その二十 太閤の遺言
慶長四年(1598年) 関ヶ原の二年前の伏見城、奥
「佐吉、もそっと、ちこう」
三成は太閤の枕元すぐ近くまで膝で進んだ。
「前々より其の方に託しこと、しかと頼むぞ」
「委細承知つかまつってございます」
「話をするのも難儀になってきよった。其の方と話せるのも最後かも知れぬゆえ誰にも明かしたことの無い秘密を明かす。人払いいたせ」
三成は御殿医をはじめ御付の者たちを下がらせた。
「徳川殿は律儀なお方である。それ故、幾度も誓紙を書き記していただき、秀頼が元服するまでの後見をお願いしておる」
三成は最近の家康の不穏な所業について、弱った太閤に直訴することができなかった。
自分自身で蹴りをつける、という自負もあった。
「おみゃーが言わなんでも、徳川殿の専横振りはわしの耳にも届いておる」
「申し訳ございませぬ」、三成は平伏した。
「武士とは、そのとき、そのとき勢いの在る者に皆、靡くものじゃ。
わしもそれを用いて徳川殿と天下を取りおうた。
徳川殿もずいぶん長きこと我慢をなされたのよ。
佐吉。我が命が尽きれば、徳川殿の権勢ますます強まり、誰も物申せなくなるやもしれぬ」
三成も同じ見立てであった。
「治部少、其の方に我慢が出来るかな」
三成は平伏したまま答えた。
「分かりませぬ、すでに我慢の限界にございます」、声が震えた。
「ふふふふ、うっ、つ、つうー」と、秀吉は苦しそうに笑った。
「はぁ、なぜ、我慢のしどころなのかを、これからそなたにとくと話して聞かせよう」
太閤から三成への長い、長い遺言が語られ始めた。
いよいよ物語の核心部分へ突入します。
次回より、秀吉から衝撃の真相が語られる。