その三十一 最後通牒
天正十年(1582年) 五月四日 御所謁見の間
「すると" のぶなが " は、たかが小姓如きに返答を持たせて遣したのだな」
正親町天皇の怒りは簾越しにも、武家伝奏役、勧修寺晴豊に伝わってきた。
晴豊はただただ平伏するのみであった。
天皇があからさまに感情を表すなど滅多に無いことであった。
十日前に信長に遣わされた朝廷からの問い掛けは以下のようなものであった。
〜 甲斐も平定して天下泰平もいよいよ目前にせまりつつある。この辺りで、無役から脱して官職に就かれてはいかがなものであろうか。
さしあたり、太政大臣か関白か征夷大将軍の何れかに就かれたらいかがであろうか 〜
物言いこそ柔らかいが、これは朝廷から信長への最後通牒であった。
これ以上官職を拒むは朝廷にたいして謀反の意ありとみなす ・・・・ 朝敵と見做して成敗いたすぞ ・・・・ という意味が隠されていたのだ。
これに対する信長の答えは、『跡目の信忠を将軍にでもしておけ』 ・・・・ という気の無いものであった。
返答より何より、使者として遣したのが、信長の慰み物の森乱丸ごときであったことが天皇を怒りに駆り立てた。
「" のぶなが "の行状については、もはや是非に及ばず、御敵討伐の密命を近衛に即時伝え排除せよ」
かつて一〇〇〇年の昔、朝廷を欲しいままに牛耳り、天皇の眼前で討たれた"蘇我入鹿"以来の朝敵として、信長に対する包囲網が敷かれようとしていた。
一月を待たず信長は、いざ皇統を守らんとるときの天皇の底知れぬ力をその身で味わうこととなるのであった。