るように越した刹那首が飛んだ。
すぐにうずくまって咽返る最後の一人の首を跳ねると乱丸にも限界が来た。
大きく息を吸い込むとすぐに膝が落ちた。
初陣で手練の首三つ。
・・・・ お乱、でかした ・・・・
薄れていく意識の中で乱丸は確かに御屋形様の声を聞いた ・・・・