その三十 黒田官兵衛
「官ぴょうよ、これでよいのか ・・・・ 」
秀吉は近衛前久を見送った後、腹心の黒田官兵衛に己の逡巡を隠すこともなく問うた。
前久は五摂家筆頭の近衛家に生まれ、年若くして関白職に就任したこともある。
その後は戦国公卿として、常に時の有力武家の傍に身を置き、朝廷との橋渡し役を専ら任されてきた。
信長が台頭する以前は、越後の上杉謙信との連絡役であった。
所謂、朝廷の諜報要員である。
極秘諜報などというと近代以降の派手な立ち回りのスパイや盗聴、衛星写真などを思い浮かべてしまうが、
今も昔も重要な極秘情報は相互の信頼に基づく人間関係からのみ得られるものである。
戦国時代には盗聴器も衛星写真も無かったわけであるから、より相互の良好な関係から得る良質な情報が生死を分けることとなる。
現代の機械頼みの諜報組織より当時の人々の諜報能力の方が遥かに優れていたとも云えよう。
前久は、信長の企てを嗅ぎ付け秀吉に翻意を促しに来たのであった。
既に天下布武は朝廷の知るところとなっていた。
「殿、これは天から降ってきた願ってもない好機にござりましょう」
官兵衛は至って冷静に状況を分析した。
「信長公が朝廷もろとも天子様までも亡き者としようとしていることがはっきりした今、進む道は一つにございます。
我ら武家は好むと好まざるとに関わらず、天子様を頂いて初めて存在がゆるされるのでございます。
過去に天下を牛耳ってきた武家、豪族の数々を御覧下さい。
蘇我入鹿、平清盛、源頼朝、足利尊氏、皆一代限りのようなものにございます。
如何に天才的な権謀家でもその才は三代と続きませぬ。
天子様を蔑ろにした武家は皆滅ぶ定めなのです。
まして己が天子様に取って代わろうなどは言語道断!」
この官兵衛ほどの筋金入りの悪党にして朝廷は神聖且つ不可侵なものであった。
それをあろうことか、共に地獄まで同道すると覚悟を決めていた御屋形様が、叡山の如く天子様を煩殺そうとするとは ・・・・
秀吉は親とも慕う信長と、親子を語れぬ正親町天皇との狭間で悩みに悩んだ。
信長はどんな難題を振り向けようとも、秀吉が自分を見限るなどとはまったく思っていない様子だった。
・・・・ 毛利と四国を平定したところで、天下布武の総仕上げと称して、双方からの凱旋の大軍を以って京を封鎖して戒厳令を敷く ・・・・
・・・・ そののち、御所諸共、天子様はじめ全ての公卿や朝廷の息のかかった僧侶どもを、叡山の再現の如く殲滅する ・・・・
"神をも恐れぬ凶行"ぐらいの言葉ではとても足りぬ。
この凶行に関わった者は死した後も何千年と汚名に塗れる事となろう。
「天子様はこの機に乗じて、わしに天下を治めよと言うて下さったようだが、そのまま信じてよいのか。
それともわしとて朝廷にとっては捨て駒の一つに過ぎぬのか?」
「けっしてそのようなことはございませぬ。朝廷は捨て駒を別に用意しております。
ここは信長様の企てに乗ったと見せ、京をできるだけ長く留守にして、この謀への関与を一切疑われぬことが後々肝要でございます。
此度の備中高松城攻めは信長様の御指示通り、我らが得意の兵糧攻めで時を稼ぎ、その時を待ちましょうぞ」
官兵衛の頭の中にはすでに、秀吉の天下取りへの道筋が思い描かれているようであった。