その二十三 尾張征伐
天文十一年(1560年) 五月十八日 尾張〜三河国境の大高城
今川義元は信長の父、信秀の代より長年にわたって一進一退を繰り返してきた尾張と三河の国境の旧領を奪還すべく、大規模な織田討伐軍を仕立てて駿河を発った。
総勢二万五千の大軍勢で尾張国境に近い、沓掛城に入ったのは五月十七日であった。
その軍勢の中に、まだ十七歳の松平元康もあった。
義元の命により元康が最前線に孤立する大高城に兵糧を届けるために入城したのは、翌十八日のことであった。
その元康の元に信長からの密使として沓掛の土豪、梁田政綱ら二名が訪れた ・・・・
「元康様、織田様は幼き頃より馴染みの元康様とは刀を交えとうないと仰せであります」
それは元康とて同じであった。
元康は幼少の頃を織田の人質として過ごし、八つ年長の信長とはよく遊んでいたのである。
「某にとりましても信長様は兄とも思うておるお方にございます。
けっして戦いとうなどございませぬ。
しかし、我ら三河は、いまだ国の体すら成しておりませぬ。
今川の属領に甘んじている限り義元様の命に従い、どなたとでも戦わなくてはなりませぬ」
元康は有り体に苦しい胸の内を打ち明けた。
それを聞いた政綱は、膝を打って元康に進言した。
「実は信長様からの御提案を持参いたしておりまする」
元康は困惑の表情を呈した。
まだ若い元康には敵方から調略を掛けられた経験などなかったのだ。
しかし、元康の脇に控える三河の家臣たちの中に、当惑する若き当主に助け舟を出す者は皆無であった。
皆、元康に場数を踏ませようとしているのだ。
話を持ってきた梁田が気心の知れた三河者である安心感もあった。
「元康様は沓掛城には戻らず、このまま大高城に留まり我方の丸根砦と鷲津砦を攻撃されてはいかがでしょうか。
さすれば、『孤立した大高城の補給路を確保するため残って戦った』、という立派な口実となりましょう」
元康は驚いて梁田に問うた。
「良いのか、我らが責めればあのような小さな砦、三日と持たぬぞ」
それには、梁田の脇に控えていた蜂須賀小六が答えた。
「一日持てば充分にございます、それで元康様と信長様が、戦場で会いまみえることがなくなるのでしたらお安いものでございます」
三河者達の中に、"ここは一つ織田に賭けてみても良いぞ"、という雰囲気が広がった。
・・・・ 我ら三河者が抜けた今川軍は、頭数ばかりで実戦経験の乏しい兵ばかりとなる ・・・・
・・・・ 首尾よく織田が義元の首でも取ろうものなら、労せずして三河一国が転がり込んでこよう ・・・・
・・・・ たとえ織田が滅んでも今川からは褒美が出る ・・・・
・・・・ どちらに転んでも三河に損は無い ・・・・
この合意により、信長は今川方最強の三河軍を決戦場から排除することに成功した。
後に、家康との織田・徳川連合につながる、大きな、大きな調略となった。