その二十六 桶狭間
朱色の塗輿それ一点を目指して、楔の如く織田二五〇〇の全軍が突き刺さった。
分断された大軍勢は、先ず己の恐怖と戦わねばならなかった。
歴戦の三河軍は、いまだ三里先の大高城にあった。
藤吉郎が籠る輿の回りでは阿鼻叫喚の殺戮が繰り広げられていた。
真新しい朱塗の輿は、どんな大軍勢にも埋もれず、そこに必ず義元も居ることを指し示していた。
藤吉郎を守るべく輿の回りで織田方と戦っているのは、敵の今川軍であった。
次々に討ち倒されていく武者達の崩れる音が、どさっ、がしゃっと、だんだん輿に近づいて来るように聞こえた。
程なく輿のすぐ傍で、義元らしき唸り声が聞こえた。
すでに何者かに押さえ込まれているようであった。
「む、無念で御座 ・・・・ 」
義元の断末魔は、藤吉郎を御所に誘えなかったことへの謝罪であった。
閉め切られた輿の中で、 ・・・・ 藤吉郎は泣いた。
自分もこの混乱の中で死んでしまいたいと思った。
そのとき、「義元が首、討ち取ったりーーーーーーーーーーーーーー」
織田の手の者の勝利の雄叫びが戦場を貫いた。
同時に歓声と失意のどよめきが混ざり合いながら桶狭間山を駆け下りた。
全てが決した。
そのとき輿の戸が乱暴に引き開けられた。
藤吉郎は義元とともに、ここで死ぬことを覚悟した ・・・・
「猿、 来い!」
懐かしい信長の声であった。
信長は手を伸ばして輿から藤吉郎を引き上げると、自分の馬の後ろに乗せ、その場を駆け出した。
まさに鬼神の速さで混乱する今川軍のさ中を駆け抜けた。
だれもそれが敵の大将だと思う間も無かった。
信長の逃げ足の速さは、いつも戦国一であった。
止まらぬ涙と、その速さのせいで、周囲の情景すら目に入らぬ藤吉郎であった。
信長の背中の温かさを感じながら藤吉郎は思った。
自分はこの魔王の如き男とともに必ず地獄に落ちるであろうと。
それでも良いと思った ・・・・