その三十四 愛宕百韻
天正十年(1582年)五月二十四日 愛宕神社
「我が身が如何様な汚名の謗りを受けようとも構わぬが、後の世に止むに止まれぬ事情があったことだけは記しておかねば ・・・・ 」
近衛前久から信長の企てる"天下布武"の全貌を明かされ、それを阻止できる勢力は京摂津界隈で明智軍のみである事。
さらに今回の信長の在京中を逃せば、信長を討つ機会はもう無いことを説明され、光秀は天皇の意思に従うことを決意していた。
・・・・ ここ宕権現は戦勝祈願の神社ゆえ、後世にどのような戦乱が起ころうとも巻き込まれずに記録を残せるはずだ ・・・・
光秀は己の悲痛な覚悟を後世に託すため、ここ愛宕神社で親しい者たちを集めて|首連歌の歌会を開くこととした。
経緯を知るものは当代一の連歌師で光秀の盟友、里村紹把のみ。
その他は、ただ単に文武に秀でた当代一の武将、惟任日向守光秀との連歌を楽しみにやって来る客であった。
光秀と紹把は、他の一般参加者のつなぎの句に紛れて、彼らの本心を百韻に潜ませるのが目的であった。
百首連歌は詠む歌の多さから、丸一日掛りの大仕掛けとなる。
京を取り巻く山々の最高峰、愛宕山のまだひんやりとした初夏の朝、
光秀の万感の思いを込めた歌会が始まろうとしていた。
首句は此度の歌会の亭主を務める光秀からである。
光秀の渾身の首句が披露された ・・・・
「ときは今、天が下しる五月哉」 ・・・・ 雨がしとしとと降り続く五月の頃ですな
掛詞を読み解き、深読みすれば、
もうすぐ天皇が下死る殺気がみちている、という解釈ができる。
光秀が本能寺で主君信長を討つのは、これより八日の後のこととなる。