その三十三 踏み絵
天正十年(1582年) 五月十六日 安土城下明智邸
「この腰抜けの役立たずめが ・・・・」
光秀は信長に足蹴にされ額を土間にごりごりと押し付けられた。
調理場の土間には用意された川魚や山の菜が散らばっていた。
信長は罵声を浴びせながら、散々光秀を小突き回した挙句の暴虐であった。
光秀が家康の暗殺を信長に思い留まるよう諌めたのが、信長の癇気に触れた。
如何に主君の命とはいえ、光秀ほどの高潔の武将が敵方ならいざしらず同盟者である家康を自邸の饗応で毒殺するなど到底受け入れられぬことであった。
命じた信長本人も光秀が素直に従うとは考えていなかった ・・・・
最初から自分は怒り狂う予定だったのだ。
光秀は信長の示した"踏み絵"を踏めなかった。
如何に無辜とはいえ、たかが一大名暗殺できぬ者に、これから行おうとしている"天下布武"に従事することなど不可能。
「光秀、今を以って此度の饗応役の任を解く」
信長は秀吉と予ねて打ち合わせの通り、光秀の丹波の領国を取り上げ宿無しとして、備中高松城攻めの援軍として向かうよう命じた。
この明智邸の調理場での出来事は、家康が安土城に潜ませた者を通じて、その一部始終が家康の知るところとなる。
饗応役を解かれ、手勢を率いて居城の近江坂本城に向かう光秀の心中は、ざわめき始めていた。
「何故御屋形様は某が到底受け入れられるはずの無い徳川殿の毒殺など命じたのであろう。
徳川殿を亡き者としたいのであれば、正々堂々難癖をつけて討ち滅ぼせばよいであろう。
今の織田家にとっては容易なことである筈。
お役御免も領国没収も備中高松城へ無用の応援に向かわせ、当面戻らせない為の方便であろう ・・・・」
御屋形様は自分に"踏み絵"を踏まされたのではないのだろうか。
自分がいては都合が悪いことを何か企てているのではないのか。
光秀は主君の信長に疑いを持ち始めた。
しかし、これから己に押し寄せる苦難の道を、さすがの光秀にもこの時点で予期することは不可能であった。